16話 何も見ないで
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「ふぅ…ふぅ、ふぅう………」
認めざるを得ない。僕は焦っていた。
「………っ!ふぅ………」
もう周りは暗くなって街灯の明かりさえまともに映らない時間に、僕はバスケのゴールネットの下でただただシュートを打ちながら、昨日見た莉玖の表情を思い浮かべていた。
滑稽なもんだ。気を紛らわせるために体を動かしているのに、莉玖が見せたあの涙がどうしても消えてくれない。
体も心も莉玖に束縛されていて、やっぱり僕はどうしようもないくそ野郎だとしか思えなくなる。
「………………」
タン、タンと弾けたボールが地面に落ち着き、僕はその光景を眺めながら目をつぶる。
一週間、莉玖が孤立されて陰口を言われているという事実を知ってから一週間、僕は本当に死に物狂いで考えていた。莉玖への愛情と自分が思う、莉玖の正しい未来を何度も天秤にかけていたのだ。
莉玖との別れは、そんな
なのに、何一つ解決されていなかった。
「………………くそ……」
今は自分がどんな沼にハマっているのかさえ、分からなかった。
莉玖の彼氏だった頃は、まだまだ自分がどんな地面に立っているのか定義づけられたのに、今は分からない。どこへ向かえばいいか、どうすればいいか見当がつかない。
僕たちの愛は、やはり棘だらけの歪な愛なのだ。世間と妥協することもできず、また最後まで隠し通すほど小さくもない愛。
その愛を抱き続けた結果、莉玖が傷ついてしまった。僕が、莉玖を不安がらせてしまった。昨日の莉玖は………壊れていた。
僕が、そうさせた。
「………兄さん」
聞き慣れた声が響いて、後ろの方へ振り向く。薄手のグレーのワンピースを着ている莉玖がそこに立っていた。
周りは真っ暗なのに、月の光と街灯に照らされている銀髪は、赤い目は、狂おしいほど綺麗だった。
「お母さんたちが心配してて、探しに来ました。連絡もつかないから」
「…………そっか。ごめんね、莉玖」
「……兄さん」
「うん?」
「前にも、こんなことがありましたよね」
言われてようやく思い出す。そうか、夜遅くまで一人バスケをやっていた僕を、莉玖が探しにきて……その時、僕は初めて莉玖にキスをされたのだ。
汗だくになっている僕の首に両腕を回して、愛を抑えきれないと言わんばかりの眼差しを浴びながら、そっと奪われていた唇。
あの時も、確かに今のように考えていた気がする。僕と莉玖の関係が、単なるセフレから恋人に進化しようとしていた時だった。
「莉玖」
「はい、兄さん」
「僕が悪かったよ」
「何がですか?」
「僕たちに必要なのは別れじゃなくて、時間だったのかもしれない」
その言葉を聞いた途端、莉玖の赤い瞳がますます大きくなって行く。
僕は汗で張り付いている前髪をめくりながら、ぼそっと言った。
「本当にごめん。僕が悪かった」
「………今更謝罪したって、もう遅いです」
「……やっぱりそうかな」
「ええ、今更恋人に戻ろうとしても、もうだいぶ変わってしまいましたから。別れてからまだ一ヶ月も経っていませんが、それでも私の心は大きく変わってしまったんです」
そう言いながら、莉玖は一歩ずつ僕に近づいてくる。不思議と逃げる気にはならなかった。
「兄さんは私を裏切りました。私は、何があってもずっと兄さんの恋人でいるつもりだったのに。周りのすべてを犠牲にしても、すべてが破綻しても、私は兄さんとの未来を描いてたのに」
「……………」
「なのに兄さんは、あまりにも簡単に私との愛を放り投げたじゃないですか」
……人生は、愛だけがすべてではない。
人の人生は、幸せは、あまりにも様々な要素で構築されている。
愛というのはその要素の一部分に過ぎなくて、僕との愛が叶ったとしても、それが莉玖の幸せに直結するとは思わなかった。だから、僕は莉玖を振ったのだ。
なのに、莉玖は僕のことしか見ていなくて……僕もまた、莉玖のことしか見ていなくて、僕たちはまた前のような中途半端な関係になってしまった。
きっと、僕は幼かったんだ。莉玖への愛と世間の中でバランスをとる方法を、知らなかったから。
「莉玖」
「……はい」
「情けないよな、僕って」
「…………いいえ」
「え?」
「兄さんは、兄さんなりに頑張ってたんだと思います。兄さんが私にどうやって生きて欲しいのか、その旨だけはちゃんと伝わりましたから」
「……分かってくれるんだ」
「はい、納得がいかなかっただけですので」
………そうか、莉玖も同じなのか。
世間体と愛。二兎を追うのって、僕たちには最初から無理だったのだ。僕たち二人とも、そんな器用な人間じゃないから。
「莉玖」
「はい」
「今も、僕のこと好きなの?」
「………好きという言葉で表すには、私の愛はいささか大きすぎますね」
「そっか」
「そんな兄さんは、一度たりとも私のこと、好きって言ってくれないのですね」
「当たり前だよ。僕も僕なりに頑張っているからさ」
割と必死なのだ。僕が莉玖の前で好きと言ってしまえば、僕たちが別れた意味がなくなってしまうから。
「……でも、知っていますか?兄さん」
「なにを?」
「人の目は、時には言葉以上に多くの感情を伝えて来るんですよ?」
「…………………」
「先日、
……すごいな、
「私は知っているんです。兄さんが、今この瞬間にも私のことを愛しているということを」
「………」
「付き合っていた頃にも、別れた後も、兄さんはいつだってちょっと溢れちゃうくらいの愛を込めて、私を見つめていました。言葉でいただかなくても、私は兄さんの愛を知っていました」
「………………………そうか」
「はい、そうです」
「……………本当、情けないな。僕って」
「私は、そんな情けない兄さんに狂っています」
「……そして僕も、そんなことをサラッと言える妹に狂ってるよ」
「ふふふっ」
「なにが可笑しい」
「いえ、再び思い知っただけです。私には本当に、この人しかいないという事実を」
………今のどの節でそのことを感じたのだろう。全く、変な妹もいたもんだ。
そうやって苦笑を浮かべていたところで、莉玖はゆっくりと僕に近づいて腕を上げてくる。
汗が蒸発してひんやりとしている首に、莉玖の細長い両腕が回された。相変わらず目が回りそうなほど素敵な莉玖の香りと、大好きな女の子の赤い目が間近にあって、すぐにでも堕ちてしまいそうだった。
そのまま、莉玖はその小さな唇を動かす。
「兄さん」
「………うん?」
「旅行、行きませんか?二人きりで」
「場所は?」
「当ててみてください」
僕は唇を湿らせてから、短く答える。
「海」
「……やっぱり、運命です」
「そうなのかな」
「ふふっ、どうやって分かったんですか?」
「僕たちのバケットリストにあったからね。付き合い出した頃に一緒に作った、そのリストに」
「…………………兄さん」
「……うん?」
「お願いします。私に、堕ちてください」
何か返事をするも前に、莉玖の柔らかさで唇が塞がれる。
衝動も欲望も怒りもない、互いの甘さを交換するような素朴なキス。でも、身が溶けるほど恍惚なキス。
そう、まるで初めてお互いの思いを確かめた、1年前の私たちのようなキスだった。
「………はぁ」
「………莉玖」
「……元々は、キスするつもりなんてなかったんですけど」
「……………………」
「でも、我慢できなかったんです。兄さんが……兄さんが好きすぎて、キスにでも発散しなきゃ、弾けてしまいそうでしたから」
「……行くか、海」
「はい。今週の週末に、一緒に出掛けましょう」
久しぶりに、本当に久しぶりに満面の笑みを湛えてくれた莉玖は。
「今度の旅行で、絶対に堕としてあげますから……」
背筋がぞっとするような甘い声で、僕にそう囁いてきた。
「これからは私以外、何も見ないでくださいね」
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