4話  誓い、祈り

七下ななした あき



「お帰りなさい、兄さん」

「………………ああ」



帰ると、何故だか僕よりも先に着替えてリビングのソファーに腰かけている莉玖がいた。


テレビを眺めている綺麗な横顔と、白いTシャツに合わせた短めのパンツに自然と目が行ってしまう。


……全く、こいつは警戒心というものがないのか。



「遅かったですね」

「一つお願いしたいことがあるけどさ」

「なんですか?」

「その無防備な格好はやめてもらえるかな。兄弟だとしても義理だし、他人だから」

「………ふうん、私に欲情でもしているんですか?」



こちらに見向きもせずに投げ出した答えに、僕は一瞬停止する。


いつの間にかテレビの音までピタッと止まり、莉玖はさっそく立ち上がって目を合わせてきた。


宝石のような赤い瞳が僕を捉えて、ゆっくりと閉ざされて行く。



「欲情って、なに言って―――」

「今更何を恥ずかしがってるんですか?私の体、兄さんは全部見て、触って、吸ってたじゃないですか」

「……………莉、玖」

「恥ずかしい姿も、見せたくない姿も全部さらけ出されていました。でも、私は幸せだったんです」

「…………………………」

「あなたは、私のすべてだったのに」



それから莉玖は大きく息を吸って、目を開けた。


二日前までは愛情に溢れ返っていた赤は、今じゃ恨めしさと憎しみしか残っていない。



「まさかそんなあなたが、私からすべてを奪い取るだなんて思いもしませんでした」

「……………莉玖」

「あなたはいつも受け身で、正しくあろうとして、世間の目を気にしてばっかの臆病者でしたよね」



罵りは杭になって心臓に突き刺さる。悔しいけど、返す言葉も見つからなかった。正にその通りだから。


罪悪感に耐え切れなくて、僕は舌の唇を噛んで俯いてしまう。



「……私は、あなたを絶対に許さない」

「……そっか。それで、莉玖は僕に何をする気なの?」

「あなたの幸せを、これから全力で妨げて行くつもりです」

「莉玖は、それで幸せになれるの?」

「……幸せになれるわけ、ないじゃないですか。私の幸せは、あなたがすべて奪い取りましたから」



…………本当に。


本当に、愛されていたんだと今さらながら感した。莉玖は文字通り、狂おしいほど僕を愛していたのだ。


6ヶ月。たった6ヶ月しか付き合ってなかったのに、愛の量だけは未来を覆い隠すくらいに膨らんでいた。僕も莉玖を愛していたし、莉玖は僕以上に僕を愛していた。


だから、恨まれても仕方ないと思った。


莉玖を捨てたのは紛れもない僕で、他人の目を気にしたのも、常識的に振舞おうとしたのもまた、僕だから。


おかしな話だ。互いの性欲処理から始めた僕たちの関係自体、常識的なものではなかったというのに。



「……あのさ、莉玖」

「はい、なんですか?」

「莉玖ならきっと、僕以上に素敵な人と出会えるよ」

「………でも、私の初めてを奪ったのは全部あなたです」

「……………………」

「ハグも、キスも、デートも、温もりも、処女も、最初は全部あなたなんです。私がこれからどんな人と寝てどんな人と付き合おうが、その事実だけは変わりません」

「……みんな、そうやって生きて行くんじゃないかな?そうやって、妥協しながら」

「…………………………」

「…………………………」



けっこう長い時間が経っても返事が聞こえなくて、僕はようやく顔を上げて莉玖の顔を目に映した。


そして次の瞬間、僕は口をあんぐり開けてしまった。



「……………どうやったら」

「………」

「どうやったら、あなたをめちゃくちゃにできるでしょうね。どうやったら」



酷いことを言った自覚はあった。許されない言葉だという事実も、十分に分かっていた。


でも、こんな姿を望んでいたわけじゃない。


莉玖は涙を流しながら、拳をぐっと握って、震える声で僕に呪いをかけていた。


もちろん、莉玖が泣くのを見たのはこれが初めてじゃない。僕たちが初めてヤッた時も、莉玖は涙を流していた。


でも、名前が違う。あの時の涙は幸せで、今目の前に映っている涙の名前は、憎悪だ。



「っ………ふぅ、くぅっ………」

「……………………莉玖」



僕が泣かせた。


当たり前の事実が、覚悟したはずの事実がのしかかってきて、体を動けなくする。


そうか、これが罰か。あんなに大好きだった、愛していた自慢の妹を泣かせた罰。


………罰は、甘んじて受け入れるべきだろう。



「―――誓うよ」



告白する時に伝えた、絶対に離さないという誓いではない。


胸が弾けそうな幸せも、溢れ返っていた愛も見当たらない。あるのはただ、罪滅ぼしのための卑怯な建前。



「莉玖が僕を許してくれるまで、僕は絶対に幸せにならない」

「っ………ふぅぅ………」

「莉玖にどんなことをされても、どんな仕打ちを受けても、僕は甘んじて受け入れるよ」

「……………………」



凍り付いたようにその場からビクともせず、僕は誓いの言葉を並べた。


莉玖は涙が溜まった目で僕を見た後、深呼吸をして、覚悟を決めたように下の唇を噛んで、僕の頬をひっぱたくために手を―――



「…………っ、うっ、うぅうう……」



手を、挙げても。


やっぱり未だ僕が大好きな莉玖には、それができなくて。



「っ………あ、ぁ……ううっ………くっ………」



それで、思い知らされる。僕はたぶん、僕が想像してた以上に莉玖を傷つけたってことを。


いっそのこと、ビンタをされた方がよかったかもしれない。そうすれば肉体の痛みが、少しは罪悪感を省けてくれたかもしれないから。


でも、そんなことができないくらい莉玖は僕を愛していて。


そして、僕もまた莉玖のことを…………莉玖の、ことを……。



「………許さない」

「……………………」

「絶対に………絶対に、許さない。許さないんだから……」

「あっ、莉玖!」



背を向けて走り去っていく妹を、僕はただ見つめることしかできなかった。


間もなくパタンとドアが閉ざされる音が響いて、僕は片手を上げて、自分の髪を握り締める。


ため息をついて、もう片方の手を上げて髪を握りつぶして、その場で崩れた。



「……………………………くそ」



どうしたらよかったんだ。


僕も、僕なりの最善を尽くしたんだ。学校中に噂されて、親の耳にまで届きそうになってて、莉玖が孤立されて、陰口まで叩かれている姿を見た僕には。


最善の選択だったんだ。仕方なかったんだよ、僕にどうしろって言うんだ。


祈った。何度も祈っていた。真夜中にベッドに横になって、眠れないまま莉玖のことを思いながら、何度も。


莉玖を助けてくれと。


あの子を幸せにしてくれと、そう何度も空に祈っていたのに。

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