第19話 Dark Side Meditation
少女が消えたその場所を見つめていた神沢だったが、想いを振り切るように目を閉じた。彼女が戻って来る可能性は、限りなく低い。彼女が思うほどに相手は尋常ではないのだ。直接対峙したことのある神沢は、魔王の瘴気がいかに禍々しいものであるか知っている。
だが、それらは飛鳥の足を止めるのに何の役にも立ちはしないだろう。だから言わなかった。言えば不安に思うだろう。思うだろうが、足を進めることを止めはしない。震えながら、まっすぐに歩いていくのだ。彼が仕える主とはそういう人だ。決めてしまったら後は進むだけ──退くことも、怯むこともない。
だからこそもう、戻ってはこないのではないだろうか。
助けが必要なら呼んでくれと、かつて言った。そして少女は神沢を呼んだ。けれど、自分の行く道を決めてしまった彼女にはもう、神沢の助けなど必要ないのではないだろうか。守る必要などないのではないだろうか。
”誰かじゃなくて、私を呼んでくれませんか”
他の誰かではなくて、自分を必要として欲しかった。
必要とされたかった。自分の存在を認めて欲しかった。
永遠に許されることはないと解っていたはずなのに、心のどこかでずっと押さえつけていた思い。
飛鳥を姉の代わりに守ることで、罪を償いたかった。そして必要とされることで、永劫の心の虚空を満たしたかった。騎士になると誓いを立てながら、その実は彼女を利用していたのかもしれない。
神沢は、それで良かった。飛鳥の騎士であるだけで、心がいくらか救われた。彼女に何かをして欲しかった訳ではない。
”お姉さんのところに行こう”
”あんたも犠牲者じゃん。ずっと生きてくるの、辛かったでしょ”
それなのに飛鳥は、神沢と姉を仲直りさせたいと言う。そのために逢わせたいと、魔王と戦うことを決意した。永遠という苦しみを理解し、犯した罪を赦してくれた。
ずっと、誰かに必要とされたかった。自分の居場所が欲しかった。
ここにいてもいいのだと、言って欲しかった。
”死なないで”
その言葉を、くれた人がいる。
必要とされたかった。けれど今、必要としているのは自分の方だ。
飛鳥に戻ってきて欲しい。
もう一度、その笑顔を見せて欲しい。
「私は──あなたの騎士です」
戻ってきてほしい。敵わぬ相手なら、世界などどうなってもいい、ここへ戻ってきてほしい。魔物からも世界からも、逃げ切ってみせる。だからこの手に帰ってきてほしい。けれど飛鳥はそれを望まない。だから、共に戦う。
いつのまにか棲んでいた、心の中の少女が微笑んでくれるように。
二度と逢えなかったとしても、永遠に触れ合うことがなかったとしても、心が共にあるのなら、それはきっと孤独ではない。
目を開き、聳え立つ富士山をまっすぐに見つめた。朝陽に照らされる霊峰は、どこまでも気高く美しい。
その富士山が、ぐらりと傾いだ。
「──!?」
どん、という衝撃に続いて大地が激しく揺れ始めた。
(地震──まさか!)
「結界!」
不可視の円錐状の結界が富士山を包み込んだ。地中にまで及ぶ結界は、維持するだけで体力を著しく消耗する。大地の揺れは結界を張ると同時に収まったが、それでも神沢は立っているのがやっとだった。
(飛鳥さん……)
戦いは始まった。
***
そこに質量という概念はない。ただあるのは虚空、底のない闇。それまで淀んでいたはずの闇は飛鳥という異物によって刺激され、うねり、巻き上げ、打ち付けた。生物のように蠢くのに実体をもたないそれを止めることもできず、また天も地もないが故に逃げることさえできない。飛鳥は闇と轟音の渦の中で、流されるしかできなかった。
全身に絡みつく闇という闇が飛鳥を引き裂こうとし、また締め上げようとした。引きちぎられバラバラになりそうな激痛と、締め上げられ潰れてしまいそうな苦痛とに苛まれ、悲鳴さえ出すことができない。手も足も出ない状態で、飛鳥は闇に翻弄される。
どれだけの時間が経過したのだろう。痛覚さえ麻痺し意識を手放しかけたそのとき、闇が止まった。
嵐の海が突然凪いだかのように静まり返った。
衝撃と痛みで心を止めてしまった飛鳥の心臓が、どくんと跳ねた。
何かが近づいてくる。
闇が動く気配はない。
けれど、それは確実に迫ってきている。
飛鳥の心臓は早鐘を打っているというのに、逃げなければと警鐘を打ち鳴らしているというのに、身体はまるで言うことをきかない。
(鍵……鍵を見つけなきゃ)
飛鳥ひとりの力では、どうにもならない。彼女の半身の力が必要なのだ。
(何処にいるの──!)
どくん──。
時が止まったのかと思った。
刹那、すべての気配が消えた。
そして次の瞬間、闇のすべてが飛鳥に向けて襲いかかった。
「……………!」
それは、声。
紛れもなく、人の声だ。
数え切れないほどの人の声が、叫び声が、直接頭に響いてくる。
知らない言語、聞いたこともない抑揚、多すぎて理解はできなかったが、それらの『声』が孕む感情だけは、ハッキリと伝わってきた。
何故こんな目に合わなければならないというのか。
何故あいつばかりがいい思いをする?
この苦痛はいつまで続くというのか。
何故こんな屈辱を受けねばならないというのか。
何故私を見てはくれないの?
仇を取ってやる。
見返してやる。
復讐してやる。
あいつにも同じ苦しみを──。
生きる意味なんてあるの?
いっそ誰か殺してよ。
自分さえよけりゃそれでいい、誰がどうなろうと。
壊してやる、こんな世界。
つまらない人間は死ねばいい。
俺はあいつらよりも優秀な人間だ。
下等な人間は死ね。
殺してやる。
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね──!
不安と不満、憎悪と憤怒、嫉妬と欲望、無気力と敵意と破壊。
誰もが心の中に必ず少しは持っている負の感情。それらの思念が一斉に飛鳥に襲いかかった。
負けてはいけない。流されてはいけない。
闇に呑まれてはいけない。
けれど、それらは飛鳥の中にも確かにあった。
”どうして私がこんな目に合わなきゃいけないの?”
単純な憤りもあった。
”一生誰にも必要とされないで生きていくのなら”
いっそのこと、死んでしまおうかとも、思った。
社会に対する不満も、将来に対する不安も、それらに対して何もすることができない自分への苛立ちも、すべて飛鳥の中にある。
この負の感情の渦の中に、飛鳥の心もまた存在しているのだ。
この闇の中の、異物にして同時に闇の一部でも、ある。
どれだけ飛鳥が拒んでも、同質である闇に抗うことはできなかった。心の闇のうねりに飲まれ、引き裂かれそうになる。飛鳥の意識も、存在さえ──。
この苦しみが続くくらいなら、闇にすべてを委ねてしまおうか。
完全に同化してしまえば苦しみからも解放されるだろう。
そうすれば、楽になれる。
何もかもが、どうでもいいような気がする。
このまま意識を手放しさえすれば。
手放しさえ、すれば……。
身体中を襲う激痛と、心に絡み付いてくる闇とに引きずられながら、ふと引っかかるのを感じた。
意識を手放してしまえば、楽にはなれるだろう。だが絶対にそうしてはいけない気がするのだ。良心も常識も、すべて超越したその先に、飛鳥の求めるものがある。そのためにここに来たのだ。
「私はね……どっちかっていうと世界なんてどうでもいいの」
飛鳥は世界を救うためにここに来た訳ではない。自分の目的のためだけにここに来た。誰かに強いられた訳ではなく、自分の意志でここへ来たのだ。
「あんたたち、邪魔!!」
熱を帯びる右手を思い切り振り下ろした。掌が白く浮かび上がり、闇の中で弧を描いて放たれた。闇そのものを引き裂いた訳ではないが、飛鳥の周囲から退いたようだった。痛みも胸をかきむしりたくなるような不快感も感じられない。闇そのものに意識があるのか、飛鳥の様子を窺うようにその周囲をうねっている。
(今の内に『鍵』を見つけないと……って言っても、どうやって移動すればいいのか解んないけど……)
飛鳥が持つ力は『破邪の剣』。すべての邪悪を断ち切るというのなら、ここに存在する負の感情に対して有効であるはずだ。だが闇の量が多いためか、すべてを一度にとはいかないらしい。『鍵』の持つ『覇皇剣』の破壊力も同時に必要なのだ。
蠢く闇と対峙する飛鳥の耳に、それが響いた。
声というよりは地響きに近い、くぐもったそれ。
聞き取りにくかったが、確かに飛鳥の理解できる言葉で語りかけていた。
「何故、戦う」
周囲を見回すがやはりそこには闇しかない。飛鳥の右手が放つ光に映し出されるものはない。
「あんた誰?」
魔王だろうと、思う。思うが姿を見せない相手への焦りもあり、問わずにはいられなかった。だがそれに対する応えはなく、しかし攻撃してくる様子もなかった。
「何故、戦う」
苦痛の次は問答で精神的に追い詰めようというのだろうか。飛鳥は右手の光で牽制しながら、とりあえず前方を睨みつけたままで答えた。
「こんな封印のせいで、苦しまなきゃいけないなんてイヤなの。関係のない人まで巻き込んで、そんなのもう終わりにするのよ」
闇からの応えはない。
「私の半身、返してもらうから」
封ずるべきものがなくなれば、封印の『鍵』は必要なくなる。『鍵』は解放され、自由になるはずだ。
「取り戻してどうする」
その半身がなくても、飛鳥は今まで普通に生きてきた。魔王に戦いを挑んでまで取り戻すべきものではないかもしれないが。
「弟に会わせるの。会ってちゃんと話させたい」
「何のために」
「何の……って言われても……」
飛鳥は一人っ子だ。仲の良い兄弟がいたらどれだけ楽しいだろうと思ったか解らない。だから、ちゃんと仲直りしてほしいのだ。せっかく半分とはいえ血の繋がった姉弟なのだから、仲違いしたままでは悲しい。
「ケンカしたままじゃ悲しいから……」
「偽善」
闇が断言する。
「”もう『世界』のために誰かが犠牲にならなくてすむように、これで終わりにする”」
闇の向こうから聞こえてきたのは、くぐもってはいるが飛鳥の声だ。それはそっくりそのまま、昨日渡辺の父に言った台詞だった。
「他人のために何故お前が戦う必要がある。お前を裏切った者のために何故戦う。他人のために、何故苦痛を背負ってまで戦おうとするのだ。お前が必死になって守ろうとするものが、お前に何をしたというのだ。お前は自己犠牲に酔っているに過ぎぬ。目を覚ましたらどうだ」
ぎくりとした。自己犠牲という自己満足をしているだけだと突き刺された。何のために戦うのだろう。ここまで来たのは、何のため?
あの悲しい姉弟を、逢わせたい。ただそれだけ。
あの姉弟のため──?
「無限に広がるこの闇を、お前に断つことはできぬ。もう気付いているのだろう、お前の中にも闇はある。受け入れて楽になれ──」
受け入れれば楽になれるだろう。だが、飛鳥はそれを望んでいるのではない。
この底なしの闇に、覚えがあった。それは神沢が現れるより前、まだ眠っていた力に引きずられ、振り回されていたとき。毎日が不安と不満と苛立ちで埋め尽くされていた。あの灰色の毎日。答えのない泥沼の苦悩。あれはまさに今目の前に広がる闇そのものだった。
あの苦痛から逃れられるものならば、逃れたい。
(でも、そうじゃない)
望んで苦しみたいとは思わないが、苦痛から逃れるよりも大切なことがある。この闇を受け入れて楽になったところで、何も解決はしない。飛鳥が望むものは、ここにはないのだ。
「とっくに目なんか覚めてるわよ」
(どこにあるの)
「私だって心の中をひっくり返せば、ドロドロしたもののひとつや二つ、出てくるって知ってる。とっくに気付いてるよ、どれだけ押さえつけようが隠そうが消えることなんてないってね」
(どこにいるの)
「何のためって? そんなもん、自分のために決まってるでしょう!? 私は世界のためになんか戦わない、誰かのためになんか絶対に戦わない! ただ自分がそうしたいからやってるだけ──」
(力を貸して)
「私に何かしてほしくてやってるんじゃない、私がしたいからやってるだけ! 私は自分の意志でここに来た、だから自分の意志で戦う!」
(──来て!!)
「私はあの二人を逢わせたいの! 他に理由なんかいらない! 解ったなら、邪魔しないで!!」
声の限りで叫んでいた。相手が無限の闇であろうが、飛鳥の知ったことではない。自分で決めた道の先にあるのがたまたま魔王であったというだけの話だ。飛鳥は決して怯まない。
育ててくれた両親のところに帰りたいと思う。
渡辺がもう一度友達として笑ってくれればと思う。
罪に苛まれる神沢を、救いたいと思う。
泣きたいのなら、存分に泣かせてやりたい。
できればその後で、笑顔を見せてほしい。
飛鳥が望んだのは、ささやかな日常。それだけで飛鳥は満たされる。それが欲しいから戦うのだ。誰のためでもなく、自分自身のために。自己満足ではあるかもしれないが、自己犠牲では決して、ない。
揺るがない飛鳥に闇が再び襲いかかった。取り込めないのであれば、殺してしまえばいい。『破邪の剣』の力があっても、体力に限りのある飛鳥に無限の闇が消されるはずがない。多少時間はかかっても、『封印』を破ることは可能なのだ。
「邪魔するなって言ってんのよ!」
右手の光が棒状に伸び、剣の形に具現化した。それを両手で握るよりも早く、闇が飛鳥に絡みついた。先刻の何倍もの力で引きずられ、身体がバラバラになりそうだった。ギシギシと身体中の関節が悲鳴をあげている。
「私は……ッ」
今度こそダメかもしれない。
渡辺と対峙したときよりもさらに近く、死と絶望を感じていた。
それでもあきらめる訳にはいかない。
「約束したんだから……!」
バチンと何かが弾けるような音がした。強い静電気のような衝撃を左手に感じて、我を取り戻す。闇に全身を拘束されている飛鳥には見ることはできないが、確かに感じる。左手の中にある、絶対の力。あるべきはずの、自分の半身。
(『覇皇剣』──!)
「邪魔だって……言ってるのよ」
四肢を引きちぎろうとする闇の力に抗って、両腕を振り上げた。身体のどこかで、潰れるような音がした。鋭いなどという表現を通り越した痛みが飛鳥の意識を攻撃する。一方で、骨がみしりと音を立てた。それでも飛鳥は両腕を止めなかった。
(あと少し……)
引きちぎろうとする闇の力と、それに逆らう飛鳥の力に耐え切れず、左の二の腕に裂け目が入った。それでも歯を食いしばって、飛鳥は耐える。
右手の『破邪の剣』と、左手の『覇皇剣』の、刃が触れ合った。
太陽神と地母神の力の接触。
眩い光が、爆発した。
かつて神話の時代から、互いの背負った宿命故に触れ合うことさえ叶わなかった、創世の二神。
望んだものは、希望という光。
いつか、遠い輪廻の彼方でめぐり逢えますように、と──。
飛鳥の手の中にあるのは、1本の長剣だった。
白銀の輝きを放つ長剣を固く握り締めて、思い切り振り下ろした。
目の前の闇が、まっぷたつに裂けた。その裂け目から、闇が蒸発するように霧散していく。
同時に、飛鳥の耳に何かがちぎれる音が、した。
全身に走る激痛に薄れる意識の中で、飛鳥は光を見た。
どこか懐かしい、強く眩しい光。
その中に吸い込まれるのを感じながら、飛鳥は意識を手放していた。
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