30話  愛の本質

七下ななした あき



放課後、莉玖より先に家に着いた僕はラフな服装に着替えて、リビングのソファーに座ってスマホをいじっていた。


間もなくしてドアが開かれる音が聞こえて、僕はさっそく立ち上がって玄関に向かう。



「……莉玖?」

「ただいまです、兄さん」



目に見えたのは、普段の何倍以上やつれている莉玖の顔だった。直観的に何か起きたのを分かったけど、とりあえず僕は薄笑みを浮かべながら言う。



「おかえり、手洗って着替えてからリビングに来てね。食べたいものある?」

「いえ、大丈夫です。では」



莉玖は、疲れたように笑いながら階段を上って自分の部屋に行った。僕はその後姿をぼうっと見ながら、頭をガシガシと掻いてリビングに戻る。


今日のお昼休み、確か江藤さんがいないってクラスのヤツらから聞いたけど。まさか……?



「兄さん」

「あ、うん」

「膝の上、失礼しますね」



ごく当たり前のように、莉玖は僕の膝の上に座って背中を預けてくる。甘えるように、僕の腕を掴んで自分の首に回しながら、腕首に頬をスリスリしてきた。


…………………本当に、反則だろこれは。こんな真っ白な髪の毛から、こんなにいい匂いがするなんて。


同じシャンプー使ってるのに全然違うし、おまけにこんな子動物みたいな仕草……全く。



「……ふふふっ」

「どうしたの?」

「兄さんの匂いがして、幸せですね。とっても落ち着きます」



……やっぱり、何かあったのだろう。


僕は莉玖をぎゅっと抱きしめながら、首元に顔を埋めて目を瞑って、そっと聞いてみた。



「何かあった?」

「……本当にズルいんですから。何もなかったと言っても、絶対に信じてくれなさそうな口調じゃないですか」

「当たり前でしょ?莉玖のことだから」

「…………兄さん」

「うん」

「一体、誰が悪いんでしょうね」



含みのある言葉を放った後、莉玖は次々と説明を述べて行った。



「今日のお昼休み、兄さんが前に言っていた江藤先輩……江藤志津先輩に、呼び出されたんです」

「まさか、そこで酷いこと言われたとか……」

「違います。いえ、違わないんですが……」

「……江藤さんにははっきり言っておくね。ちゃんと釘を刺しておくから」

「いいんです、兄さん」



莉玖の柔らかくて、ちょっとだけ冷たい手が僕の手を包んでくる。張り詰めて強張っていた思考が、ちょっとだけ緩くなったような気がした。



「たぶん、酷いことを言ったのは江藤先輩だけじゃありませんから」

「……どういうこと?」

「言い合いがあったんです。最初は噂のことを聞かれて、次には兄さんと付き合っていると言ったら私の単なる思い込みだと言われて……その時に、ものすごくイラっとして」

「…………………」



ぶるぶる震えている手つきで僕の腕首をぎゅっと掴んだまま、莉玖は言葉を続けた。



「……全部、言ってしまったんです」

「…………………」

「兄さんとは実際にもそういう関係です。兄さんが私の初めてを全部奪いましたと……あの人を諦めさせたくて……言ってしまって」

「………なるほど、そっか」

「………ごめんなさい、兄さん」

「いや、謝ることでは………そうだな。江藤さんがその気になれば、また噂に火がつくしね」

「……………」



そっか、莉玖がなんでこんなに子動物みたいになってるのか、何かを怖がっているのかようやく分かった気がする。


たぶん、莉玖の性格上オブラートな言葉は出て来なかったはずだ。口から流れ出したのは生々しい現実の物語で、たぶんその中には江藤さんのメンタルを削るような発言が、たくさん含められていたのだろう。


そして、その言葉は漏れなく、私たちの弱みに直結する。ただでさえ噂のせいで一度別れたのに、もし江藤さんが逆ギレして噂をばらまかせたりしたら……その時は、事態がもっとややこしくなるかもしれない。



「ごめんなさい……ごめんなさい、兄さん。ごめんなさい……」

「怒ってないよ。本当だから」

「兄さん、私は……」

「ごめんね、莉玖」

「……………………はい?」

「僕がもうちょっと器用な人間だったら、莉玖もこんな苦しい思いをせずに済んだのにね。そっか……また噂が立つかもしれないのか」



ようやく視線を合わせてくれた莉玖の目には、もうたくさんの涙が溜まって一粒ずつ頬を伝って流れていた。


赤い目が恐怖心と罪悪感に塗りつぶされて、不安になっている。


その涙を親指で拭いながら、僕は苦笑する。



「……まあ、来るべき時が来たって感じかな」

「……………兄、さん」

「怒れないよ。もし逆の立場だったら、僕だって莉玖と同じ行動を取ると思うし……うん」



莉玖に伝えた言葉は単なる気休めじゃなく、本音だった。


もし、莉玖を好きな誰かが僕に向かって急に別れろとか、お前の思い込みだろとか言われたら、確実にキレ散らかす自信がある。


僕たちのことを何も知らないヤツが、勝手に土足で割って入ろうとしているのだ。ムカつくのが当たり前だ。



「……兄さん」

「うん?」

「私は、変だと思います」

「…………………………莉玖」

「私も、普通でありたかったんです。こんな見た目じゃなくて、みんなのように普通な見た目で。周りからあんまり意識されずに、ただ兄さんと幸せに……イチャイチャしながら、楽しい恋愛をしたかったのに」

「大丈夫だよ、莉玖」

「でも、わたしがこんなだから……こんな見た目してるから、兄さんまで巻き添えにして。こんな性格だから、兄さんを困らせて……ごめんなさい、ごめんなさい、兄さん。こんな妹で、本当にごめんなさい………」

「……そこまで。それ以上は何も言わないで」



わざと声を低くしたら、莉玖はビクンと肩を跳ねらせて僕を見上げてきた。



「こんな見た目で、こんな性格だから僕は莉玖を好きになったんだよ。僕は莉玖のすべてが……文字通り、すべてが好きなんだから。たとえ莉玖本人が自分のことを嫌いだとしても、僕がいる前で僕が愛している人を否定するのは、許さない」

「…………………兄さん」

「僕はね、本当に毎日思うんだよ。莉玖が妹でよかったって、銀色の髪で赤い目をしていてよかったって」

「………わ、私は……」

「一度莉玖を振った僕が言うのもなんだけど、僕は本当に、莉玖となら行くところまで行ってもいいと思ってるんだ。だから、噂が立って周りからどんな反応をされようが、僕は構わないよ」

「…………………………」



……健康的な愛を望んでいた。


そう、莉玖が言ってくれたように。日差しの下で笑い合って、お互い何のくすぶりもなくイチャイチャして、周りからもたくさん祝福されるそんな愛を、育みたかった。


でも、仕方ないと思う。莉玖がいない日差しの下を歩くくらいなら、陰で莉玖と手を繋いだ方がよっぽどマシだ。


周りになんて言われようが、もう僕には莉玖以外の選択肢がなくなっている。



「……大好き」

「……ふふっ」

「なんで笑うんですか……?ズルい、こんなのズルい……大好きです。一緒に、一緒にいて……兄さんがいてくれないと、私ダメなの……」



体を回して、ほぼ抱き着くような勢いで莉玖は僕の首元に顔を埋めて、泣き始める。よほど江藤さんとの一件でショックを受けたのだろう。


……僕は、まだ知らない。


この先、何が起るかまだ知らない。どんな思いをして、どんなに負の感情を噛みしめることになるのかを知らない。たかが高校生で、まだまだ子供だから。



「ありがとう、莉玖。いつも傍にいてくれて」



でも、他のすべてを犠牲にしても手放したくない恋が、今懐の中にいる。


僕が莉玖を選ぶ理由だった。手放したくない人。離してはいけない恋。


僕たちの愛の本質は、そんなものなのかもしれない。

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