10話  ただれて濁り切った赤

七下ななした 莉玖りく



兄とこうしてラブホに来るのは、割とよくあることだった。


兄と性的な関係を持ち始めたのは、今から約1年前のこと。部屋で自慰行為にふけていた兄を見て、私は強い衝動に駆られて、兄の発散をサポートしていたのだ。


それから6ヶ月くらいセフレみたいな関係を持って、ようやく付き合い始めて……気付いたことだけど。



「…………っ」

「………どうしましたか?兄さん」



どうやら私は、体が華奢な割にはえぐいほど性欲が強いらしい。


兄も、普段はいい人ぶってるくせに私の肌を前にしたらすぐ獣になってしまう。そう、今のように。


ワンピース一枚を抜いて露わになった、黒のブラとパンツ。明らかに、男を誘うために用意した下着。


カーテンを閉めて全体的に暗くて赤い照明だけが光っている室内で、私は兄を見つめながらもう一度反応を確かめた。


…………興奮してくれている。目が、私の体に釘付けになっている。



「暑いから服を脱いだだけですよ?何をそんなにジッと見てるんですか?」

「り…………く」



なんで、嬉しいとしか思えないのだろう。


私の体で兄さんが虜になっているのを見て、嬉しさしか湧かない。幸せとしか言いようがない。


私はこの人のこと、嫌いなはずなのに。



「……私たちは、恋人ではありません」

「………………」

「なのに、そんなに血走った目をなさって、本当にどうしたんですか……?ふふふっ」



………ぼうっと立ち竦んでいる兄に、私はゆっくりと近づいていった。


はしたないとか、倫理観とか、嫌われるとか、そういうめんどくさいものをすべて頭の端っこにしりぞけて、目の前の人に集中した。


兄、兄がいる。目の前に、私に興奮している兄がいる。それだけで十分だった。



「ダメですよ?」

「莉玖………お前」

「ダメです。あなたが振ったじゃないですか。私の体、あなたが諦めたじゃないですか。まさか、ここに来たからって昔のように私を気安く抱けるとでも思ったんですか?」



もうすぐで密着できるくらいに距離を縮めて、背伸びをしても届かない兄の耳元に精一杯、息と声を吹きかける。


ビクン、と兄の背筋が震えるのが分かった。



「……ダメですよ、ダメ。抱いちゃダメ。あなたは自分が何をしたのか、何を諦めたのか、一度しっかり知っておくべきです」

「………もう、やめて」

「お願いをする権利は兄さんにありません。兄さんは私の言いなりですから。お人形さんですから………なにも言ってないで、立ったまま惨めに噛みしめてください。自分が、どんな女を見逃したのか」



…………兄の、匂いがする。


兄の匂いが、私を発情させる兄の匂いが鼻孔をくすぐって、一層のことこのまま押し倒したいという強い欲望に駆られてしまう。


セックス中の私たちは、本当にケダモノ同士だった。お互いが抱いている不安を、心の底にある小さなくすぶりを、他人の目を考える時に生み出される恐れを塗りつぶすように、快感に喘いでいたから。


それは甘美で、気が狂うほど刺激的で、脳を焼き尽くすほどのドロドロとした快楽で。


それを今、もう一度味わいたいと思っている。私も………兄さんも。


でも、できない。



「ここでもし私を押し倒したら、すぐ警察に通報しますからね?恋人同士でもない男が女を強制的に組み敷くなんて、それはただのレイプに過ぎませんから……」

「…………………………………」

「………何か、言ってください」

「……………莉玖」

「なんで、何も言わないんですか」



………本当は、ヤリたかった。


涙が出そうになる。あんなに気持ちよかったから、あんなにも満たされていたから。私の体と心と指先一本までこの人の物だって、思い知ることができたから。


でも、今はダメだ。この兄に対する復讐心だけがメラメラと、私の体を燃え尽くしている。この炎はたぶん、一生消えることのない呪いだ。


結局、この人じゃなきゃ満たされないと私も分かってるから。


お互い、不幸に陥ったらそれもそれで………悪くないと思う。


兄さんを不幸にして……………兄さんを、不幸に………



「………莉玖」

「………いや、です」

「泣かないで」

「………顔、見ないでください」

「莉玖、お願い。泣かないで」

「名前、呼ばないでください。嫌です。あなたなんか嫌い。大嫌い………死んで、死んでよ。もう消えてよ………お願いだから………もう、死んでよ……」

「………莉玖が死ねと命令すれば、たぶん死ねるよ。僕は」

「うるさいです。見ないでっ………見ないでって、言ってるでしょ………」



………………不幸に。


不幸に、したいのに。兄さんなんか、私を見放した兄さんなんか、兄さんなんか……。



「………き、らい………嫌いなの。嫌いなの…………きらいなんだからぁ……」

「…………………」

「なんで……なんで、なんで振ったんですか?なんで………?」



ゆっくりと、私はその場から崩れ落ちる。


痛いくらい硬い床に崩れ落ちて、涙に滲んだ暗闇の中で絞り出すように、私は言う。


………いや、叫んだ。



「なんで……なんで?その程度のものだったんですか?私たちの愛は、私に対する兄さんの想いは!!!周りの人の視線より、世間よりずっと、ずっと価値のないものだったんですか?答えてください………答えてよ、兄さん!!!!」

「………違う」

「じゃ、なんで?なんで!?どうやったら別れられるんですか!?どうやったら私を捨てられるんですか!?私が変なの!?私だけがおかしかったの……!?なにか、なにか言ってくださいよ、兄さん。私は……私は兄さんのためなら、死んでもいいと思ってました。兄さんのためなら、すべて投げ捨てても平気で生きられるって思ってたのに。そう何度も思ってたのに!!!あはっ、あははっ………!私だけだったんですね。そんな愛を抱いていたのは、私だけだったんですね!!!!」

「僕だって!!!」



兄さんは、言葉では表せないほどの苦しい顔で、すぐにでも涙を零しそうな顔で、そう言う。



「僕だって今も、莉玖のためならすべてを投げ捨てて、死んでもいいと思ってるんだよ……今も」

「………………………………」



カフェでは到底合わなかったお互いの視線が初めて絡まって、すべての感情を伝えてくる。


目は、言葉より多くのものを伝えてくれる。特に兄さんは、その感情が読みやすい方だった。


だから、混乱した。その眼差しの中には本当に、罪悪感と私に対する愛以外は見当たらなかったから。


私は、分からない。分かりたくない。たかが人の視線なんかで、世間の常識なんかで、別れなければいけないなんて。


その理不尽な現実が、許せなかった。



「……僕は、莉玖が幸せになって欲しかった」

「……私は、兄さんが傍にいて欲しかったです」

「莉玖も知ってるでしょ?あのまま行ってたら、きっとすべてがめちゃくちゃになったんだよ。莉玖は前より公に陰口を叩かれて、僕たちの関係を知った両親はショックを受けて……再婚のことを、後悔するかもしれない」

「……それでも、私は兄さんと一緒にいたかったです」

「……僕は、莉玖の傍にいるのより、莉玖が幸せになって欲しかった」

「…………………………………」



――――そう。


兄さんはきっと、健康的な愛を求めていたのだ。他の人の視線なんか気にせずにデートして、イチャイチャして。それでいて、周りからも祝福されるくすぶり一つない健全な愛を、求めていたのだ。


分かっている。兄さんが正しくて、私が間違っている。私が悪で、兄さんは善だ。


………でも、許せないものは許せなくて。


顔を伏せて、私は彼の名前を口にする。



「……七下、秋」

「………」

「あなたは、何一つ分かってない」

「………は?」

「私の愛を、侮らないでください」



ゆっくりと立ち上がって、私はさっき近づいたように兄との距離を縮め、そのたくましい胸板に手を添えてから、言う。



「私の幸せは、あなたがいなきゃ成立できないって、分かってたくせに」

「………………」

「気付いてたじゃないですか。兄さん、あなたは逃げただけです。私が他の人たちに陰口を叩かれるのが嫌で、目を背いただけ。あなたも知っていたじゃないですか。どんな時に、どんな選択肢が与えられようとも、私があなただけを選ぶという事実を」

「……………離れて、莉玖」

「あはっ……あなたは、これが世の中の常識だって、正しい道筋だって自分に言い聞かせながら、自分の気持ちから逃げただけ。臆病で惨めな、それでいて被害者ぶっているくだらない人間……それが、あなたです」

「お願い、莉玖。離れて」

「……抵抗、しないで」



初めて、声を低くして呟いた命令の言葉。


兄の顔には困惑と戸惑いと、期待の感情がちりばめられていた。



「今、私が何を考えているのか分かりますか?」

「…………何を、考えてるの?」

「目の前のこの人とキスしたいって…………セックスしたいって、そう思ってます」

「………………………………………」

「……あおかしいですよね?こんなにも大嫌いなのに、嫌悪しているのに、心が言うことを聞いてくれないんです。あなたナシじゃ生きていけない犬かなにかになったみたい」



…………そう。


別れても、フラれてもなお、私はこの人のモノなのだ。


私は永遠に、七下秋の女……。



「……片っ端から、あなたが思い描いている理想を壊してあげます」

「は?」

「あなたはきっと、今は私とヤリたくないでしょうね」

「………莉玖」

「だから、あなたは大人しくされるがままになってください」



これが、兄に対する欲情のせいなのか復讐心の発露なのかは、もう分からない。


分からない。分からない。何もかも分からない。考えたくない。何も考えたくない。


理性なんか知らない。感情、感情だけがいいの。もう、私は行くところまで行ってしまったから。壊れたから、もう正しさなんか知らないの。



「今から、あなたをレイプします」



私の愛は、私たちの愛はもう―――


清いとか正しいとか、節度を持っているとか……そういう言葉が全く似合わない、ただれて濁りきった赤になってしまったから。

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