19話 不安と決意
<七下 秋>
いつの間にか日が落ちていた。
僕たちは一緒にシャワーを浴びた後に部屋を出て、ついに今日の目的地であった海に到着した。
夕方になったからか、人の影はほとんど見当たらず、周りには波の音だけが響いていた。
涼しくなった砂浜に腰を下ろすと、莉玖も僕と並んで座る。三角座りをした莉玖の髪が、海風に少しだけ靡いていた。
「……兄さん」
「うん?」
「……腰、痛いです」
「うっ……ご、ごめん。ホテルに戻ろうか?」
「いいえ、いいです」
ザァーと波打つ海を目の前に、莉玖は僕の隣でとびっきりの笑顔を見せてきた。
「痛みが、いいんです。兄さんが私を抱いてくれた証拠ですから」
「……莉玖ってよくそんなこと言うよね。痛いのが好きだとか」
「それは心外です。言っておきますけど、私にそんな特殊な性癖はないんですからね?」
「あはははっ」
つい声を出して笑ったら、莉玖はムスッとした顔で頬を膨らませる。
パンパンになった頬を人差し指でそっと押したら、空気が漏れ出て自然としぼんでいく。真っ白でつやつやな、妹の頬。目を細めながらも口元は笑っている、幸せそうな表情。
よかったと思った。嬉しかった。莉玖のあか抜けた笑顔を見るのはいつぶりなのだろう。
このまま直視してたらまた我慢ができなくなりそうで、僕は視線を海に戻した。
「……兄さん」
「うん?」
「よかったんですか?」
「何が?」
「私を、自らの意志で抱いたことが………」
「そうだね……」
短く答えて、視線を宙にやった。正直に言うと、全然よくはない。
「莉玖を抱いてる時にね、ふと思ったんだ。ああ、僕は本当にどうしようもないヤツなんだって」
「…兄さんは、何も悪くありません」
「ううん、僕が全部悪いんだよ。莉玖とちゃんと話し合いもせずに勝手にフッて、そのくせに感情に負けてまた莉玖に溺れて……僕は本当に、情けない男なんだ」
「私の大好きな人を、そんなに侮辱しないでください」
「あははっ……初めてはね?莉玖を振った当初はこういうつもりじゃなかったんだ。莉玖が普通に生きて行くためには、僕が傍にいてはならないと思ってたから。僕が莉玖を不幸にしているのかもしれないと思って……それがけっこう、怖かったんだ」
莉玖の視線が、突き刺すように僕の頬に注がれる。でも、それを振り向く気持ちにはなれなかった。
くだらなくて、情けない告白。結局、僕は改めて莉玖を自分の意志で抱いてしまった。莉玖をフった時に決めた心を最後まで守り通さなかった。
結果、莉玖をもっと傷つけて、なんにもならないうやむやな状況になってしまった。
今の僕たちは普通になることも、思いっきり歪んだ愛を育むことも、できなくなっていた。
「……分からないんだ。どうすればいいか」
「……………」
「本来なら、莉玖と離れてお互いの人生を生きるべきなのに、離れたくないと思ってしまったから……本当に、笑える話だよね」
初めては空を見上げていた視線が自然と下がり続けて、最後には砂浜に落とされる。
終わりが見えない迷路の中を彷徨っているような気持ちだった。それでも、莉玖を諦めたくはなかった。
離れていたからこそ、その大事さを思い知る。もう僕の中で莉玖と離れるという選択肢はなくなった。
そんな僕を、莉玖はどう見ているのか。
「………よかったです」
「……莉玖?」
莉玖はそっと、僕の肩に頭を乗せながら囁くような声で言ってくる。
「安心しました。これ以上、兄さんが私を捨てることはなくなるんだと思って」
「…………………………バレたか」
「はい、バレバレです。ふふっ……そうですね。私もどうすればいいか、よく分かりませんね」
「莉玖も?」
「はい。私だって、クラスの中で孤立したいとは思いませんから。クラスの子たちもそうですし………先日の兄さんが言ってくれたように、お母さんたちがどんな反応をするのかも分からなくて、怖いんです」
「…………………僕たち、なんで兄弟なんだろうね」
「血は繋がっていないからよかったじゃないですか。繋がっていたら、もっと大変なことになりますよ?」
確かに、それは莉玖の言う通りだ。
もし、僕たちが血が繋がっている兄弟だとしたら、今よりもっと狂っていたのだろう。今以上に圧を感じるかもしれない。
「でも、確かなのが一つだけあります」
「なんなの?」
「これからも私は、兄さんの傍にいられます」
「……………そうか」
「はい。一人で悩むんじゃなくて、二人で悩めば少しは荷が軽くなるかもしれません。世間と両親との折り合いだって、適切につけられるかもしれません。一人で泣いてるよりは、全然マシです」
言い終えてから、莉玖は沈黙を保ったままただただ僕に寄りかかってきた。僕は夜の海辺を眺めながら、静かに目を閉じている莉玖の顔を想像する。
……そうだ、一人で悩むよりはマシか。そんなことを思っていると、ふとある疑問が浮かんでくる。
「莉玖」
「はい、兄さん」
「僕たちって、恋人なのかな?」
「……違いますね。兄さんが勝手に私をフりましたから」
「あはっ、そっか。ごめんね………」
「………………兄さん」
「うん?」
「私たちの関係に名前を付ける必要は、ないと思います」
「………………そうかな」
「はい。大事なのは……私は兄さんを愛していて、兄さんもなた私を愛しているという事実。それだけでは、足りませんか?」
その問いに数秒ほど悩んでから、答えた。
「昔は足りなかったかもしれない。莉玖との関係を他人に認められたいという気持ちがちゃんとあったからね、僕の中で」
「……そうですか」
「うん。でも、今はちょっと違うかな。まあ……今でも他人に認められて、堂々と莉玖と付き合いたい気持ちはあるけど。でも、昔に比べたら、そんな思いもだいぶ薄まって来たかもしれないね。今は本当に、莉玖がいてくれるだけでもいいと思えるから」
「……ふふっ、悪い子になりましたね。兄さん」
「莉玖がずっと誘惑してくるから……」
「私のせいにする気ですか?酷い兄さん」
茶目っ気の含んだ言葉を出した後、莉玖は頭を上げて僕の目の前に回り込んできた。
そして、僕の肩を両手で掴んで、ゆっくりと後ろへ押し倒してくる。僕は何の抵抗もせず、砂の柔らかさを感じながら横になった。
そんな僕の上に乗っかって、莉玖は両手で僕の頬を包んでから心底幸せそうな顔を浮かべた。赤い目が僕を捉えて、離してくれない。
夏が訪れていない波打つ音だけが、この空間に響いた。
「……兄さん」
「………………」
「愛しています。あなたを、永遠に」
「うん……僕もだよ」
そのまま、莉玖は優しく撫でるようなキスをしてくる。
昼間から何度も交わしていた口付けなのに、何故か物凄い意味が含まれているようだった。誓い、と言えば当てはまるだろうか。
「兄さん」
「うん」
「私は今、とっても幸せです」
「………………あはっ、そっか」
「はい。言ったじゃないですか。私の幸せには、兄さんが必要なんです」
……これでいいんだろうか。そういったしこりが全部消えたわけじゃない。
でも、僕が望んだのは、僕の願いは莉玖の幸せだった。この子がこんな風に笑って、体中に熱を巡らせている姿を遠くから眺めたかった。それが正しさだと思い込んでいたから。
今は、だいぶその幻想からズレているのかもしれない。これは、僕が求めていた形ではなかった。
莉玖は普通になるどころか、最初の頃よりもっと歪んでいた。僕さえも捻じ曲げて、自分が作り出した沼に引きずり込もうとしている。
でも、それでも構わないと思うくらいには、僕も莉玖に溺れていた。
「……莉玖」
「はい」
「やってみようか。二人の戦い」
「やりましょう。それが兄さんとの未来に繋がるなら」
高校生にしてはいささか大きすぎる愛を、僕たちは抱いてしまった。
今も、その愛の重さに押しつぶされそうになるけど。
莉玖となら、なんとか耐えていけそうな気がした。
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