9話 明るい場所は似合わない
<
「ふぅう………」
兄とのデート前夜、私はお風呂に入った後クローゼットを覗きながらため息をついていた。
前に住んでいた家とは全然違う、広々とした部屋の中。大きなベッド。そのベッドの上に何着ものの服を並べて、何を着たら兄さんが喜んでくれるのかを必死に悩んだ頃もあったのに。
もう、そんな時間は訪れない。たぶん、永遠に来ない。それに、今の私はあの人のために悩む必要すら感じなかった。
「……これで、いいよね」
クローゼットの中からワンピースを取り出して、俯いた。
私が選んだのは、白をベースにしたシンプルなワンピース。柄もあまり添えられていないし、デート服にしては力を抜き過ぎているような感じさえする、そんな服だった。
気にしない、気にしないから。
今さらあの人にどう映ろうが関係ないじゃない。私は………私は。
「……………………兄、さん」
あの人のこと、大嫌いだから。
<七下
昨日のフリースローのおかげで散々筋肉痛に苛まれながらも、僕は待ち合わせ場所である駅前にたどり着いていた。
なのに、僕より先に出かけたはずの莉玖が見えなくて、ちょっと目を丸くしてしまった。
『一緒に行くんじゃないの?』
『何を言っているのですか。両親にバレたら、どうするおつもりで?』
『……ははっ、なるほど』
『……断らないんですか?』
『なにを?』
『急にデートするって言い出されて、厄介だと思うのが普通なのでは?』
『………………断れないからね、僕は』
『…………』
昨日の夜、莉玖と交えた会話を思い出しながらベンチに腰掛けた。
……断らないんですか、か。
莉玖はたぶん、気付いていない。その質問がどれだけ、僕への愛を証明するのかを莉玖は全く理解していない。大嫌いだと言ったくせに、未だに僕のことを気にかけているのだから。
そんなところが莉玖らしくもあって……そして、そんな子を泣かせて、見逃してしまった事実に押しつぶされそうになる。
「……過ぎたことだけどな」
どこへ向かってどうすればいいか、見当がつかない。僕もこのまま、波に流されてしまうのだろうか。
そんなことを考えていた最中、ふと頭の上から影が差した。
「………………あ」
「おはようございます」
莉玖だった。亜麻色のつば広い帽子をかぶって、シンプルな白いワンピースを身に包んでいる莉玖は、いかにも平然な顔で首を傾げてくる。
僕は莉玖の白い靴から目を離して、上を向いた。次第に見えてくる日傘。
今は5月末で、空気がそこまで暑苦しいわけではない。でも、莉玖は体質的に日差しに弱いから、こうやって日差しが強い日は必ず日傘を持参しているのだ。
「おはよう、莉玖」
「いつから来てたんですか?」
「今来たところ。莉玖は?」
「それを兄さんが知る必要は、ないと思います」
そっけないな、と一瞬思ったけど確かにその通りだ。
僕は苦笑を浮かべながら立ち上がって、莉玖が持っている日傘を手に取る。
莉玖はやや複雑な顔をしながらも、素直に日傘を手渡してくれた。
「今日なにするか決めたことある?」
「いいえ。ただ、なんとなく兄さんと……出かけたかったので」
「……光栄ですな」
「皮肉を言わないでください」
「皮肉じゃないよ。本当に光栄だと思ったから」
莉玖の外出頻度を考えると、確かに光栄なことだ。この妹がどれだけ繊細なのかを、僕はよく知っているから。
舌で唇を濡らしてから、僕は昨日の夜から考えていたことを口走る。
「じゃ、カフェ巡りでもしようか?前のように」
「………………カフェ、巡り」
「うん、莉玖も喜んでたんだもんね、前に行った時は」
「…………………」
莉玖は即座には答えず、後ろで手を組んで僕を見上げていた。
「もしかして、ここへ来る前に調べてたんですか?」
「うん、ある程度」
「……何時間?」
「昨日の深夜に、大体3時間くらい」
「……………元カノ相手に?」
「妹相手に」
「………………………」
莉玖はスッと顔を凍らせて、呪いでもかけるように言う。
「兄さん」
「うん?」
「私は兄さんが、大嫌いです」
「………うん、知ってるよ」
「本当に、大嫌いです。大嫌いだから、今日から私の前では絶対に笑わないでください。分かりましたか?」
「………分かった。約束する」
肯きながら答えると、莉玖はため息をついて背を向ける。
それと同時に、僕が持っていた日傘を取って、歩調も会わせずに前に進んで行った。
「…………………大嫌い、か」
……やっぱり、来るんだよな。
狂おしいほど好きだった人に、そんな言葉を投げられるのは。
空高く浮いている千切れ雲をぼうっと見上げてから、僕は莉玖の後を追った。
「ここから5分くらいかかるけど、体は大丈夫?」
「……大丈夫です」
さすがに信号機の赤は無視できなかったのか、莉玖は横断歩道の前で立ち止まって僕を待っていた。
道に行き交う人たちが、そんな莉玖の容姿を見ながら不思議そうな目をしている。僕の妹はそんなことが全く気にならないと言わんばかりに、前だけを向いていた。
燃えるような赤い瞳が、今日だけはちょっとだけ儚げに映って。
それから5分ほど歩いて、僕たちは落ち着いた雰囲気のスイーツカフェに到着した。
「いらっしゃいませ!……えっと、二名様でよろしいですか?」
「あ、はい」
「かしこまりました。こちらの席にご案内いたします」
明るい声の女店員さんは莉玖を見て一瞬固まっていたけど、すぐにプロの笑顔で僕たちを案内してくれた。
莉玖は僕と目も合わせずに、メニュー表に目を通している。
「これって……」
「うん?」
「兄さんの、奢りですか?」
「ああ、なんでも頼んでいいよ」
「…………嫌です」
「え?」
小さいけど確かな拒否に、僕は戸惑う。
「割り勘にしましょう。その方が公平じゃないですか」
「僕はいいけど、莉玖はちゃんとお金持ってるの?」
「はぁ……私を一体なんだと思っているのですか?」
「ごめん、そういうわけじゃなくて……いや、甘えてくれても全然いいんだよ?莉玖は普段おこずかい貰ってないし、無理する必要は―――」
「―――それ以上言わないで」
ハッとして目を見開くと、すべての感情を押し殺したかのような莉玖の表情が映る。
「甘えていいとか、無理するなとか、あなたにだけは言われたくないです」
「…………莉玖」
「……注文、しましょうか」
僕もそれ以上は触れず、黙々とメニュー表に目を通してから注文を決めた。
このカフェの代表メニューであるいちごケーキとエスプレッソ、莉玖のバニララテを頼む。
遠くから僕たちを見守っていたっぽい店員さんは、ややぎこちない笑みを浮かべてから注文を受け取って、離れて行った。
「………………」
「………………」
お互い、何も言わなかった。言う必要もなかった。莉玖はもともと口数が少ないし、僕は莉玖の前で何かを言える資格を持っていないから。
店の窓から輝き出す日差しが眩しい。他の客たちの活発とした空気とは違って、僕たちだけが、この場から隔絶されているみたいだった。
頼んだケーキとコーヒーが届いて、僕たちはまた何も言わずにそれを咀嚼して行く。
ケーキの味は、ほとんどしなかった。
「……兄さん」
「うん?」
「楽しくないですよね?」
「…………………………」
「……分かってたじゃないですか」
「なにを?」
「恋人でもない私たちが、こんな店に来るのは間違ってるって」
「……………僕は、莉玖を喜ばせたかったんだ」
事も無げに出てきた本音を、莉玖はまた平然とした面持ちで受け取って、持っていたフォークを下ろした。
「兄さん」
「うん?」
「私は、今も必死に理性を働かせています」
「……何のために?」
「兄さんを嫌いだと思うために。兄さんが、間違っていると思い込むために……理性を働かせているのです。それがどういうことか、分かりますか?」
「どういうことなの?」
「私は、衝動に身を任せている、ということです」
それから、莉玖は何の前触れもせずに立ち上がる。
せっかく頼んでおいたバニララテも、ケーキも莉玖はほとんど口にしていなかった。
「……行きましょう?兄さん」
「どこへ?」
「兄さんなら、もう見当がついているのでは?」
「………………」
「………きっと、私たちにこんな明るい場所は似合わないんです」
………幸せにしたかった。
生まれからの体質のせいで昼を疎ましく思い、すぐにでも崩れそうな表情をしているこの妹に、素敵なことをたくさん教えたかった。
付き合っていた頃には、この日差しに負けないくらい笑ってくれてたのに。でも、今は違う。
莉玖の中にあったドキドキと嬉しさと、期待を含んでいたその感情は全部吹き飛ばされ、怒りだけが残った。
僕が、吹き飛ばした。
「……行くか」
「はい。いつもの場所へ、行きましょう」
これからどうしたらいいのか、僕には分からない。でも、莉玖が今どんなことをしたいのかは、はっきりと伝わってきた。
ほとんど口を出していないケーキとコーヒーのお会計を終えて、僕たちは素早く外に出て、前にも何度か歩いたことのある道筋を辿って行った。
そう、何度も来たことのある街。
「……兄さん」
「うん?」
「…………嫌いです」
「…………………」
ラブホテルがたくさん並んでいる、ホテル街に。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます