第15話 邂逅


「こんにちは、いちかちゃん」


 次の日の昼。


 食堂でお昼を食べるいちかの前に現れたのは、例の美人部長だった。


 まだ残暑も厳しい季節に、お盆にうどんを乗せてやってくる。

 いちかはギクリと身じろぎしたが、彼女が柔和な笑みを見せると、不思議と警戒心が溶けてしまった。


「あ、えっと、部長さん……」

「翠って呼んで。苗字じゃあれだし」


 そう言いながら、対面の席を当然のように選ぶ。

 フィクション以外で名前呼びを勧めてくる人、始めて見た……


「何食べてるの? あんぱん?」翠はいちかの手元を見て言った。

「あの、はい」

「あれ? こっちもあんぱんだ」彼女はまだ手をつけられていない方のパンを指差す。

「あ、それはオヤツ用で」

「好きなの?」

「はい。あんぱんと牛乳が好きです」

「刑事みたいだね!」

「よく言われます」


 目の醒めるような外見からは想像できないほどの距離の近さ。

 いちかは思わず身を引きながら答えていた。


「でも牛乳ないね? よし、買ってきてあげよう」


 いちかが制止する間も無く、彼女は立ち上がると、スナック系の置かれるブースまで向かい――会計の間におばちゃんと歓談までした上で――小さな牛乳パックを持ってきた。

 雄也並みのコミュニケーション能力だ。


「はい。どうぞ」

「すいません……」

「いいっていいって。それより、いちかちゃんのこともっと教えて?」


 肘をついた両手に顎を乗せて、彼女はその蠱惑的な瞳でいちかを見つめた。


 な、なんだこの人……漫画のキャラクターか?


 その一件を機に、彼女は、図書館、休憩室、近所のスーパーなど、どこからともなく現れてはいちかに話しかけてくるようになった。


 まさに神出鬼没。

 監視されているのではと心配になるほどだ。


 そして、彼女は決して勧誘をしてこなかった。

 ただ雑談をしては、隙を見て必ず何かを買い与える。


 この流れを徹底していた。

 そのせいで、いちかは段々と、作戦だとわかっていてさえ、それを心待ちにしてしまうようになっていた。


 顔面高偏差値の先輩に、何かと付き纏われ、最後には奢られる。

 これほど承認欲求が満たされたことはない。まるで、乙女ゲームの主人公になった気分だ。


 もしかしたら、今日にも家の前で帰りを待っているかもしれない……

 しかし、それを嫌だと思っていない自分が最も怖かった。


 このままじゃ私、彼女なしでは生きていけなくなる……!


 ある日の食堂で、いちかは意を決して叫んだ。


「め、迷惑なんです! もう来ないでください!」

「そんな! いちかちゃん待って!」


 周囲の一般生徒が呆気にとられる中、いちかが逃げると、まるでメロドラマのように翠もそのあとを追ってきた。


 夏休みの大学で追いかけっこする女子大生二人。


 ひたすら走って、走って、気づいたときにはキャンパスの端の方まで駆けていた。

 湿度が高く粘っこい空気に、息が上がる。


 いちかは近くにあった比較的小さな棟の中に逃げ込んだ。


「はぁ……はぁ……熱っ……」


 へばりつくシャツの襟元をはためかせながら、柱の影に隠れ、窓から外を伺う。


「いちかちゃーん、どこー?」


 翠は、棟の前を過ぎ去っていった。うまく撒けたようだ。


 隠れ場所にしたエントランスホールは空調の効いていて、天国のようだった。

 一度も来たことのない場所だったが、何用の棟だろう?


 いちかはホールのあちこちに目をやって、不意に凍りついた。

 事務局の案内にも、掲示物にも、同じ三文字が踊っていたからだ。


『文学部』


 あれだけ避けていた、美雪の学部棟じゃないか……!

 慌てて回れ右しようとしたそのとき――


「いちか?」


 氷を丸ごと飲み込んだような寒気が背筋に走った。


 やっぱり、彼女との関係は、呪いなんじゃないだろうか……


 振り返ると、ホールに繋がる暗い廊下に、分厚い紙束を抱えた美雪が立っていた。


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