24話  教えて

七下ななした あき



それは、今からちょうど1年半くらい前の出来事。


まだ僕たちが性的に交わっていない頃の話。お互いのことを意識していても、直接的な行動には移らなかった頃の話。



『兄さん、ちょっといいですか?』



テスト期間だから部屋で勉強していたところで、急に莉玖りくが訪ねて来たのだった。



『うん、入っていいよ』

『お邪魔します』



莉玖は自分の部屋に置かれている小さな丸椅子を持って、中に入ってきた。



『ちょっと分からないところがありまして。よかったら、教えていただけませんか?』

『もちろん。どこなの?』



冬であるにも関わらず、莉玖の服装は全体的に薄めだった。パジャマじゃなくて白いTシャツの上に亜麻色のフードパーカーを羽織って、下は黒いショートパンツ。


そんな服装のまま、莉玖は僕の真横に腰かけて体を前に屈めていた。


確かな存在感を放っている胸とお風呂上がりの莉玖の香りが、僕を段々と緊張させていて。今思い返すと、それは明らかに狙った行動だった。



『すみません。兄さんも忙しいでしょうに』

『全然いいよ。で、どこが分からないの?』

『えっと……』



今みたいな乱暴な触れ合いではなく、時々掠めて行くだけのもどかしいスキンシップ。


莉玖の肩が僕の腕に触れたり、同じくペンを持っている指先が触れたりするくらいの、もどかしい距離。


でも、あの時の僕たちにはそれだけでも十分だった。


それだけでも莉玖の顔は分かりやすく真っ赤になっていたし、僕もまた顔が熱くなるのを感じながら、どうにか数学の問題を教えていた。



『で、この線がこの点に繋がって……こんな三角形が出来上がるわけ。理解した?』

『………はい』



でも、時間が経つにつれて、段々と僕はある事実に気付いて行った。


参考書のページを開くたびに、さっき教えた問題よりも難易度の高い問題がいくつか解けられていたのだ。


莉玖はそれをバレないためにあえてページをめくる速度を速めていたけど、僕は一瞬でそれを見受けていた。


……そういえば、確か義母のあおいさんにも聞いたことがある。莉玖の成績はいつも優秀だって。あの時はなんとなく肯きながら聞き流していたけど。



『……莉玖』

『……はい、兄さん』

『正直に言って』



莉玖はシャーペンを握っている手をビクッと震わせたけど、何も答えなかった。



『怒らないから、正直に言って欲しいな』

『……何を、言っているんですか?』

『知ってるでしょ?ここの14番が解けるのに、この問題で詰まるなんてありえないよ。応用のベクトルは違っても、このレベルの問題なら簡単に解けるんじゃない?』

『……本当に、分からないんです。私は兄さんが何を言っているのか、よく分かりませんね』

『…………』



どうすればいいか、分からなかった。


この頃の僕は、確かに莉玖に侵食されていた。莉玖のことを目で追っていたし、それと同時に莉玖を好きになってはならないとも思っていた。


両親と世間体を考えたら、気安く莉玖に近づくことができなかったのに。


突き放した方がいいと、今すぐにでもこの参考書を閉じた方がいいと頭では分かっているのに。


でも、隣にいる莉玖が魅力的過ぎて、高校一年の僕にはその当たり前ができなかった。



『……続けてください、兄さん』

『莉玖……』

『知りませんから……私は、何も知りませんから。早く、続けてください』

『……………………僕たちは、兄弟だよ?』



たかが勉強を教えるだけなのに、なんでこんな言葉が出て来るのか自分でも分からなかったけど。


でも、そう言わざるを得なかった。あの頃には、あの行為にはそれほどの意味が込められていたから。



『……兄さん』

『兄弟だから、ダメだよ。こんなことしちゃ』

『………私は、ただの女の子なんですよ?』



そう言いながら、莉玖はたどたどしく自分の頭を僕の肩に乗せて来ていた。



『なっ……!』

『……動かないで』

『……………』

『……女の子、女の子なの。女なの。私、兄さんの妹である以前に、女なんですよ?』

『……莉玖、お願い』

『兄さんも、私の兄である以前に男じゃないですか』

『やめて、莉玖。こんなところ、両親に見つかったら―――』

『――――何も変わりません』



まるで縋りつくように、莉玖はぐっと私の腕を握ってから囁いていた。



『変わらない。変わりません。お父さんにもお母さんにも、私たちの本質は変えられません。今、兄さんは私を見ていて、私は兄さんを見ています』

『……………』

『………お願い、兄さん』



好きだとは言ってなかった。


愛してるとか、一緒にいたいとか、そういう直接的な表現は何一つ交わされていなかった。僕たちの間にあったのは、ただ視線の交換と事務的な家族としての会話だけだった。


なのに、まるで当たり前のように僕たちはお互いにハマっていた。気付いたらお互いのことしか見ていなかった。


運命とはこういうものだと、まるで頭の中に叩き込まれているみたいだった。



『……ほら、兄さん。問題、教えて?』

『……………………』

『……お願い、教えて?私、何も知らないから』

『……………………』



初めて、莉玖に愛情というものを注がれたこの日を境に。


僕たちの関係は、段々とただれて刺激的になって行ったのだ。







「お~~~い!七下君?」

「うん?ぁ…………」



沈んでいた意識が急に浮かび上がるような感覚がした。


僕はパッと目を見開いて、隣にいる江藤えとうさんに目を向ける。



「どうしたの?もしかして眠い?」

「ああ、いや。そういうわけじゃないんだ。ただ……まぁ、昔のことをちょっと思い出してね」

「昔のこと?数学教えてるのに?」

「まあまあ、そんなこともあるだろ?ほら、問題全部解けたの?」

「バッチリ~あはっ、ありがとうね。やっぱり七下君は頼りになるね~」

「これくらいで大げさだな……」



……そうだ。勉強をしに来たのだった。男4人と女4人の8人組で、効率のためにペアを分けて。


そして、僕と江藤さんが同じペアになって数学の勉強をしていて……数学か。



「江藤さん、これ知ってる部分だよね?ケアレスミスじゃない気がするけど」

「ええ~~分かんないよ~本当だからね?」

「ウソつけ。ここの問題解けてるのにこんな算数解けないとか、有り得ないだろ」

「本当に分かんないから、七下君が教えてよ」



………同じだ。


あの時の莉玖と同じ行動を、江藤さんが取っている。知らん顔をするのも、二人とも案外数学に強いのも、全部あの時と同じだ。


でも、不思議に莉玖を相手にしてはあんなに高まっていた鼓動が、今は雪でも降ったみたいに静まり返っていた。


そうか……これが、たぶん江藤さんと莉玖との違いだ。


別に、江藤さんが僕のことを好きかどうかも分からないけど―――少なくとも僕は、心からそう感じていた。


何となくだけど、僕にとって莉玖を超えられる女性はこの先現れないと、確信することができた。


……そう、それが僕にとっての当たり前。僕が僕で生まれて来た以上、くつがえすことのできない定め。



「……仕方ないな、ほら」

「えへへっ」



……会いたいな、本当に。


笑顔を湛えながらも僕の頭の中には、やっぱり莉玖しか存在しなかった。

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