第1話 退部届


「金海さん、コンクールのメンバーだったよね?」


 今、県立川西高等学校の吹奏楽顧問である佐伯里佳子の机の上には、『退部届 金海いちか』と小さな文字で書かれた封筒が一封置かれていた。

 彼女は、それを一瞥してから、前に立つ生徒を再び見上げる。


「もう大会二週間前だけど、どうするの?」

「後輩が吹けるので、代わってもらいます」

「急に代わるったって、後輩ちゃん可哀想じゃん」

「でも、私がいると士気を下げるので……」


 夏休みの職員室は、ガランと広く、空気は澱んで動かない。

 冷房の効いた部屋に響くのは、校舎裏の雑木林から聞こえる蝉たちの合唱と、出勤している教師たちがキーボードを叩く音だけ。


 問題の原因たる金海いちかは、顧問の机の上に視線を泳がせたままでいる。

 里佳子は小さく息をつき、シャツの袖を捲ると、腕組みして背もたれに体を預けた。


「なに、喧嘩でもしたの?」

「いえ、そういうわけじゃないですけど」いちかはわずかに言い淀む。「……コンクールに乗り切れなくて」

「どういうこと?」

「なんか、なんでみんなコンクールに必死になってるかわからないっていうか……楽器って辛い思いして吹くものなんだっけ、みたいな」

「ふーん……?」

「なんか、ついていけないなっていう」

 いちかの声は尻すぼみに小さくなっていく。


「でも、金海さんは大会に出る以上、オーディションで落ちた他の子たちの想いも背負ってる訳だよ。それはわかるよね?」

「それも、よくわからなくて……」

「あら……」

「こんな奴一人でもいると、きっと勝てないから。私がいない方が部活の為になると思うんです……」

 小刻みに震えるいちかの指を見て、佐伯先生は困ったように眉を顰めた。


「私、楽器やったことないし、いまいちよくわかんないけど。他の子には話したの?辞めたいって」

「いえ、まだです」いちかは首を横に振る。

「じゃあ先生より先にそっちでしょ。一旦これは返すから。少なくとも部長に話をつけてからまた来なさい。突然辞めたらみんなびっくりするよ」

 里佳子は退部届をいちかの方に押し返すと、いちかの表情は困惑を浮かべた。


「部長、ですか……」

「なに?」

「いえ、わかりました……」

 いちかは震える手で返された封筒を受け取り、頭を下げて職員室を後にした。





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