29話  ごめんなさい

七下ななした 莉玖りく



「あの、七下さん」



お昼休み、美紀みきと弁当交換をしながら感想を語っていた最中に、ふと耳慣れない声が響いた。


座ったまま顔を上げると、名前も知らないクラスメイトのぎこちない笑顔が目に入る。首を傾げると、そのクラスメイトは親指で教室のドアの方を指さした。



「あの……2年の江藤えとう先輩が」

「えっ、2年の先輩がなんで?」

「私が知るわけないじゃん」



美紀が目を真ん丸にして聞き返している中、私はゆっくりと後ろのドアの方へ視線を向けた。


ここからはよく見えないけど、ドアの近くにいるクラスメイト達がざわついている気がした。


それに、江藤……その苗字は、兄さんが一昨日に言及していた苗字だ。つまり、あの人は兄さんのことが好きなのかもしれない人。


たぶん、私が兄さんと付き合っているという噂のことが気になって、ここまで訪れて来たんだろう。本当に、大した行動力だ。



「ごめんね、美紀。弁当の感想は、後でメールで送るから」

「……莉玖」

「行ってきます」



私が立ち上がった途端に、教室の中が静まり返る。みんな、私とこのドアの向こうにある謎の先輩に全神経を集中しているみたいだった。


私は、表に出てその先輩に向き合う。



「あなたが、七下莉玖さん?」

「……はい。先輩の名前、聞いてもいいですか?」

志津しづよ。江藤志津」



……可愛い人だ。


肩まで伸びている赤い茶発と、同じ色の瞳。目鼻立ちも整っていて、私とは真逆に明るくて元気な印象を持っている人だ。


たぶん、クラスの中でもかなり中心人物で、文化祭や体育祭の時にはリーダとしてみんなを引っ張って行く存在なのだろう。私とは何もかもが違う、不思議な人。


だからか、美人だと認識した途端に胸の端っこが痺れるような感覚がした。



「話したいことがあるけど、時間いいかな?」

「……はい。私は構いません」

「うんうん!じゃ、ちょっとだけ時間貸して?校舎裏に行こうよ、ここじゃちょっと話しづらいから」



あくまでも活発な口調で、気さくな笑みと共に江藤さんは前に進んで行く。私はその後を追いかけながら、なんとなく感づくことができた。


この人はたぶん、兄さんのことが好きで。


その上で、私という存在を判断しに来たのだろう。私が自分の恋愛において友好的なのか否かを判断するために、私を連れ出しているのだ。


……そして、背を向ける前に一瞬だけ見せてくれた、あの冷たい目つきを踏まえたら。



「ここにしよっか。あ、でも声は抑えてね?周りに人はいないけど、念のために」

「はい、分かりました」



この人は既に、私を敵として見なしているのだろう。


その認識は、あながち間違いでもなかった。私だってこの人を敵だと思っているから。ライバルだなんてロマンチックな言葉、少なくとも私たちには似合わない。


この人は、兄さんの周りをうろうろしているお邪魔虫だ。


人通りの少ない校舎裏の駐車場で、江藤先輩はすぐさま話を切り出した。



「まあ……単刀直入に言うね?」

「はい、どうぞ」

「つい最近までね、ちょっと変な噂あったじゃん?あなたの兄の七下君……あ、私はあなたの兄のクラスメイトなんだけどさ。そんで、七下君とあなたが付き合ってると言う噂があったじゃない?」

「そうですね」

「その噂、デマだよね?」



事も無げに、平然とした面持ちで江藤先輩はそういう質問を投げてくる。


どう答えるべきか一瞬迷った。校舎の建物に塞がれて、日差しが全く降って来ない影の中で、私は目をつぶる。


……兄さんのことを、兄さんの評判を考えたら、ここで出すべき答えは肯きだ。肯定。付き合ってませんと言い切ること。軽く首を振るだけで、そういう表向きな平和が守られる。


……………ふふっ、でも。



「いいえ、違います」

「………………え?」

「本当ですよ?あの噂は」



でも、肯けるはずないじゃないか。


兄さんとの関係を否定しろと?冗談じゃない。首が絞められてもそんなことはできない。死んだ方が全然マシだ。私が持っている愛は、そんな類の愛だから。


江藤先輩は下の唇を噛んで、思いっきり顔をしかめていた。



「……じゃ、あなたは七下君と、今も付き合ってる……ってことでいい?」

「いえ、私は兄さんにフラれました。それ以来、兄さんからよりを戻そうとは言われていないので……とても付き合っているとは言えませんね」

「……変な言葉遊びはよして。じゃ結局、二人はどんな関係なの?」

「そうですね」



………ごめんなさい、兄さん。


極端で歪な女で、ごめんなさい。でも、できないんです。


この女が兄さんの隣を歩くなんて、想像するだけでも嫌ですもん。



「運命、です」

「………は?」

「陳腐な言葉ではありますけど、どうしても言葉で表現するなら、それが一番近いですね」

「運命って……あなた正気なの?」

「はい、正気ですよ?」



狂ったものを見るような呆れ顔で、江藤先輩は首を振り続ける。



「……七下君、こんなものに囚われていたのか」

「ぷふっ、確かにそうですね。こんな女ですもんね、私」

「笑わないでよ。噂が立った時点から思ってたけど、あなたやっぱり病院にでも行った方がいいわよ?」

「ふうん、なんでですか」

「なんでって……あなたは一人で思い込んでるだけでしょ!?七下君とそんな運命なんかで結ばれているって思い込んで、七下君を手籠めにして遊んでいるじゃない!」

「ぷふっ、あはははっ!!」

「何が可笑しいのよ、このメンヘラ女!!」



声を抑えて、と最初に言った言葉は丸っきり吹っ飛んだのか、江藤先輩はいつの間に声を高めて私をののしっていた。


綺麗な顔に冷や汗みたいなものが出ていて、彼女はちょっとした恐怖心まで混ざっている表情で私を睨んでいる。


そっか、これが普通か。これが現実か……まあ、そうだよね。


私、確かにちょっと病んでるもんね……でも。



「私が兄さんを手籠めにしていると?笑わせないでください。手籠めにされているのは、むしろ私の方なのに」

「………………………は?」

「知っていますか?私の初めては、全部兄さんなんですよ?」

「………………………………………………は?」

「初恋も、キスも、デートも、処女も、心も体も全部……全部兄さんが奪ったんですよ?時には優しいけど、時には獣のように、私は兄さんに全部食べられちゃったんです」

「…………………………」

「あなたが兄さんにどんな幻想を抱いているのかは分かりませんが、これだけは言っておきます。兄さんはあなたが見ているより遥かに優しい人で、また遥かに………歪な人なんです、私みたいに」

「…………ふ、ふざけないで!!」

「ふざけてませんよ。私はただ、事実を述べているだけです」



江藤先輩は酷く混乱した様子で、口元を片手で隠しながら目を見開いていた。私は兄さんに悪いことをしているという自覚を持っていながらも、勝手に滑る口を止められなかった。


私たちの世界には私たちしかいない。そこには他人が持ち出してきた常識とか、普通が入る隙間がなくて。


ごく小さいけど決して崩れることのない二人だけのモラトリアムが、もう私たちの中では出来上がっている。


それを他人が理解しようがしまいが、もう関係のないことだ。



「あなたは……あなたは倫理観というものがないの!?」

「倫理観、ですか……私たち、あくまでの兄弟ですよ?」

「だとしても!!それでも兄弟でしょ!?守るべき節度と倫理があるじゃない!!!」

「兄弟である以前に、男と女なんです。先輩にそうやって罵られるほど悪さをした覚えはないのですが」

「うるさい!!あなたたちは狂っている!!そんな不道徳な……!そんなこと、あんたたちの両親や他の人たちが許すわけないでしょ!!」

「声を抑えてください、先輩。最初に声を低めにしろと先輩が言ってたじゃないですか。それに、ここは公共の場ですよ?」

「……………………………くっ!!!!」

「あははっ、あはっ……!!ああ、そうですね。その通りです。あははっ……あははっ!」

「何が……何がそんなに可笑しいのよ!!」

「………………人の愛って、誰かの許しが必要なものなんでしょうか」



切なげな声で、苦笑を浮かべたまま首を若干傾げてから、私はそう言い放つ。


簡単な話なのに。男と女が一つの屋根の下で暮らし始めて、すぐ目が合ってエッチなことをして、深く愛し合う……そんな物語でしかないのに、江藤先輩はそれを許してくれない。


そっか………この人も、実はある程度察してるのだ。兄さんが私のことしか思っていないことを、言葉や行動の端々で上手く感じ取ったんだろう。


だから、こうやって動揺しながら私に悪態を吐いているのだ。



「……………………あなた、やっぱ病院に行った方がいいわよ」

「ふふふっ、頑張ってくださいね」

「はあ!?私に情けでもかけるつもり!?」

「いえ、違います。敵に情けをかけるわけないじゃないですか。でも、どうせ江藤先輩は兄さんのことを諦めませんよね?」

「………………………………っ!」

「頑張ってください。辛い思いをたくさんするとは思いますが」

「………………………この!!!」

「お~~~い。莉玖?」



いよいよ胸倉でも掴まれてビンタでもされそうになった時。


後ろからぴょこっと響いた呑気な声が、場の熱を一気に鎮める。振り返れば、そこには親友の美紀がいys。


美紀は、いかにも平然とした面持ちで私に手招きをしていた。



「先生が呼んでる~~科学の授業で使うもの、整理して欲しいんだって~~」

「あ………うん。分かった。それでは、先輩。私はこれで」

「…………………………」

「………………………失礼します~」



拳をぶるぶると震わせている江藤先輩を放っておいて、美紀と私は素早くその場から抜け出した。


教室に向かっている最中、美紀は深くため息をつきながら私に言う。



「いくらなんでも、やりすぎじゃん」

「………うん、ごめんね」

「いや、私に謝ることじゃないし。まぁ、向こうもめっちゃくちゃ言葉遣い荒かったけどさ」

「本当に醜いよね……私」

「……莉玖」

「うん?」

「大丈夫?」

「………大丈夫じゃないかも」



……疲れた。


江藤先輩にかけた声が冷えていた分、体の中では燃え尽くすような熱が駆け回っていた。風邪でも引いたみたいに全身が熱いのに、手先は冷えてぶるぶるしている。


どんな感情に流されてこうなったのかは、分からない。ただ、私の理性を簡単に流せるくらいには強い荒波だった。


……やっぱり、江藤先輩の言う通り、私は病んでいるのかもしれない。



「これからまた騒がしくなるな~江藤先輩、ただじゃ済まなそうだし」

「………美紀。噂が立つ前に、今でも早く私に離れた方が――――」

「あああ~~~~聞こえない~なんも聞こえな~い。このバカ」

「…………………………でも」

「もう一度言ったら本当にキレるからね。分かった?」

「……………………………」



私の愛は、私のエゴは周りの人に迷惑をかける。


兄さんと、美紀と、両親にまで迷惑をかけてしまう。私が抱いている感情の色が濃すぎるせいで、そうなってしまう。


自己嫌悪だけが沸いた。私がもっと器用な人だったら。もうちょっと性格がよかったら……いや、そもそも銀髪赤眼とか、こんな魔女みたいな見た目じゃなかったら。


兄さんと普通の恋愛をして、普通に幸せになれたかもしれないのに………そんな普通が、どうしてもできない。


ブレーキは壊れているのに、車は走っている。残っているのはどっかにぶつかって、勢いが鎮まるのを待つだけ。


………兄さん。



「……ごめんね」



本当に、ごめんなさい………。

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