弦・短編集

Marco Godano

人は誰しも心の中に「弦」を持っている。この弦が響く事によって人の感情や思想が具現化され、外へと伝わる。

低く轟く弦を持った人も居れば、高く細く囀るような弦を持った人も居る。持ち主が上機嫌であれば弦はリズムを速め、落ち込んでいればゆっくりとしか音を出さなくなる。

同じ音を出している人同士が会えば、それらの弦は共振し強調しあう。人と人の間に生まれるこの耳に聞こえない和音こそが人間関係の基になる。人は嫌な音を発する人を無意識的に避け、快いと思う音を発する人を求める。

人は誰しも心の中に「弦」を持っている。否、「弦」を持っているものこそが人間かもしれない。

成瀬俊には生まれつきの才能があった。それは、人の弦の音を聞き取り、真似できるという才能。相手がゴンゴン鳴らせば自分もゴンゴンと鳴り、相手がチュンチュン鳴らせば自分もチュンチュンと鳴る。その協奏ぶりはあまりにも完璧で、会った人は皆彼との特別な縁を感じずにいられなかった。また相性の悪い二人が目の前に居たなら、俊はどちらにも響く音を見つけては匠に奏で、納得できる折衷へと両方を導いていた。

この才能を駆使すれば周りからの好感くらい安く買える。しかし薬も過ぎれば毒となるように、その好感は毒となった。好かれて喜ぶ、気づけば好かれて安心する事へ、やがては好かれて当然に。転じて、嫌われる事を恐れて行動する事になる。ひたすら耳を澄まし、合わせて弾くことしか彼はもうできなくなっていた。

緩めて、締めて、緩めて、締めて。


そしてある日、耐えられなくなった。

彼の心の弦はぽつんと切れた。

成瀬俊の心は静かになった。


外から内へと渡ってきた刺激が響かなければ、内から外へと喜怒哀楽の音色も響かない。何も感じられない。何も楽しめない。他人との距離はどう足掻いても埋められないように思えてきた。ただのからくり人形と化して情も欲も志を失ったものには何が残るかといえば、それは退屈と苦痛のみ。

かつての才能も今や呪い、耳だけは相変わらず利いていて周りの激しく眩しい心の演奏は未だに聞こえる。世はちぐはぐながらも壮大な音楽を容赦無く作り続けるが、自分だけは参加できない。蚊帳の外というより、一人だけ蚊帳で監禁されているような気分になる。蚊帳の向こうの人間達が楽しそうにしている分、取り残されている苦痛が増す。同感どころか、彼の周りの人はその状況を理解すらできない。

もう生きていても仕方がないと、成瀬俊は思った。切れた弦は二度と元に戻る事はあるまい、と。しかし彼が辛うじて奏でられるのは遠くて聞こえにくい苦痛でしかない。生きたい死にたい以前の問題。何がしたいか、どういう状況を望むか、それすら感じられなくなっていた。結局諦めがついた。それ以降彼の人生は自分の意思によるものではなく、単に偶然や周りの気まぐれに左右され流されるだけの人生になった。

こうして唖な心は封じられた。


年月が経ち成瀬俊は老い、いつの間にか死が目前であると悟った。孤独な死に際にもう一度だけ、自らの心に耳を澄ましてみた。それは希望でもなく好奇心でもなかった。ただただそうしてみただけ。封を剥がしてみれば、心の中の弦は完全に直っていた。元々壊れてなんかいなかったのかもしれない。一時的な病気を一生の傷と勘違いしていただけかもしれない。しかし心を閉ざしては結果が同じ。弾けないも弾かないも周りからしてみれば何ら変わらない。愚かさのあまり、恐怖に翻弄されるだけの人生を過ごしてしまったと漸く気づいたが、今更遅い。

埃と錆にまみれた弦は、最期の音を発した。それは悲しくて、虚しくて、悔しい音だった。

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