その網は、誰をも逃さない

生まれつき身体が小さく、弱い青年が居た。

喧嘩をしようとしても負け、逃げようとしても追いつかれてしまう。

朝は叩かれ、夜は蹴られる。

相手が赤ん坊だろうが小鳥だろうが誰にも対抗できない惨めな青年だった。

ある夜、誰も居ないはずの森を散歩していたら、突然人の気配に気づいた。

怖かったが、薄暗い中走って逃げるのも無理で、そのまま震えながら突っ立っていた。

すると、相手の方から青年に向かってゆっくり近づいてきた。

幽かな月の光に照らされやっと見えたのが黒い服をまとった老人の男。

杖に支えられたその曲がった身体は骨が浮く程に細く、背は高かった。

膝まで続いていた白い長髪は尖った顔を囲み、青年を見つめていた彼の目は夜空の様に黒く、星の様に煌めいていた。

「恐れる事はない。君に害は与えん。しかしなぜ夜な夜な森を?」

恐れている事がなぜ分かる、という疑問を抱きつつも、老人の不思議な威厳に恐縮した青年は素直に答えるしか無かった。

「人が集まる夜の街が苦手。ここの方が落ち着く。でもあなた、初めて見る顔だ。余所の人か?」

「余所は余所だ。が、人じゃない。」

呆け老人の戯言だと嘲笑いたいにも、奇々怪々な男の真剣な眼差しがそうさせない。

「じゃあ、何者だ?」

「亡者の王、霊の盗賊、罪の神。君達は私の事を悪魔と呼ぶ。」

地獄の魔法の力か、もう青年に疑心は無かった。しかし同時に恐怖も消えていた。

「なぜあなたの様な王者がこの世に?」

「売りに来た、人間の欲しい物を。何であろうとも、私に用意できない物がない訳で。この世の一番の富豪が想像すら出来ん宝だって私は売れる。」

「しかしそんな価値のある物なら、買える人も居ないだろう。」

「それがそうでもない。私の頂く対価は金ではなく、魂だ。それなら誰だって、君だって持っているだろう。君が買ったら良い。なんでも手に入れられる。その代わり、君が死んだら、その魂を私が喰らう。悪くないはず。さあ、言ってごらん。何が欲しい?」

己の人生を恨む青年は、考えるまでもなかった。

「武器が欲しい。誰にも負けない武器が。」

「良かろう。」

老人は左手を伸ばし、青年の顎を軽く握った。反応して開いた青年の口に指先を入れて、親指と人差指で彼の舌を優しく摘んだ。燃えたような痛みを一瞬感じて、青年は後退る。

「望んでいた物を与えた。対価は時が来たら頂こう。」

悪魔はこう言い残して暗闇に紛れて消えた。


確かに青年は誰にも負けない武器をもらっていた。剣でも弓でもなく、言葉という武器を。

敵の体に傷を与える事が出来なくても、もう喧嘩に負ける事は無かった。

人の中には損得を量る天秤があって、その天秤の傾きによって人は行動を決める。その天秤の事を「理」という。鋭い刃が内蔵を貫くのと同じ様に、鋭い言葉は理を貫く。話す事で心の天秤を左右させる力を彼は手に入れていた。従っては得、逆らうは損だと、そう思わせるまで。

どんなに強い相手でも、言い包められば無力。

彼を叩いていた人は反省し、蹴っていた人は許しを請うようになった。

しかし武器は守るのではなく、攻める為の物。言葉とて例外ではない。

これに気づいた青年は容赦なく攻撃しはじめた。周りのものを支配し地位を上げたら、あっという間に権力者。近所の長が村の長に、村の長が州の長に、州の長が国の長になっていった。

手を汚さずとも人は動かし、血は流せた。匠に紡いだ語の糸が縦に横に曲がりくねられ、聞いた人を囚える網となる。敵に勝る以前に、元より青年の話術に嵌った者は全員味方になってしまう。

その網は、誰をも逃さない。


築いた富の天辺に立ちながら、青年は幼い頃の苦労を二度と味わう事無く歳を重ね続けていた。もう青年とはいえず、老いを知った彼の余命が縮まれば縮まる程、彼の力は増す一方だった。地の下の世界を司る帝王より授かった力で、地の上の世界を司る帝王になっていた。負かす相手が一人も世に残ってはいないというその時、向こうの世から迎えが来た。

「私の売ったものをここまで上手に使える人はそう居ない。王の位にまでよじ登るとは、恐悦至極だな。しかし、時間は切れた。対価を払ってもらおう」と不気味に微笑みながら黄泉の王が言った。

「そうはならん。我が魂をそなたに譲る義理はない。」

「否、あるとも。約束した以上。」

「約束を最初に破った悪徳商人が良く言う。」

「これはまた面白い事を言う。武器が欲しかった君に武器を与えて、それを使い君は世界を制した。不満などなかろう。」

「否、あるとも。言葉は武器だ。慎重に振るわねばならない。私達が出会ったあの夜、私が買おうとしたのは確かに武器だった。しかしそれだけではない。誰にも負けない武器、と言った。」

「では聞こう。与えたこの魔の舌をもってして負けた事などあるか?」

「魂をやる義理がないというのが私の意見。これを通す事が出来なければ、そなたに負けたという事になろう。」

人間の王の言葉を聞き、魔物の王は豪快に笑いながら手を叩く。

「すさが王様、横暴も甚だしい。どう転んでも支払わせる権利はないと来た。この私を言い負かすとは大したものだ。例を言いよう。良い余興になった。さらばだ。」

悪魔はこう言い残して暗闇に紛れて消えた。

その網は、誰をも逃さない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る