3
その日の週末、達也は夢を見ていた。東京のマンションだ。辺りにはビルや住宅地が広がっていて、賑やかだ。幸せに暮らしていたあの日々が懐かしい。あの頃に戻りたい。だけどもう戻れない。
突然、電話がかかってきた。達也は驚いた。一体何だろう。誰からだろう。両親はまだ帰ってきていない。
「もしもし、達也くん?」
達也が受話器を取ると、そこから聞こえてきたのは2年生の担任の鈴木先生だ。一体、何だろう。
「はい」
「お父さんとお母さんが交通事故に遭って、亡くなったの」
達也は言葉を失った。交通事故で亡くなったって、そんなの嘘だ! 嘘だと言ってくれ! 昨日はあんなに元気だったお父さんが、お母さんが!
「えっ・・・、えっ・・・」
と、一瞬で目の前が変わった。事故現場だ。目の前には両親の車がある。その前には、倒れている両親がいる。とても現実ではない。夢から覚めろ!
「うわあああああ!」
達也は目を覚ました。夢だった。毎日こんな夢を見る。それほど両親の事故死は心に深い傷を与えた。いつになったら、忘れる事ができるんだろう。
達也は窓を見た。すると、パン屋の明かりが点いている。まだ午前5時を回った所だ。こんな朝早くから何をしているんだろう。
「あれ? 明かりが点いてる」
達也はその光につられるように家を出た。外は雪が降っていて、とても寒い。
達也はパン屋に入った。中からはパンのいい香りがする。中では健太郎とさくらがパンを作っているようだ。
「ん? たっちゃん、どうした?」
健太郎は驚いた。達也が来るとは思っていなかった。朝早くに起きて、どうしたんだろう。
「こんな朝早くに何をしてるの?」
達也は疑問に思った。普通なら寝ている時間なのに、朝早くから何をしているんだろう。
「パンを作ってるんだよ。朝から大変なんだよ」
健太郎は忙しそうに生地をこねている。こんなに寒いのに半袖で、汗をかいている。
「そうなんだ」
と、健太郎は石窯に向かった。石窯からはパンのいい香りがする。この中にパンがあるようだ。
「今、焼き上がるからね」
「ほんと?」
達也はわくわくした。焼き立てのパンって、どんなものだろう。食べてみたいな。
「うん。これだよ」
健太郎は石窯からパン型を取り出した。香りがより一層広がる。東京のベーカリーよりずっといい香りだ。これが人気の秘訣だろうか?
「いい香り! コンビニとかのパンと違う!」
「だろう。これが手作りの香りなんだよ」
取り出したのは、型に入った食パンだ。周りには耳ができていて、中の白い部分が見えない。そして、スーパーなどに売っているのより長い。ふたを開けると、より一層いい香りが広がる。達也は思わずつばを飲み込んでしまった。
健太郎は慣れた手つきで食パンを型から出した。健太郎が包丁で端を切ると、白くて美しい中身が見えた。
「食べてみる?」
健太郎は達也にできたての食パンの端を差し出した。まさか食べさせてくれるとは。達也は驚いた。
「いいの?」
「うん。どうぞ」
達也はわくわくした。できたての食パンを食べられるとは。こんな事はあまりないに違いない。食べなくては。
「いただきまーす」
達也はちぎってほおばった。中はこれでもかというほど香りがよく、もちもちしている。そのままでもおいしい。それに、耳が香ばしい。耳は硬くておいしくないけど、こんなに耳がおいしいとは。こんな食パンを食べるのは初めてだ。
「おいしい! こんなにおいしいなんて!」
「そうだろう。これが本当のパンなんだよ」
健太郎は笑みを浮かべた。おいしいと言ってもらえた。それだけでも嬉しい。
「でもたっちゃんどうしたの? こんな時間に起きて」
ふと、健太郎は疑問に思った。どうしてこんな時間に起きたんだろう。子供はまだ寝ている時間なのに。
「パパとママが死んだ夢を見たの」
健太郎は驚いた。それほど辛い思い出だったんだな。早く立ち直って、楽しく過ごしてほしいな。
「そっか。辛かっただろうな」
「うん・・・。辛いよ・・・」
健太郎は達也を抱きしめた。達也は泣きそうになった。いつになったらこの悪夢を振り払う事ができるんだろう。そして、立ち直る事ができるんだろう。
「辛かっただろうな。だけど、何もかも忘れてここで暮らそうな」
「ありがとう・・・」
と、家から瑞穂がやって来た。達也の声に反応して、起きてしまったようだ。
「朝早くからどうしたの?」
「達也がお父さんとお母さんが交通事故で死んだ夢を見たんだって」
瑞穂は呆然となった。そんなに忘れる事ができない辛い思い出なんだ。早くここで忘れてほしいな。
「忘れられないの?」
「うん」
と、横にいたさくらがやって来て、達也の頭を撫でた。さくらも心配している。
「大丈夫大丈夫。いつかそんな辛い思い出も雪のように解けていくはずだから」
達也はいつの間にか泣いていた。さくらの温もりは、まるで死んだ母のようだ。母ではないのに、優しくなれる。どうしてだろう。
「本当に?」
「うん」
達也と瑞穂は家に戻っていった。達也は空を見上げた。外は雪が降り続いていて、とても寒い。早く家に戻り、また寝よう。今度は悪い夢を見たくないな。
この日は土曜日、休みだ。外は朝から雪が降っている。達也も瑞穂も宗也も家の中にいる。健太郎とさくらは朝からパン屋と喫茶店を営業していて、家に戻ってこない。
達也は外から雪を見ている。東京では見られなかった雪が、当たり前のように見える。幻想的な光景だ。寒いけれど、雪を見ていると、寒さなんか忘れてしまう。それほど見とれてしまう。これが当たり前に様に見られるなんて素晴らしい。そう考えると、東京より幌鞠に住むのがいいと思ってしまう。
「外に出てみようよ」
達也は振り向いた。そこには瑞穂と宗也がいる。寒いのに、外に出て何をしようというのか? まさか、雪合戦だろうか?
「うん」
何をするかわからないまま、達也は瑞穂と宗也と共に家の外に出た。辺りは一面の銀世界で、その中にポツンと家とパン屋と簡易宿泊所がある。昔はこの辺りには、どれだけの民家があったんだろう。想像できない。
しばらく歩くと、広い雪原に出た。そこには民家が1つもない。夏は、どんな風景が広がっているんだろうか?
「寒っ・・・」
達也は身を震わせた。こんなにも寒いとは。東京に冬将軍がやって来た時より寒く感じる。
「寒いでしょ? だけどこんなのまだまだ序の口だよ」
「そうなの?」
瑞穂と宗也はここの寒さをよく知っていた。まだまだ寒くなる事もある。幌鞠駅は現役時代、日本最寒の地に到達したことを証明する『日本最寒の地到達証明書』なるものが有料で配布されていたという。
「もっと寒くなる事もあるんだから」
「へぇ」
達也は雪原を見渡した。どこまでも続くような雪原だ。まるでモノクロの世界だ。
「すごい雪だね」
「素晴らしいでしょ?」
瑞穂は笑みを浮かべた。達也にも気に入ってもらったようだ。もっと好きになってほしいな。
「こんなに雪景色が美しいなんて。東京はそんなに雪が降らないし、降ってもこんなに積もる事はないよ」
「そうだよね。ここでは毎年こんなに積もるんだ」
達也は全く寒くなさそうだ。雪景色を見ていると、寒くなくなるのは、どうしてだろう。雪の美しさに見とれるからだろうか?
「えいっ!」
と、瑞穂は達也に向かって雪を投げつけた。達也はよける事ができず。雪を浴びた。
「やったなー!」
達也はすぐに瑞穂に向かって雪を投げつけた。3人とも楽しそうだ。
「雪遊びなんて、あんまりしないなー。冬になると毎日のようにできるなんて、夢のようだよ」
雪遊びをしていると、ここにいるのもいいなと思ってくる。だけど、欲しいものが簡単に手に入るのを考えれば、東京がいいと思ってしまう。どっちに住むのがいいんだろう。
「楽しいでしょ?」
「うん」
瑞穂は辺りを見渡した。この雪原について、何かを知っているようだ。
「ねぇ知ってる? ここって集落があったんだよ」
達也は驚いた。ここにも集落があったんだ。どんな人たちが住んでいて、何で生活をしていたんだろう。
「本当に?」
「うん。楡の台(にれのだい)っていう集落があったんだって」
この辺りには楡の台という集落があって、そこにも塩鞠線の駅があった。楡の台は酪農で生計を立てていて、ここの牛乳はとてもおいしいと言われていた。だが、厳しい環境で過疎化が進み、数十年前に人がいなくなった。楡の台駅はかつては行き違い設備もある比較的大きな駅だった。だが、行き違い設備が廃止され、冬季休業の臨時駅となり、塩鞠線が廃止になるよりも先に廃駅になったという。
「ふーん」
「だけど、この集落はなくなっちゃったんだ。で、今は原野は広がるだけなの」
この時期は雪に埋もれて何も見えないが、ここにはその集落の家のがれきが残っている。また、楡の台駅のホームが残っていて、鉄オタが訪れる事もあるという。
「賑やかな時代があったんだね」
「パパの簡易宿泊所にその写真が展示されてるんだって」
宗也はその写真を見るのが好きだ。達也は簡易宿泊所には入った事がない。ぜひ入ってその写真を見たいな。
「本当?」
「うん」
宗也は笑みを浮かべた。ぜひ、達也にも見せたいな。きっと気に入ってくれるだろう。
「見てみたいな」
「いいよ。家に戻ろうか」
そろそろ日が暮れる。夜にその写真を達也に見せよう。それを見て、達也はどんなことを考えるんだろう。
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