第3話
「かあさん! 結界から出てきちゃダメだよ、『あいつ』に見つかっちゃう」
「でもね。あなたたちが傷つけあうのを、黙って見てはいられないの」
目を開けると、僕と雪女の間に挟まれて立つ、もうひとりの白い着物姿の女性の姿があった。間違いない。彼女のまとう妖気こそあの夜に僕が感じたものだ。
しかし、それだけじゃなかった。
「どういう、こと」
僕は、目の前にある事実の意味を理解できなかった。だって彼女の顔も、声も──髪の色以外の何もかもが、僕の記憶の中の母親とそっくり同じだったのだ。
「ごめんなさい。知らせないことが、あなたの幸せだと思ったの」
混乱する僕に彼女は、十年前となにひとつ変わらず美しい顔を向けて優しく語りかけてきた。
その背後で、もうひとりの雪女が兎の面をそっと外す。淡雪のように融けて消えてたその面の下には、母とよく似た、そして僕自身ともよく似た、美しい少女の顔があった。
「母さん……それに、
「ひさしぶりだね、おにぃちゃん」
少女は言った。その「おにぃちゃん」のニュアンスだけで、僕は彼女が間違いなく
目の前の二人の雪女は、十年前に行方知れずになった母・狩村
「なぜ……いったい、どういうことなんだ……」
何かが繋がりそうで、繋がらない。もしかすると、僕自身がそれらを理解することを拒絶しているのかも知れない。とにかく、ゆっくりと思考する時間が欲しかった。
──しかしそんな僕の願いは、突如として鳴り響いた轟音によって問答無用に却下されていた。
『見つけたぞおお』
そして轟音に紛れるように聞こえる不気味な声。視線を動かすと、もうもうと上がった雪煙のなかから巨大な獣が姿を現すところだった。
『雪依えええ! 今日こそおまえを、おれのものにするぞおお』
くすんだ銀の剛毛で全身を覆う、巨大な猿だった。身長は3メートル超、電柱のような腕の先端には、五指に並ぶ黒いカギ爪がぎらりと禍々しい輝きをはなっている。そしてなにより、吹雪よりも遥かに激しく吹き付ける暴力的な量の妖気と、瘴気。
「もう、言わんこっちゃない! かあさんも、おにぃちゃんも、はやく逃げて!」
切迫した雪乃の声で、僕はようやく我に返った。
──こいつは、おそらく
見た目から察するに、元はいわゆる異獣──人間に友好的な大猿の妖怪が、歳月を経て山の神の座に至ったもの。
それが生来の特性か、あるいは溜まった瘴気にでもあてられたのか、とにかく何らかの理由で神の座を追われながら、その身に遺された神の力で禍を為す存在になり下がった──そういうモノを総じて「
狩村の口伝でも対策課のマニュアルでも同様に、遭遇した際はすみやかに離脱し、必ず十人以上で充分な準備を整えた上での討伐が義務付けられている。
「いいえ、逃げるのはあなたたち。母さんはもう、誰も失いたくないの」
母さんは雪原をすべるように移動して、雪煙をあげ猛進してくる
『ああ、あいかわらずいい女だあ。たっぷり、かわいがってやるからなあ』
カギ爪で、白い顎のさきに触れる。じゅう、と肉が焼けるような音がして黒い煙が上がり、母さんは表情を歪めながら顔を逸らして爪から逃れた。
「汚い手で、触るな──!」
ふつふつと湧き上がった怒りが、つい口をついていた。
『ん? おまえは』
濁った目線が、僕に向けられる。ぐりん、と首をかしげてから、やつは口を開いた。
『ああ、その匂い、その武器、その法力……おぼえているぞおお…… よもやおれの爪を受けて、生きのびるとはなあ』
──その言葉で。僕の頭の中で繋がりかけていた欠片が、ようやく、ひとつになった。
『それにしても、また男を連れ込むとはなあ!』
崩神の声が怒りで震えている。それは僕ではなく、目の前のかあさんに向けられていた。やつは、長大な腕を天高く掲げる。
『ああ、そうだ! 娘も美味そうに育ったことだし……おまえのようなあばずれは、もういらぬわ!』
「やめてえええッ!」
雪乃が悲痛な叫びと氷柱を放つけれど、通じはしないだろう。
どうしようもないピンチのときこそ冷静に、そして大胆に判断するべし。それは、幼いころに父さんから何度も聞かされた言葉。
今こそ、まさにその時だ。
「オン、イダテイタ、モコテイタ──ソワカッ!」
澄みわたっていく思考の中、僕はすでに必要な真言の詠唱を済ませていた。木刀を投げ捨て、光の灯った指先で両の太腿に描くスカンダの梵字、顕すは天部最速──
ぶおん、と空を裂く音をまとって振り下ろされる
それを上回る高速移動で、呆然とする母さんを正面から抱きしめるように割り込んだ僕の背中は、カギ爪によって深々と
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