生活

      

生活

 携帯のアラーム音とトーストの焼ける僅かに甘くて香ばしい匂いが鼻腔を柔らかく撫でた。午前六時半にセットしたアラームをぼやけた頭で止めると、ぼさぼさになった自分の髪を手櫛で軽く梳いてから大きく欠伸をしてベッドから降りる。首元が伸びてヨレヨレになったことでパジャマに降格したTシャツが、私の動きに合わせて僅かに呼吸をした気がした。

 寝室の隣にある11帖のLDKに続くドアを開けると、そこには忙しなく朝食の支度をする彼女が立っていた。寝起きでうまく回らない頭を無理矢理起こしながら「おはよう」と少し掠れた声で言えば、トースターにパンを入れていた彼女はこちらをふり返ると「おはよう」と笑った。

「ごめん、当番のことすっかり忘れてた」「いいよ、明日交代してくれる?」「ん」

 小さく欠伸をしながらそう返せば、彼女はクスクスと笑いながら「ね、寝癖ついてる」と笑う。「嘘」と言いながら自分の髪に触れれば、彼女は唇に柔らかい弧を描いたまま「ちがう、もっと」と言ってゆっくりとこちらに手を伸ばす。

 ────パシン

 しまった、と思った時にはもう遅かった。私は無意識に払いのけてしまった彼女の手を見ながら、「あ」と小さく声を漏らす。彼女はと言えば、一瞬だけ驚いたような表情をすると「急に触ってごめんね」と言ってふにゃりと笑う。それにどう返せばいいかわからないまま私も「……叩いてごめん」と返せば、彼女は緩く首を振るとこちらに背を向けて「寝癖、後ろについてたから直しておいでよ」と言いながら電気ケトルに水を入れた。

 私は気まずい空気から逃げ出すように洗面所へ向かうと、スタイリング剤を使って寝癖を直しながら小さくため息を吐く。今のはまずかったとは思いながら、その先をどうすれば良いのかもわからない。無意識に出てしまった自分自身の行動に自己嫌悪を抱いても、してしまった行為は取り返しがつかない。それがより一層、私の自己嫌悪に拍車をかけた。


 もともとは、共通の友人の紹介だった。私は高校時代の友人で、彼女は保育短大時代の友人。私たちは趣味や今の職種が似ていたこともあってあっという間に意気投合して、それからは友人を抜きにして二人で遊ぶことも多くなっていった。彼女は保育士をしていて私は児童発達支援の仕事をしているから、仕事上の悩みや子どもとの関わり方をよく話すことが多かった。どんな声掛けをするべきだったのかとか、子どもの特性や関わり方、上手な叱り方や褒め方のような私自身が苦手とする部分に対して、的確にアドバイスをくれる彼女のことを私は尊敬していた。彼女から勧められた育児書や、私が読んで参考になった書籍の貸し借りをするうちに、次第に私たちの距離は「友人の友人」から「友人」くらいまで縮まっていって、やがて私たちは互いを名前で呼ぶようになっていった。

 恋人になって欲しいと言われたのは、彼女と友人と呼べる関係になってから何年か経ってからのことだった。二人で食事に行った帰りに、そう言った彼女の肩が緊張で酷く震えていたことを覚えている。生温い風が半袖のTシャツから出た私の腕を撫でて、自分自身の手が汗ばんでいるのが解った。恋人になって欲しいということは、つまり私と恋愛関係になりたいと言うこと。そう思って、私は自分でも驚くほど狼狽していた。私は彼女と恋に落ちたいと思ったことは無かった。彼女だけじゃない、私は今まで出会った誰とも恋に落ちたいとは思わなかった。街中やテレビドラマ、恋愛リアリティーショーを見るたびに、何処か遠い世界の出来事のように思っていた。私にとっての恋愛は物語の中のような空想上の出来事に最も近しい位置にいて、私自身はそこから最も離れた位置にいた。虹色に染まった世界で、自分だけが染まりきれずにいた。

 それでも彼女の提案に頷いたのは、ひとえに彼女を失いたくはなかったから。最も気の置けない友人として、私は彼女を正しく愛していた。そんな彼女とならきっと、恋人になっても変わらずにいられるだろうと信じていた。浅はかにも当時の私は、彼女の言う恋人と言うものは友人としての愛が少し形を変えただけのようなものだろうと思っていた。だからあの時喜色満面と言った表情の彼女と手を繋いだ瞬間に感じた違和感に蓋をして、ずっと彼女と手を繋いだまま生活をしている。キスやハグやそれ以上の恋人同士の営みは出来なかった日も、彼女から同棲を提案された時も、同棲とは言えないから世間体を気にしてルームシェアと偽った時も、初めて越してきた日の夜も自分から彼女を情熱的に求めることはない。彼女が触れようとした髪が、少しずつ真っ直ぐになっていく。持ち主の心など置いてけぼりにして勝手に整っていく見た目が忌々しかった。


 珈琲入ったよという彼女の声にありがとうと答えるとスタイリング剤を洗面棚に置いて電気を消す。東向きの窓から朝日が入り込み、乳白色のレースのカーテンを柔らかく照らした。珈琲の匂いが部屋を優しく包むようないつも通りの朝。彼女が時計代わりに付けていたテレビからは、木曜日を告げる文字と性的マイノリティのための法案が成立したことを告げていた。私は珈琲に口を付けてぼんやりとそれを眺めて、彼女はトーストを齧りながら同じようにニュースを眺めていた。過度に喜ぶことも、悲しむことも、怒ることもなかった。彼女はトーストを齧り、私は珈琲から唇を離してトーストを齧った。そこにあるものは、ただ小さくて普遍的な当たり前の生活だった。

 薄い箱の中では、コメンテーターが法案についてそれぞれの持論を展開していた。街頭インタビューや当事者のコメンテーターのように過度に歓迎することも、過度に嫌悪感を抱くこともない自分が少し異質にも思えた。

 世間ではLGBTQ+に対して過度に嫌悪感を抱く人間もいれば、好意的にとらえる人間もいる。そう言った題材を主として創作活動をする人間もいれば、当事者として権利を主張する人もいる。一貫しているのは皆何かしら自分の考えがあって生きていると言うこと。ではそうでは無い側の自分はいったい何だと考えて、小さくため息をついた。テレビは私たちの住む県の日中の最高気温が29℃になることを告げる。暑くなってきたねと彼女が言って、そうだねと私は答えて空いた皿とマグカップを持って流しへと向かう。片手に半分欠けたトーストを持ちながらスマートフォンをいじる彼女の画面に例の法案が映っている。調べたって意味が無いのにという思いを打ち消すように、私は目を伏せて食器を洗った。


 慌ただしく準備を終えた彼女を玄関で見送ってから、私は洗濯を済ませるとユニフォームの上から薄い上着とリュックサックを背負って家を出る。マンションの下のコンビニで昼食を買うと、そのまま駅に向かって歩いていく。九時始業開始の彼女が乗る電車の数本後の電車は比較的空いていて、私はいつもの定位置に座るとスマートフォンをいじって駅に着くまでの暇をつぶした。今日のシフト表と担当の子どもの顔を思い浮かべながら、私は小さく欠伸をする。

 遊歩道を歩いて「放課後等デイサービス」とポップ体で書かれた会社のドアを開け、職員室に入りながら「おはようございます」と挨拶をすれば仕事の準備をしていた同僚や上司が口々に「おはようございます」と挨拶を返す。ロッカーに上着と荷物を置くと、名札に三色ボールペンを引っかけてデスクに座る。既に上司が置いてくれていた机の上のパソコンを開くと、本部から送られていた諸連絡や今日のシフトを再確認してから、始業開始のタイムカードを切って朝の掃除へと向かった。

 彼女の話を職場でしたことはなかった。先輩の恋人の愚痴を聞くことはあっても、自分の話をしたことはほとんどない。それは自分が他者からみれば性的マイノリティだからとか同僚がマジョリティだからとかそう言った話以前の問題で、そもそもプライベートの話を他人と共有することに私はどこか理由のない不快感があった。それは、彼女との今の関係にも言えることで、私は私の小さな生活を守っていくことに精一杯で、彼女とのキスやハグはそこには含まれない。例え含まれなくたって彼女を大切だとは思っているのだけれど、時々それが恋人として正しい距離感なのか解らなくなる。全てを捨てても良いと思うほどの熱を彼女に抱けない自分が時々酷く薄情な人間にも思えてきて、そう言うときは少し息が苦しくなる。付き合い始めの頃は互いに距離感を掴みあぐねていたから表に出てこなかっただけで、私と彼女の関係はずっとそうだったのだろう。それが長い年月をかけて、表に出てきただけのことで。

(……びっくりしてたな、今朝)

 あの頭を撫でると言う行為は彼女からすれば単なるコミュニケーションの一環で、同棲する恋人としても自然な距離感だ。頭では理解しているはずなのに、私自身がそれをなかなか受け入れられずにいる。触れられることも苦手で、触れることも出来ない。恋人であるはずなのに、彼女との性的接触を含む全てに関心を持つことが出来ない。彼女が触れあいたいと思ってくれていることは火を見るよりも明らかなのに、同じだけの気持ちを彼女に返すことが出来ないでいる。

 昼休憩の時間になると、私はまばらになった職員室の自分のデスクの上でコンビニ袋を広げる。「栄養偏るよ」という上司の言葉に曖昧に笑いながら携帯の電源を付けると、タイミングよく彼女からメッセージが届いていた。

『ごめん、今日飲み会』『迎えに行こうか』『大丈夫。チェーンロックだけ外しておいて』『わかった』

 そこまで打って、ふと今朝の彼女への自分のした行為を思い出す。そうしてまた今朝と同じように、あれは不味かったよなと小さくため息を吐いた。

 私自身が幼い頃からもともと他人との肉体的な接触を避ける傾向にあった。性的接触なんてその最たる例で、他人との性行為なんて考えただけでぞっとする。恋愛感情が誰かに沸き起こったことはなくて、人生全てを賭けるほど恋にのめり込む人も理解できない。幼い頃からずっとそうで、ひょっとして何か人間として欠如しているのではないかと思って精神科にも通ったが、何も変わらない。自分は人との接触が出来ない人間で、これから先もずっとそう生きていくしかない。色々なセクシャリティが許容されるようになってきたのだから、自分のような人間がいたって構わないはずだ。触れないことに寂しくも苦しくもない。だって自分にとって、それが"普通"なのだ。性接触をしなくたって、私は私として正しく彼女を愛している。

 でも、目に見える形での愛情を表現するものには嫌悪感を抱いていて、性行為も出来なくて、キスもハグも出来ない自分が果たして本当の意味で人を愛していると言えるのだろうか。じゃあ性交渉がなければ愛は存在しないのか。そんなことはないだろうと思うと、また解らなくなってしまう。私は小さくため息をつくと、コンビニのサラダを口に運ぶ。ドレッシングのかかったそれは、舌が痺れるほど塩辛かった。


 お疲れ様でしたと挨拶をしてから会社を出ると、そのまま彼女に『これから帰る。飲み会、気を付けて』とだけメッセージを入れて駅に向かう。ICカードを改札に通して最寄り駅まで向かう電車に乗ると、空席に座って携帯を開く。変わらずに開いてしまうものは今朝見た法案で、私はそれらから目を背けるように携帯の電源を落として瞼を閉じた。

 22時をまわった頃、夕食を終え寝支度を済ませると「たらいまー!」という彼女にしては陽気で呂律の回らない声が玄関先から聞こえてきた。慌てて玄関先まで出て行くとそこには珍しく飲んで顔を真っ赤にした彼女がくたりと床に座り込んでいて、私は急いでコップに水を入れると彼女に手渡す。「飲んでるね」と言うと、彼女はコップの水を飲み干すと真っ赤な顔をしてへらりと笑いながら「ぐらぐらするー」と頭をまわしていた。私は呆れて彼女のぐしゃりと崩れた一つ結びの髪をほどく為に腕をまわせば、そのまま彼女は私を抱きしめる。瞬間、込み上げてきた嫌悪感に身体を離せば、彼女はとろりとした赤い目で私を見つめて「なんで逃げるの」と言った。

「なんで逃げるの。今朝もそうだった」「別に、逃げてるわけじゃない」「私のことが嫌いになった? 触れられるのも嫌?」「……そう言うわけじゃないけど」

 彼女は酔って赤くなった目で、真っ直ぐに私を見つめている。私はと言えば、そんな彼女から逃げ出すようについ目を伏せる。彼女は玄関のドアに寄りかかり、目が据わったまま変わらずに私を見つめている。

「……じゃあ、やっぱり女同士で付き合うのなんて無理だったってこと?」

 次に彼女の口から飛び出してきた言葉に思わず顔を上げれば、今度は彼女が顔を伏せてしまう。乳白色のつむじが、蛍光灯に照らされて白く光った。

「ちが、」「じゃあ今朝の何!? 最後はどうせ男のところにいくってこと? それとも私に魅力がないから、セックスもキスもしたくないってこと?」

 頬を紅潮させながら顔をあげた彼女の、少し赤く染まった瞳がゆらゆらと揺れている。一重の瞼は酒のせいか半分以上閉じられて、長い睫毛が柔らかな頬を縁取っている。飲みすぎだと流してしまえばいいはずなのに、どうしてか顔が背けられない。支離滅裂な彼女の言葉から、それでも目を背けてはいけないような気がしている。

 先に目を伏せたのは彼女のほうだった。彼女の動きに比例する様に、ボブカットの黒髪が肩を滑り落ちていく。憔悴と言っても差し支えないような彼女の表情に私は自分のことを全て曝け出してしまいたくなるけれど、そうすることも酷く恐ろしくて口を噤んでしまう。

 セックスもキスもしなくたって、伝わっていると思っていた。私は私なりに彼女を正しく愛していた。彼女と営むこの穏やかで静かな生活が好きだった。私は彼女と一緒にいられるだけでよかった。恋人としてやっていけなくても、最も近い距離で彼女を失わなければそれでよかったのだ。でも、彼女は違う。目に見える形で愛情が感じたくて、だから不安になってしまうのだろう。今朝のことはきっかけに過ぎなくて、本当はずっと前から不安だったのかもしれない。

 早く言わなければならなかったことを、知られるのが怖くて先延ばしにしていたのは私だ。彼女を失いたくない一心でなれるかどうかわからなかった恋人になったのも、触れられることや性的接触が苦手だと彼女に伝えなかったのも、そう伝えたら彼女が離れていってしまうと思ったから。伝えなければ、彼女を失うことは無いと思ったから。けれどもそれと同時に、こんな関係がいつまでも続いていくとも思わなかった。きっといつかどちらかに限界がきて、自分自身を曝け出すか離れるかの二択を迫られる日が来る。その時に自分がとるであろう選択はずっと心の中で決まっていたはずなのに、その言葉が今は喉につかえて出てこようとはしない。

 彼女が調べていたLGBT法案から目を背けてしまったのは、きっと自分自身が彼女に対して性的欲求を抱けないことを引け目に感じていたから。恋人として当たり前のことが出来ないことに、申し訳なさを感じていたから。世間一般で当たり前に出来ていることが、自分にはできない。人間が当たり前に抱く欲求が自分にはない。それがあるともっと人生が豊かになるそうで、それがあるともっと他者が魅力的に見えるそうで、だけどそれがない自分も同じように彼女に魅力を感じていて、自分の人生を豊かだと思っている。その差は何だろうと思っても、生まれつきないものは解らない。彼女に離れていってほしくはないのに、引き留める自分の気持ちがどこから来るのか解らない。

「……男の人のところに行くとか、女同士で付き合うのが無理だったとか、そう言うんじゃないよ」

 静かに零した私の言葉に、彼女はぴくりと肩を動かす。何か言いたげに顔を上げると、そのまますぐに押し黙ってまっすぐに私の顔を見つめたまま、静かに続く言葉を待っている。

「私は子どもの頃から、性的なことも恋愛もよくわからない。何かトラウマがあるとかそう言うことじゃなくて、他者にそう言う意味で惹かれないんだ。君と出会う前から、ずっとそうだった。君に告白された時も、やっぱり解らなかった」

 自分の口からぽつりと吐き出される言葉が、酷く濁った固まりとなって部屋の中に落ちていく。指先が緊張で酷く冷たくて、私は無意識に拳を作った。

「だから君に告白された時、断ろうと思ってた。どう頑張っても君のことを恋愛として好きにはなれないし、この先の人生で絶対に君を傷つけることになる。だけど、同じくらい君のことを失いたくなかった。あそこで君の告白を断ったら、もう君は一緒にいてくれないんじゃないかと思うと、怖かった。君に好かれていたかったし、君を好きになりたかった」

 私は大きく息を吐くと、そのまま吐き出すように言葉を並べる。吐き出した言葉は支離滅裂で、一方的で、彼女の気持ちなんてなに一つ考慮していなくて。だけど、どうしようもなく正直な気持ちだった。

「触れられた時に手を払ってしまったのも、他人に触られることに嫌悪感があったからだ。君が嫌いだとか、君が嫌になったとかじゃなくて、君を含めた全ての人に触れられることに抵抗感がある。恋人でも、友人でも変わらずに」

 私の零した言葉を、彼女は静かに聞いている。ゆらゆらと揺れる目が、静かに私を見つめている。うん、と彼女は小さく呟くと、先を促すように私の名前を呼ぶ。私は大きく息を吐くと、「それで、」と小さく呟いた。

「それで、私は────」

 彼女を見て口を開いた瞬間、かくんと彼女の身体が傾く。咄嗟にその身体を受け止めると、彼女は真っ赤な顔のまま小さく寝息を立てていた。私は彼女の名前を何度か呼ぶが、彼女の眠りは深くてその答えは返って来ない。

 私は拍子抜けしたまま暫く静かに寝息を立てる彼女を抱えると、彼女の両脇に腕をさして引き摺るように寝室へと連れて行く。完全に力を抜いた成人女性を運ぶのはなかなか体力がいることで、私は彼女をベッドに転がすとそのまま腰掛けて呼吸を整える。呑気な顔をして眠っている彼女の表情に「誰のせいで」とどこか憤りが湧きそうになるのと同時に、そんなことにどこか笑ってしまう自分がいる。これが恋では無かったとしても、こんな日々を続けていたいと願う自分がいるのも本当のことだった。

「────ごめんね」

 私は小さく呟くと、彼女のベッドから立ち上がって部屋の電気を消す。最後に見た彼女の表情は、どこかあどけない寝顔をしていた。


「あたまいたい」「そりゃ、あれだけ酔ってればね。駄目だよ、平日の飲み会はセーブしないと」

 翌日の朝、うんうん唸りながらダイニングテーブルに突っ伏す彼女を見ながら私は朝食のパンをかじっていると、彼女は「ほんとだぁ」と言ってまたテーブルに突っ伏す。「仕事行ける?」と尋ねれば、「這ってでも行く」と机に伏したまま答えが返って来る。

「昨日、ごめん。気がついたらベッドに寝てて……大丈夫だった?吐いたりしてない?」

 頭を抑えながらこちらを見る彼女は、昨日のことはあまり覚えていないようで。私は少し考えて「すごい酔ってた」とだけ返すと、彼女は「うわー、本当にごめん」と頭を抱える。

「吐いてないから大丈夫」「いや、それ本当に最低限だから……うわー、もう最悪。断酒しようかな」「いや、極端すぎるでしょ」

 頭を抑えながらそう言う彼女に、私は「ん」と二日酔い対策のドリンク剤を渡すと彼女はへらりと笑って「ありがと」と言って受け取る。

「今週のシフト土曜出勤だっけ?」「いや、今週のシフトは土曜休み」「あ、ひさびさの連休じゃん」「そうだね」

 月曜日から土曜日まで開校している私の仕事はシフト制の休みで、土日休みの彼女と休日が被るのは月に一度だけだ。「じゃあ、どっか行こうよ」と言った彼女の笑顔は酷く眩しくて、私は思わず目を眇めた。

「え、なに? もしかして、もう用事入ってた?」「……いや、」

 私は珈琲に口をつけると、テレビに視線を向ける。昨日のLGBT法案の話を、当事者の視点から語ったインタビュー映像が流れていた。


 ────理解されなくても良いんです。当事者同士だって差別意識はありますから。だけどこういう人間もいる世の中が当たり前のものであって欲しいって、今はただそう思います


 私は珈琲に口をつけたまま彼女を横目で見ると、彼女は小首を傾げて私を見る。それに小さく笑いながら食パンを齧った。

 ────いつか彼女に、言えたらいいと思う。性愛は抱けないけれど、彼女と一緒にいるこの生活を私自身も大切に思っていることを。それがなくならないでいてくれたらいいと、心のどこかで思っていることを。君を正しく大切だと思っていることをいつか怖がらずに伝えることが出来たら、そしてそれを彼女が受け入れてくれるのなら、それはとてもいいなって、そう思うのだ。


「────いつか君をちゃんと大切に出来たらいいなって、そう思っただけ」


 小さく呟いた私の声は、ニュースの音量にかき消されて彼女には聞こえなかったようで。それでもいいかと小さく笑うと、私は食パンを齧った。

 11帖のLDKと、二人用に分かれた寝室。共有することのない夜の時間と、行うことができない性行為。それでもそれが欠けているものだとあまり思わなくなったのは、昨日の夜、彼女とともに少しだけお互いの本音を吐き出して、共有するものが増えたからなのかもしれない。

 同じメーカーの食パンに、同じ食器、色別に分けた歯ブラシと名前の書かれたコップ。少しずつこの部屋に必要なものが増えていったように、今は彼女との時間を増やしていくことが出来ればいいと思う。

 この、時々喧嘩をして、同じものを食べて、営んでいく静かで穏やかな生活が、少しでも長く続けばいい。そんなことを思いながら、私は珈琲を一口啜った。

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