紅い月が満ちるように
髪を伸ばし始めたのは、初めての恋に裏切られたあのときからだ。
「キレイな髪ね。伸ばしてるの?」
そう言って髪に指を絡めたのは誰だっただろう。もはや記憶の片隅にさえ残らないほど昔の、どうでもいい行きずりの女だったのだろう。別に伸ばそうと思って伸ばした訳でもないが、
「失恋の痛手が癒えるまで、ね」
適当に答えておいてから、酷く後悔した。女はそれ以上の追及はしなかったが、あのときの彼女の姿が鮮明に蘇ってしまったのだ。彼女の笑顔を振り切るように、激しく女を貪った。女もまた甘い声で応えた。そんなどうでもいい毎日ばかりが過ぎていった。
「キレイな髪をしているのね」
彼女がくれた最初の言葉は、確かそれだったように思う。行き倒れていたところを、彼女の父親に助けられ、彼女が看病してくれたのだ。気が付いて視線だけで周囲を見回したときも、彼女は何かを言っていたはずなのだが、まだ意識がはっきりとしていなくて聞き取れなかった。しっかりと聞き取れた最初の言葉が先の言葉になる。
母に乞われ最愛の姉を裏切り、行くあても帰る場所もなく、自分が生きる意味さえ見失っていたあの頃──とにかく己の犯した罪から少しでも遠ざかろうと、生まれ育った故郷に背を向けてひたすら歩いて旅をしていた。
月が──夜空に浮かぶ月が、この心の奥底まで見透かしているような、大地を照らす太陽が、犯した罪と己の弱さを責めたてているような錯覚に襲われて、一睡もせず三日三晩歩き通した。その果てにたどり着いたのが彼女の住む村だった。
放牧と農業を生業とする小さな村だった。彼女は父と娘の二人暮らしで、助けてもらったお礼にと作業を手伝うと、男手が足りないせいもあってとても喜ばれた。このままここで暮らさないかと誘われて、行くあてもなかったのでその言葉にありがたく甘えさせてもらった。
彼女の髪は茶色で、量が多い上にくせがあったため、結い上げていないとすぐにボサボサになってしまう。そんな彼女はいつもこの紅い直毛を撫でては羨ましがるのだ。男の身で髪がキレイだと誉められても正直なところ何とも思わないのだが、彼女に優しく撫でられるのは好きだった。だから、彼女の気が済むまで髪を触らせた。だがこちらが彼女の髪に触れようとすると、コンプレックスの塊のせいか、怒って触らせてはくれないのだ。いつも一方的に撫でられるだけで、それでも心地よくて、月明かりの下で髪を撫でられながら眠りについた。
彼女が髪を下ろすのを見たのは、いつ頃だっただろう。おそるおそる彼女の髪に触れ、いつも彼女がしてくれるように撫でようとしたが、すぐに指が絡まった。恥ずかしがる彼女を抱きしめて、少しずつ髪を梳った。ようやく髪を梳かし終えたときには、すっかり夜も更けきって、高い空から月が見下ろしていたことを覚えている。あのときも月が見ていた。だがあのときは、月のことなど──彼女以外のことなど、眼中にはなかった。
しあわせだった。故郷を見つけたと思った。このまま貧しくても穏やかで幸せな日々が続くものだと思っていた。
やがて彼女は身篭った。村中が祝福してくれた。子供ができるということは、こんなにも嬉しくて、くすぐったいくらいに幸せなものかと驚いた。母には疎まれて育ったが、父はこんなふうに喜んでくれたのだろうか。
彼女のお腹が目立ってきた頃、村に悲劇が訪れた。狼の群が襲い掛かってきたのだ。家畜を狙ってきたのだろうが、飢えた狼に家畜と人間の区別などなかった。男たちは鍬や鎌を持って応戦したが、狼の敏捷性と数には力及ばず為す術もなかった。ただ自分が守るべきものを守るために、松明を持ち牽制するのが精一杯だった。
そんな中、散乱した何かに躓いた彼女の父親が転倒した。そこへ狼が3匹飛び掛った。
一番近くにいたのは自分だった。助けられるのは自分だけだと思った。
生憎、剣や槍などの武具は使い慣れておらず、父から教えられたのが弓矢と短剣の扱い方だったため、農具のように柄のあるものは使い勝手が悪かった。そんな状況で彼女の父親を確実に助けるためには、手段はひとつしかなかった。
迷うことなく、魔法を使った。
母親に魔術を強要されたこともあって、魔法は好きではなかった。だからこの村に来てから一度も使ったことはなかった。だがこの窮地に主義思想を貫いている余裕はない。氷の楔を狼に打ち込んで、風の刃で切り裂いた。
悪魔だと、誰かが叫んだ。
何を言われているのか、咄嗟には理解できなかった。村人たちが遠巻きに集まって、さきほど狼に向けていたのと同じ目でこちらを見ていた。助けたはずの彼女の父親は、這いつくばったままでその場から遠ざかり、村人たちと同じように憎悪の眼差しをこちらに向けた。
これは後に知った事だが──魔法という文化は、とてもマイナーであるらしかった。母親の家系が魔術に深く関わっていたので気付かなかったのだが、田舎では魔法という人智を超える力は悪魔の仕業と信じられていることも多いようだった。
そんなこととは知らない当時は、何故助けた相手からそんな目を向けられねばならないのか、本気で理解できなかった。誰かが投げた石が頭に当たった。何が起きているのか、さっぱり解らなかった。向けられた剥き出しの敵意だけは痛いほど解った。
村人の気が逸れた隙をついて、まだ残っていた狼が誰かに噛み付き、悲鳴が上がった。遠巻きにしていた村人の後ろから、ひとりの男が飛び出して腕に狼をぶら下げたままで目の前に倒れ込んだ。
助けよう、という意思よりはこの理不尽な状況への腹いせが大きかっただろう。迷わず男の腕に噛み付いたままの狼を魔法で吹き飛ばした。狼の胴体は吹き飛んだが、首から上だけが残り、悪趣味な腕輪のように男の腕に残されていた。
悪魔だ!
耳障りな声がした。
イライラした。
だが、村人を割って現れた彼女の姿を見て、苛立ちは音も立てずに消え去った。
彼女の凍り付いた顔は、この村で見つけたと思った小さな幸せを木っ端微塵に打ち砕くのに充分だった。
彼女はお腹に手をやり、その小さな命を一緒に育ててくれると思っていた相手を見て、怖れ慄いた。涙さえ流さずに、悲鳴を上げた。そしてお腹を抱えてうずくまった。何が起きているのか本能で理解した。慌てて彼女に近づこうとすると、何人かの男に襲いかかられた。その手には狼と戦っていたときと同じものがあった。
何故こんな目に遭わなければならないのか──理解できないながらも、もうここに自分の居場所がないことだけは理解した。彼女がその手でこの髪を撫でてくれることは、もう決してないのだろう。打ちひしがれてその場を後にしようとしたとき、彼女の悲鳴が聞こえた。
誰かが、うずくまった彼女の腹を、強く蹴った。
そんな悪魔の子供など、さっさと出してしまえ、と。
彼女には罪はないのに。
子供にも罪はないのに。
暴行を止めようとして振り返りかけて、見てはいけないものを見てしまった。
腹を蹴られながら、涙を流しながら、強く頷いた彼女の姿を──。
たまらなくなって、走り出した。どちらに向かって走ったのかなど、覚えていない。ただ、そのときも月が見ていた。月から逃れるように、走り続けた。涙も出なかった。
これはきっと罰なのだ。
かつて犯した、償い切れない罪に課せられた罰なのだ。
それ以降、どれだけ女と夜を重ねても、誰ひとり身篭ることはなかった。
それはきっと、罪なき小さな命を守れなかった罰なのだろう。
絶望した。同時に、罪を犯しておきながら自分の幸せを求める浅ましさに嫌気がさした。
ただ、苦痛の生のみが目の前にあった。
それもいつかは過ぎていくだろうと思っていた。
その最後の望みさえ絶たれたとき、覚悟を決めた。
生き続けよう、それで贖罪となるのなら──。
逃げるようにあの村を後にしてから、髪を切ろうとする度に彼女の笑顔が鮮やかに蘇った。彼女が好きだと言ってくれた、数え切れないほどに撫でてくれた髪を切ってしまうことは、どうしてもできなかった。未練と言われればそうかもしれない。あんな凄惨な形で終わりを告げた恋なのに、思い出すのは決まって彼女の笑顔なのだ。思い出す度に胸が締め付けられるのに、思い切ることもできず、葛藤することさえ次第に面倒になってきて、髪を切ることをあきらめた。さすがに腰よりも長くなったときは適当に切ったが、彼女といた頃よりは長かったせいか、辛い過去を思い出すこともなかった。だからいつも、髪を伸ばしていたに過ぎない。ほとんど彼女のことを思い出さなくなっても、面倒臭さも手伝って、髪を短くすることはなかった。
「キレイな髪だよね」
突然の飛鳥の言葉に、神沢は何のことかと足を止める。
「ほら、あんたの髪。紅くてサラサラで。シャンプーのCMとか出れるんじゃない?」
後ろでひとつに束ねてある神沢の髪で遊びながら、飛鳥は神沢を見上げた。
「男がシャンプーのCMに出たところで、売上が伸びるとも思えませんよ」
「そうかなー。もしかしてウケるかもよ」
「ウケ狙いですか」
たわいのないことで笑い合える、そんな日が巡ってくるなどとは、髪を伸ばし始めた頃にはとても想像できなかった。
まだ神沢の髪をひっぱったりしている飛鳥を置いて歩き出せば、ブーイングしながら飛鳥が小走りに追いかけてきて、隣に並んでそっと手を繋いでくる。置いていくなと訴える手の温もりに応えるように、飛鳥の小さな手を握り返した。
「うわー、見て! 満月! キレイだよね」
飛鳥に促されて顔を上げれば、大きな満月が東の空に浮いていた。あの悪夢から時は流れ、時代も世界も人も何もかもが変わってしまった。それでも月はあの頃と同じように神沢を見下ろしている。今でも月には胸のうちを見透かされるような気がして、あまり好きではない。
「月ってさー、ずっと昔から変わらないんだよね?」
「大きさが変わったりしたことはなかったと思いますよ」
「思うんだけどさ、すごくない? 昔の人も今の私たちも同じものを見てるって。で、昔の人もお月見とかしたんだろうし、今でも月見るとうわあキレイだなって思うし、きっと未来の人たちも同じ事考えるんだろうし」
足が鈍った神沢に気付いたのか否か、手を引くように飛鳥が足を進める。
「月、好きじゃない?」
「……特に好きでも嫌いでもないですよ」
「そう? 私は好きだよ。あんたみたいでさ」
「私、ですか?」
予想していなかった言葉に、軽く驚いた。そんな神沢に構うことなく、飛鳥が続ける。
「うん。ほら、満月って紅いじゃん? あんたのこと思い出すよ。初対面からどんどん印象が変わったから、本当に月が満ち欠けするみたいだったし。それに、この国のどこにいたって同じ月を見る訳だから、ひとりでいるときも、あんたもこの月見てるのかなーとか、同じ月の下にいるんだなーとか考えると、ちょっと嬉しいし」
「同じ月の下、ですか」
「そう。月が見守ってくれてるの」
月に見守られるなどと、考えたこともなかった。月は恐ろしかった。罪から逃れようとする姿を見下されているようで、とてもそんなふうには考えられなかった。
「……では私はあまり月に好かれてはいないかもしれませんね。だいぶ格好悪いところを見られたでしょうし」
自嘲するように呟いた神沢をじっと見上げて、
「満月も好きだけど、三日月も半月も好きだよ?」
「……?」
「姿が変わっても月に変わりはないってこと」
飛鳥は照れたように笑って、神沢の手を引いて走り出した。
「早く帰ろうー、寒いよーお腹すいたよー」
飛鳥は神沢の過去を知っている。すべてではないが、かつて犯した罪と、いかに苛まれてきたかを。
満ちようが欠けようが、月の本質に変わりはないように、いろいろな面を併せ持つ神沢の本質もまた変わらない。月が見つめ続けた神沢の過去も罪も、彼女は丸ごと受け止めてくれている。
多分、そういうことなのだろう。
「飛鳥さん」
「んー?」
「月はあまり好きではないんです」
「……んー」
「でも、少し好きになりました」
「うん」
ぎゅっと握った手が、温かかった。
今度、髪を切ろう。短くバッサリと。飛鳥は驚くだろうか、それとも似合っていると言ってくれるだろうか。そうしたら、伝えたい言葉がある。渡したいものがある。それを受け取ってくれるだろうか。十年、二十年後にも同じ月を見て、キレイだと言ってくれるだろうか。
「飛鳥さん」
「うん?」
「月、きれいですね」
「でしょう?」
満月よりも眩しいものが、この世には存在する。
「帰りましょうか」
「うん!」
手を繋いだまま、ゆっくりと月に向かって歩き出した。
暖かい家まであと歩いて5分──。
終
風になる刻 清竜 @seiryukingdom
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