魂喰い虫

鈴木は別に、お婆さんが嫌いという訳ではなかった。でも毎年こうやって会いに行くのは苦手だった。孫達を見た瞬間、彼の女が口にする言葉はいつもこれらのどちらかだった。「痩せたね」か、「太ったね」か。平均的な体型をしていた彼は自分の体重なんて気にせず、お婆さんの言葉にいつも驚いていた。

「そうか?」

自覚はなかった。でも帰ってみて試しに暫く着ていない服を身に着けてみるとキツかったり、緩かったり。

「どういうことだ?」

本来、驚くようなことはなにもない。毎日見ているからこそ、自分の体が変わっている事を見落とすのも当然。古い服がその僅かな変化の積み重ねを実感させてくれるまで。

「でもまあ、サイズが変わる事くらいどうだっていいじゃん」

確かに。問題はそこじゃない。問題は、変わるのは体だけではないということ。


車の後ろの席に鈴木が座っている。家まで後何時間もかかる。両親は親戚絡みのつまらない話をしている。妹は窓に頭をかけて寝ている。持ってきていた本をリュックから取り出して少し読んでみるが、すぐ飽きる。本の次はゲーム機。これもすぐ飽きる。イヤフォンをつけて音楽を流すが、気分に合った曲がいまいち見つからない。退屈だ。ところで、今年は「痩せたね」と言われていた。

確かに、いつもより少し軽いような気がする。

本、ゲーム、音楽。自分が好きだったもの。いつの間にかどれも微妙に合わなくなっていた。古い服と同じ様に。そういう時もあるだろうと深く考えずに切り替えてみる。しかしこれもまたできない。なぜか、不安。


鈴木の日常が山あり谷ありと続くが、彼はメリハリを感じなくなった。泣こうとも笑おうとも思えないその心情への違和感がひたすら増すだけ。

「でも変な話だな。食べなかったら痩せるし、食べ過ぎたら太る。それは分かる。でも心はそういうふうには変わらないだろ。」

変にせよ、不可解にせよ、認めざるを得ない。そして認めたからと言って納得する訳ではない。自分の心がどんどん軽くなっていっているのなら、どうにかして止めなければならない。直さなければならない。更に悪化したらどうなるか鈴木は想像もつかないが、やはり不安。


想像がつくより先に現実が鈴木に追いつき、実際に状況が悪化した。心は更に軽くなった。もう感情と言える感情はほぼなく、ただただ自分の人生を傍観していた。しかし厄介な事に、退屈だけはしっかりある。鈴木は困っていた。


時間が解決しなければ知恵を試し、知恵を尽くしたら人に頼り、人に呆れたら神へ祈り、神に見捨てられたら死を待つ。

死への道に目を向けて初めて見るものがある。

鈴木が見たのは人でも神でもない、影。理解してくれる影。納得できる事しか言わないでくれる影。

「なぜこうなったんだ、俺は?」

「虫だよ。お前の中に虫が入っちまった。魂喰い虫ってやつがね。気長な輩で、貪ったりはしない。気付かれないように少しずつ少しずつ、何年もかけて魂を齧っていく。幸せが好物でね、最初に喰っちまう。それから楽しみ、望み、安らぎもゆっくり喰い尽くす。それが幸いなのか逆に泣きっ面に蜂なのか分からんけれども、悪いもんまで遠慮なくいただくんだよ。悲しみ、怒り、妬み、恐れまで。」

「でも残っているよ、たしかに。退屈と、それがもたらす絶望が。」

「勘違いだ。それはお前自身のものじゃない。お前の心が生んだ感情ではなく、その心に巣を作った虫が残した糞だ。」

「魂喰い虫は取れるのか?」

「取れるよ。」

そう言われた鈴木は悟ったつもりだった。問題の原因が分からなければ解決は出来まい。よって、問題の原因を知った今なら解決出来ると錯覚してしまう。しかし当てを知らず彷徨う者と、当てを知りつつもたどり着けずに彷徨う者の違いでしかない。


影との会話を経て、鈴木は生き続けた。

「虫さえ取れれば、それさえできれば」とひたすら念じながら。が、念の為にと人は事を成しても、人のためにと念は何も成さない。彼も彼で出来ることは全部試したがどれも改善に繋がらず、結局途方に暮れていた。


希望は元々有って無いような物だった。諦めがついた方が楽だと漸く分かって、鈴木は仕方なく虫に降伏した。助けてくれ喚くだけの魂すら、もう彼には残っていなかった。


退屈と苦痛の日々が続いて十年、彼の事を人間と言っていいかどうかも怪しかった。言葉は喋るし、仕事はするし、なんなら家族も作っていた。しかしこの一見人間らしい行動には意図なんてなかった。寄生虫に命じられるがまま生き延びようとする動物だったかもしれない。ところが、十年が二十年になればその命令に従うのも困難になる。なんせその行動にメリットも喜びも感じないのだから、一度勢いを無くしたら止まってしまう。彼の道を照らす最後の蝋燭も消えようとしている時、暗闇の寸前に鈴木はもう一度影に会った。

「ご苦労だったな」

「結局、どうすれば虫が取れるのかまだ分からない。努力は惜しまなかったけど、全部無駄だったよ」

「当然さ。昔、取れると言ったのは決して嘘ではなかった。でもその時はその時。今のお前には取れるはずもない」

「なぜだ?」

「そりゃ虫がとっくに消えているからだよ。去っていったんだよ、勝手に。」

「じゃあ、なぜ俺の魂は治らなかった?」

「治るもんかよ。喰われたら終わりさ。火が消えたからと言って、火事で燃えた家は元に戻るのか?」

侮辱だろうと屈辱だろうと、影の言葉になぜか納得してしまう。今更恨んでも遅い事も分かっている。

だから、鈴木は言う。

「今までの人生で色んな人の話を聞いて、色んな助言をいただいて、色んな相談に乗ってもらった。為になるのも沢山あったよしかしその中でもあなたの言葉だけは特別だった。冷たい言葉だが孤独を感じさせなかった。あなたならちゃんと俺のことを理解して話していると信じている。でもただの影に見えるし、正体が分からない。だから最後に一つだけ教えて欲しい。あなたは誰なんだ?」

「全く。これくらいすら分からない馬鹿だから虫に魂を喰われるんだよ。影だよ、確かに。お前のな。」

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