27話  する前に

<七下 莉玖>



夕食を食べ終えて、兄さんに嫌な思いをさせないようしっかりと歯磨きを済ませた後。


私は素早く着替えをしてから、ベッドの縁に腰かけて兄さんが来るのを大人しく待っていた。間もなくしてドアがノックされて、私は短くはい、とだけ答える。


そして、中に入ってきた兄さんは私の姿を見た途端に、目を見開いた。



「莉玖、それは……」

「……どうかしましたか?兄さん」



あまりにも警戒心がなさすぎる黒いネグリジェ姿で、私は淡く微笑んでみせる。


家族と一緒にいる時は部屋着のワンピースを着ていたけれど、ブレーキが壊れた私にはもう、この服装しか思いつかなかった。


私を、女としてみてくださいと訴えかけるような薄着。男を部屋に招き入れる女にしてはあまりにも露骨な服装。


……ふふふっ。



「兄さん?目が怖いですよ?」

「……正直に言って、莉玖」

「何をですか?」

「僕がいない間に、僕の部屋のベッド使ったんでしょ?」

「………どうして、そう思うのですか?」

「匂いが染みついてるからさ。ベッドにも、机にも、どこにも」

「……ふふっ、バレてしまいました」



ドアが閉ざされたのを確認してから、私は立ち上がってゆっくりと兄さんに近づく………そう、炎。炎だ。


今日何時間も蓄えてた炎が理性を燃やし尽くして、外に出たいと体中でうごめいている。兄さんに触れないと、私は爆発してしまいそうだった。


そして、それは兄さんも同じだったのか。



「………っ!」

「えっ、兄さ……きゃっ!?」



耐えられないと言わんばかりに兄さんが私を押し倒した時には、思わず甲高い声を上げてしまった。


ベッドの上で、兄さんは私の上に乗っかって自分の背中に掛け布団をかけている。逃げられない、と悟った瞬間にはもう、私の唇は兄さんのモノになっていた。



「に、兄さん……うむっ!?ちゅっ、んむっ、ちゅぅ……んむぅぅぅう!?!?」



……キスの熱で感じられた。兄さんも我慢していたんだって。兄さんも私と同じくらい、私に会いたがってたんだって………。


…………幸せ。


幸せ過ぎて、涙が出ちゃいそう。なにこれ、本当に耐えられない……。



「はぁ……に、さん……」

「はぁ、はぁ、はぁあ………」

「……下にお母さんたち、いるんですよ?」

「……………………」

「お母さんとお父さんが、リビングで仲良くテレビ見てるんですよ……?ホテルでしてたように激しくしたら、絶対にバレちゃいますよ?それでもいいんですか?」

「……つまり、莉玖はしたくないと?」

「……ふふっ、さっきお母さんたちの前で演じていた自慢の息子は、どこに行ったんですか?」

「知らない。僕はそんな人間じゃないんだよ」

「……そうですね」



兄さんは、いつだって優しい。


いつだって優しくて頼りになって、成績もよくて落ち着いている。兄さんに惹かれる女の人が一人や二人現れたとしてもおかしくないくらいには、兄さんは素敵な人だった。


でも、私だけはそんな兄さんの本質を知っている。


兄さんは、ケダモノだ。男だ。いつも私を気遣って私の幸せを第一に優先してくれるけど、私を貪る時だけは話が通じない獣になって、私のすべてを味わい尽くす勢いで、私を吸い取って行く。


優等生なんかじゃない。自慢の息子なんかでもない、ただの人間。


……そう、恋に落ちてしまった人間。



「私は、いい人間にはなれそうにないですね」

「……そうだね。莉玖は元からそういう人間じゃなかった」

「心外です。兄さんにとっては、ずいぶんとミステリアスな妹に映ったのでは?」



もう離れる気はなくて。


私は両手両足を全部使って、兄さんを私の体で縛り付ける。どこにも行けないように、私の全部で兄さんを抱いた。


少し窮屈な体重さえも愛おしく感じるほど、私はこの人のすべてを愛していた。



「そんなこと自分で言うんだ。ミステリアスって……」

「こんな見た目じゃないですか。銀髪に、赤い瞳に、美少女ですもん」

「ぱはっ……そうだね。一時期、そういう時もあったよね」

「今は、どうなんですか?」

「今は……」



ベッドと私の背中の間に、兄さんの両手が挟まれる。


布団を被って熱い中、息を呑んだ私に向かって兄さんは囁くように小さな声で言った。



「兄を思いっきり誘惑している、悪い妹……かな」

「っ……!ふ、ふふっ……」

「なんで笑うんだよ」

「いえ、その通りだと思って……昔からもずっと、誘惑していましたもんね。兄さんのこと好きになってから……いえ、私たちが初めて会った時から、ずっと」

「……この悪い妹め」

「ごめんなさい。兄をたぶらかす悪い妹で」



昼間にあんなに薄まっていた兄さんの匂いが、確かなものになって私の体の隅々まで染み渡って行く。


互いの体は熱くなり切って、もうすぐにでも肌を擦り合わせて、貪ることができる状況になった。ただ家の中で、両親が下にいるという事実が辛うじて私たちを押しとどめていた。


……でも、私たち二人とも知っている。


どうせ、私たちは重なる。いつものように、私の口に兄さんの指を入れられて、半強制的に声を我慢させられながら、する。


そして私は何をされても、喜んで受け入れてしまうだろう。



「……する前に一つ、お聞きしたいことがあるのですが」

「うん、なに?」

「今日の勉強会のメンバーで女の人もいるって、兄さん言っていましたよね」

「………そうだね」

「その中で、兄さんのことが好きな人はいませんでしたか?」



敏感な質問をした自覚はあるけど、口の動きを止められなかった。


兄さんはどうせ私から離れられない。それを分かっていても、他の女の影があるのとないのでは、かなりの大きな違いがある。


肌が触れ合って、息遣いがかかりそうなほど間近な距離。私が投げた問いに、兄さんはしばらく沈黙した後、急に私をぎゅっと抱きしめて来た。



「……告白しなきゃいけないことがある」

「……いるんですね?」

「いや、まだはっきりそうと言える段階ではないけど……なんとなく、そんな感じはするって言うか、そのくらいで。僕が告白したいことって、違うもんなんだ」

「ふうん、なんですか?」

「………噂のことを、聞かれてね」



………………ああ、噂。なるほど、あれか。兄さんと私が付き合っているという学校の噂。



「はい、聞かれて?」

「……莉玖のことを否定するような返事を、してしまった」

「具体的には?」

「噂のこと、デマなのかと聞かれて……そうかもしれないと、答えたんだ」



そうかもしれない……そうかもしれないか。


……本当に、不器用な人。当事者である私でも分かる。兄さんの答えは、全然真っ当な答えになってない。


否定にも肯定にも、どちらにも傾いていない中途半端な言葉。たぶん、あの質問をした人は返事を聞いた瞬間に私と兄さんの関係を察するだろう。


普通に困る。周りからぐちぐち陰口を叩かれるのはもうごめんだ。何度されても、嫌な気持ちで頭がいっぱいになる。


……………それでも、全く怒りが湧いてこないのは。


きっと、私もこの人も壊れているからだ。



「そうですか。兄さんは私を否定したのですね?」

「……………………ごめん」

「………私、兄さんが家を出てから、ずっと兄さんの部屋にいましたのに」

「……………………」

「兄さんのシャツを取り出して匂いを吸って、両親にバレないように優しく抱かれたことを思い出して、そういう気持ちになってたのに。兄さんは今他の女と遊んでいるだろうなと思って、気が狂いそうになってたのに………兄さんは私を否定していたのですね」

「……………………」

「そういえば、お母さんたちの前でも私と付き合ってたことを内緒にしてたじゃないですか。兄さんは、こんなにも一途な私を捨てるんですね」

「そんなわけじゃ……!」



……分かっている。


これは、私の意地悪だ。兄さんの行動の軸にはいつも私がいる。私の幸せだけを兄さんは願っていて、そのためなら命まで捨てられるバカな人が、私の兄さんだ。


不器用で、素直で、ウソがつけない。両親の前で振る舞うように世間を上手く渡り歩くことさえできるのに、自分の中にある呆れるくらいの純粋さで、足を引っ張られる人がこの兄さんだ。


怒りなど、感じられるはずがない。愛くるしさだけが抱きしめる力と、胸のトキメキに繋がって行く。


苦しい顔をして反省している兄の顔を見てると、背中がゾクゾクしてたまらなかった。



「……また、躾をしなきゃいけないですね」

「躾って……なに?」

「忘れたんですか?いつの間にうやむやになってしまいましたが、兄さんは今も私の言いなりなんですよ?兄さんに、私の命令を拒む権利なんてない………別れた直後に言ったじゃにですか。もう忘れたのですか?」



合点が行ったように、兄さんは驚いた顔をしてから苦笑を零す。背中に抱きしめていた両手を私の頬に添えて、愛おしさに満ちた視線をくれた。


……滑稽な話だ。躾けられているのは私なのに。



「今から二つ、兄さんに命令をしますね」

「………一つ目は?」

「兄さんに興味を持っているその女の人の名前を、教えてください」



プライバシーを気にしてるのか、兄さんは一瞬戸惑っていた。私はそんな兄にお仕置きとばかりに、背中に回した足に力を入れる。


結局、兄さんは口を割ってくれた。



「……江藤さん。江藤志津えとうしづって言うの」

「……なるほど。江藤、志津さんですか」

「莉玖、まさか江藤さんに何か―――」

「するはずないじゃないですか。兄さんは私のものですから」

「………………………」



嫉妬の念が全くないと言えば、ウソになるけど。


少しだけ気に障るくらいで、不思議と不安になったりはしなかった。だって、この人は私から離れられないと分かってるから。


部屋の空気が、布団の中が熱い。そんな肌をずっとすり合わせているせいなのか、兄さんも私も少しずつ身をくねらせて、意識が朦朧としていくのが分かる。


いつの間にか潤んでいた瞳で、愛する人の顔を見上げながら、私は言う。



「……二つ目の、命令です」

「……うん」

「下準備はいらないから……抱いて?」



両手を兄さんの頬に添えて、荒くなった息遣いが届く距離まで近づいて、私は言う。



「今日寂しかった分、埋め合わせして?」

「下に、父さんたちいるのに?」

「一回二回でもないじゃないですか。何度も、ケダモノみたいに私を組み伏せたくせに」

「声、漏れちゃうよ?」

「キスをするか、いつものように私の口に指を入れるか。それは兄さんの選択次第です」

「……今日は、優しくできそうにないけど、いい?」

「……それは、私もです」



顔を上げて兄さんの耳元に近づいて、囁いた。



「浮気者の兄さんなんか、絶対に寝かせてあげませんので。今日は覚悟してくださいね?」

「…………………」

「二度と、私のことを否定できなくしてあげますから。自分が誰のモノなのか、しっかり脳に焼き付けてください」



……ごく小さな思いを無理やり膨らませて、こんな意地悪な言い方してしまったけど。


優しい兄さんは、きっとどこまでも受け入れてくれるだろう。



「兄さん」

「うん?」

「………大好き」



私をこんな風にしたのは、紛れもない兄さんだから。

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