第20話 Blowin' in the Wind
創世のとき、最初にあった原始の光。
それがその空間のすべてを満たしていた。
白く、眩しく、穏やかで、温かな光。
まだ目も見えぬ嬰児の頃、母に抱かれたときに感じたやすらぎとはこういうものを言うのかもしれないと、漠然と思いながら飛鳥は光の中を漂っていた。
どこかで落としたのか、両手に剣の感触はない。否──全身の感覚がなかった。あるのはただ、優しい光に包まれているのだという感覚だけだ。
闇は、消えた。魔王の気配はもうしない。
(ここは何処なんだろう……さっきと同じ封印の場所なのかな……。何だか雰囲気が全然違うけど……)
水の中に漂う海月のように、飛鳥の意識はまどろんでいた。
***
富士山を地中のマグマごと結界で封じている神沢は、その衝撃に耐え兼ねて膝をついた。封印の外には何ひとつ影響はないが、その内部では火山性と思われる激しい地震が起きていた。それらを自らの魔力だけで押さえつけているのだった。
大地が揺れるごとにその衝撃は神沢を直撃する。それでも意識を失う訳にはいかなかった。神沢が意識を手放せば、結界も効力を失ってしまう。それだけは絶対に避けなければならなかった。
(飛鳥さん)
主君との、約束がある。
倒れる訳にはいかなかった。
今、この結果の内部で──封印の地で、飛鳥もまた戦っているのだ。
その戦いの様子を知ることはできない。ただ、揺れる大地がその激闘を伝えてくる。どちらに優勢なのか一切解らない状態でも、まだ戦いは続いているのだと、飛鳥は負けてはいないのだと伝えてくれる。
”後はお願い”
外界のすべてを神沢に託すことで、心置きなく飛鳥は戦えるのだ。ならば守らねばなるまい。主君のために──騎士とはそういう生き物だ。
かつて、生きるというただそれだけで苦痛だった。
死を求めたことも、享楽に耽ったこともあった。
ただ砂を噛むような毎日の繰り返しだった。
それなのに、今は生きていられるだけで、嬉しかった。
この巨大な結界を制御するために凄まじく消耗しても、その衝撃を押さえるために苦痛を伴ったとしても、それさえ喜びだった。
生きる目的があるから。
守るべきものがあるから。
だから、神沢は耐える。例え膝をつこうが、歯を食いしばる。
(飛鳥さん)
守るべき、主君のために。
みりっ、と内部から何かが裂けるような音がした。
(結界が破れる!?)
突然、結界の中央から吹き荒れるものがあった。それは風のようであったが、決して肌で感じられるようなものではなく、言うなれば──気配。心地よいものではないが、魔王の瘴気という訳でもなく、どろりとしたものが内部から噴出してくるようだった。
どこかで地割れでも起きているのではないかという大きな揺れと共に、それらは結界の外へ出ようと吹き荒れ、竜巻のようにうねり結界の一点を突き破ろうとする。
「させるか……!」
ぎりぎりと心臓を締め上げられるような痛みを感じながら、神沢は結界を持ちこたえる。
(負ける訳にはいかない……!)
今の神沢にできることは、戦いの影響が外界に出ないようにすること。そしてそれが、唯一飛鳥のために許されていることでもある。ここで退いてしまったら、神沢の存在を認め許してくれた人に報いることができなくなってしまう。騎士としての存在理由を、生きる意味を失くしてしまう。
この結界そのものが神沢の意地であり、誇りであり、誓いであった。
世界のためではなく、飛鳥のためであり同時に自分自身のために。
「……させるか……ッ!!」
竜巻が結界の頂点を貫こうと竜のように天を目指す。それを押さえつけるように、結界から幾筋もの稲妻が走り、竜巻を絡め取る。
耳をつんざく轟音が結界内に鳴り響き、その音が神沢の体内から引き裂くように苦しめる。
内側から破裂しそうな自分の身体を抱きしめて、神沢は目を閉じた。
(ここまで、か……)
死を目前にした者は、過去が走馬灯のように甦ってくるのだと聞いたことがある。あまりにも長すぎる彼のこれまでは甦りきらないのか、思い出されるのは黒髪の少女の笑顔だけだった。
いつか死ぬときが来たら、きっとそのときは姉のことを思い浮かべるのだろうと思ったことがある。それなのに今思い浮かぶのは、この数日を共にしただけの少女なのだ。
(……飛鳥さん)
死ねない。
まだ、死ねない。
「黙れ!!」
目を見開いて、声の限りで叫んだ。
その目の前で、光が炸裂した。
竜巻は稲妻に引き裂かれ霧散し、残った稲妻が一気に弾けたのだ。音もなく光が弾けたその後には、あのどろりとした気配も、大地の揺れも感じられなかった。
ただそこに、光を感じる。
稲妻の光は一瞬で消えたはずなのに、触れる大地から懐かしいような温かい光を感じていた。見えるはずもない、光。けれど確かにそこに感じる。
「……飛鳥、さん……」
ぐらりと傾いだ身体を止めることは、できなかった。全身を地に委ね、神沢は目を閉じた。
富士山を地中まで包んでいた結界が、消えた。
***
どこかで誰かの泣き声がする。
あれは誰なのだろう。知っている誰かのような気もするし、知らない誰かなのかもしれない。ただ泣いている。泣きじゃくっている。誰かに救いの手を求めることもせず、ひたすらに。
あれは誰だったろう。どこかで聞いたような気がする。
(夢……)
昨夜の夢の中で聞いた、あの泣き声だった。それが今、光の空間の中に響き渡っている。
天も地もなく、距離さえ解らないその空間の、どこでその声の主が泣いているのかは解らない。ただ泣いているのなら、そばにいてやりたいと思う。そっとしておくべきなのかもしれないが、飛鳥は放ってはおけなかった。
(どこにいるの?)
何とか声の位置を把握しようと耳を澄ました飛鳥の目の前で、光の中に溶け込んでいたのだろうか、灰のような闇が小さな球形に集い、凝り固まった。
その球形が、赤子の声で泣いていた。
生まれたばかりの赤子のように、ただひたすらに声をあげて泣いていた。
かすかにあの闇と魔王の瘴気を宿すその球形に手を伸ばしかけ、ふとためらった。触れて大丈夫なのだろうか──だがその懸念よりも、どうにかして泣き止ませてやりたいという気持ちの方が勝っていた。球形を怯えさせぬようにそっと手を伸ばし、指先だけで触れた。
触れた指先から、感情が伝わってくる。
”お願い、愛して”
憤怒も憎悪も嫉妬もない。あるのはただ、懇願。
”誰か、愛して”
あるのはただ、深い孤独。
”ひとりにしないで”
あるのはただ、寂しさ。
”お願い、誰か愛して下さい”
深い孤独の淵で寂しさに震えながら、愛を求めて泣いていた。
たったひとりで置き去りにされてしまった子供のように。
その想いに、覚えがある。
父の愛を求めて、悪魔に魂を売った悲しい少女がいた。
私を愛して、私を見てと心の中で叫び続けた少女の想いと、それは重なる。だからこそ、彼女は魔王と同化できたのだ。その想いが、魔王と同じだったから。
怒りも憎しみも妬みも、その根底には同じものがある。
”お願い、愛して”
その願いが叶えられない悲しみ。
”どうして愛してくれないの”
それがやがて殺意に変わる。
負の感情のすべての起点は、餓えた愛。
かつて飛鳥も、それに苛まれたことがある。
両親とは血が繋がっていないと知らされたとき、世界の何も信じられなくなった。こんなにも人が溢れる世界で、たったひとりになってしまったかのような孤独感に襲われた。世界中が自分に背を向けているのではないかとさえ思った。
でも、今自分はここにある。
自分を見失わずにいられたのは、愛してくれた人が、支えてくれた人が、そして愛する人がいるからだ。
その優しさを──温もりを、飛鳥は知っている。
「泣かないで」
球形を両手で包み、抱き寄せた。
「もう泣かなくてもいいんだよ」
知らないのなら、教えてやりたい。誰かに包み込まれる心地良さを。悲しさや寂しさ、心を受け止めてもらえる喜びを。
「そばにいるから」
泣き声が、ぴたりと止んだ。直後、またひときわ大きな声で泣き出した。
飛鳥は何も言わずにただ抱きしめていた。
球形が涙を流しているかのように、少しずつ凝り固まっていた灰のような闇がはがれ、光の中に溶けていく。見守る飛鳥の前で最後のひとかけらまで闇を溶かし尽くしたそこに、闇の球形の替わりに光り輝くものがあった。
飛鳥の胸に抱かれているのは、まだ人の形をする前の胎児だった。
泣き声も止み穏やかな静寂が支配する光の空間で、どれだけそうしていたのだろう。胎児の身体が金色に輝き始め、その輪郭がぼやけ始めた。
負の感情によって形成されていたそれが浄化されたのだろう。このまま光の空間に同化するのだろうかと抱きしめる手を緩めた飛鳥の前に、ひとりの人があった。
緩やかな波を打つ黒髪は腰まで届き、白磁の肌に引き締まった四肢。切れ長の瞳は強い意志の力を感じる漆黒だった。
それが誰なのか、飛鳥は知っていた。
「私はオウジュ・シルヴィア。お前の前世にして半身」
鍵と繋がったとき、頭の中でした声と同じだった。だが目の前のその人は激情にかられることもなく、静かにこちらを見つめている。
「今お前が抱いているのはかつて魔王と呼ばれた者だ」
光り輝く胎児からはもう、あの不快感も瘴気も感じられない。
「お前ももう気付いているだろう、ここは意志の力がすべてを支配する。魔王とはこの世に存在する負の感情の結晶──つまり誰もが心の奥底に持っている、闇そのものなのだ。だから魔王を打ち倒すことは誰にもできなかった。心に闇を持たぬ者など存在せぬが故に」
薄々は気付いていた。ただ闇だけがあるこの空間で、最初に魔王は、鍵は何処にいるのかと思った途端に闇の襲撃にあった。来いと強く念じることで、飛鳥の手に覇皇剣は現れた。泣き声はどこからするのかと思った途端、その主は姿を現した。意識することで現象が起き、意志の力でしか自分を保つことができない。弱い意志の持ち主では、一瞬で闇に呑まれてしまうだろう。飛鳥もまた心に闇を抱えるひとりの人間に過ぎない。普通ならば闇に引きずられてしまうはずが、その意志の力で打ち破ったのだ。
「魔王はもう消えたの?」
「完全に消えた訳ではない。ただお前の力によって闇が霧散しただけに過ぎぬ。またいつか人の心の闇が魔王を生むことだろう。だがそれは今の話ではない」
オウジュ・シルヴィアが飛鳥に歩み寄り、抱きしめたままの胎児に触れる。
「……私が預かろう」
言われるままに胎児を渡してしまってから、飛鳥がハッとする。
「待って! もう封印は必要ないんでしょう? 私、あなたの弟と約束したの、お姉さんに逢わせてあげるって」
魔王がいないというのなら、封印の鍵は解放されるはずだ。
「それは……できない」
「どうして!? どんな別れ方をしたのかは聞いたよ。でも誤解があるんだよ。お願い、せめて逢って話だけでも──」
「無理だ」
「何で!? 姉弟なんでしょう? ケンカしたままなんて悲しいよ、あなたの弟だってずっと……」
「そうじゃない」
「じゃあ何で!?」
必死に訴える飛鳥に、オウジュ・シルヴィアは静かに告げる。
「最初にここに来て、何を意識した?」
唐突な質問に戸惑いながらも、飛鳥は順を追って思い出す。
闇の中に放り出されて。
”ここは、何処”。
”魔王は、『鍵』はどこにあるの”と。
その直後に、風が吹いた。
(……まさか)
思い当たった飛鳥に追い討ちをかけるように、オウジュ・シルヴィアが呟いた。
「”何故、戦う”」
「そんな……」
「”お前は自己犠牲に酔っているに過ぎぬ。目を覚ましたらどうだ”」
闇から響く魔王のものだと思っていた声が語ったことを、目の前のその人が違わずに言う。
「あれは私だ」
静かに告げるオウジュ・シルヴィアに、飛鳥は言葉を失ってしまった。
「気の遠くなるほどの時間を魔王と共にあった私の意識は、少しずつ闇に呑まれた……否、違うな。私は同調したのだ。闇のもっとも深き処にある、魂の慟哭に」
愛して。
どうして誰も愛してくれないの。
最愛の弟に裏切られた彼女もまた、愛に餓えていたのだ。
「封印の鍵である私と、封印されるべき魔王は少しずつ融合していったのだ。それ故に封印は効力を失っていった。このままでは封印は解け、闇に世界が覆われるだろう──そう思い、まだ闇に侵食されていない魂の一部を切り離し、力を得るために転生した」
「それが……私」
「そうだ。……すまなかった」
「何を謝るの?」
「お前に重い荷を背負わせた。かつてそうされた我が身を呪ったにも関わらず、私はお前に同じことをしたのだ。闇に同調してしまった自分のことなど棚の上でな。……辛かっただろう」
うなだれたオウジュ・シルヴィアを前に少し考え込んだ飛鳥だったが、微笑んで答えた。
「うん、辛かった。苦しかったし、痛かった。でもおかげで、あなたの弟に逢えたよ」
思いも寄らぬ返答に、今度はオウジュ・シルヴィアが言葉を失う。
「私ね、血の繋がった家族っていないの。両親が本当は血が繋がってないって知ったときに、すごい裏切られた気がしてさ。その上、なんか鍵として必要とされてるとか言われちゃって、じゃあ別に鳴瀬飛鳥っていう個人はいらないんじゃないかなって思ったの。必要とされてるのは鍵としての力で、『あなたの半身』であって『私』じゃなかったから。
でもちゃんと、『鳴瀬飛鳥』としての私を認めてくれたからさ。すごく嬉しかったんだ。お姉さんの代わりじゃなくて、私でいいんだよって言ってもらえて」
語りながら、心が満たされていくのが解る。きっと今、自分はしあわせなのだろう。
「あ、あとね、謝らなくていいよ? 確かに好きで背負った荷物じゃないけど、こうしようって思ったのは自分だもん。私ひとりっ子だから兄弟とか憧れだったんだよね、なのにすっごく仲良かったはずの姉弟がケンカ別れしたままなんて、絶対もったいない! とか思って。うーん、ちょっと世界のこととかあんまり考えてなくて無責任だったかなーとは思うけど……」
頭をかいて居心地悪そうに口をもごもごさせる飛鳥に、オウジュ・シルヴィアが小さく吹いた。笑われたと、飛鳥がぷーっと頬をふくらませる。
「……お前のその強さの、ひとかけらでも私にあったなら」
自嘲気味に呟いたオウジュ・シルヴィアに、飛鳥がきょとんとする。話に聞く彼女は絶対的な力を持った人だった。その人に強いと言われても、飛鳥にはさっぱり理解できない。
「私にとって、悪いものを倒すことがもっとも正しい行いだった。少なくともそう信じていた。私の中では常に善悪の境界線が引かれ、魔王は間違いなく悪の側の存在だった。だから倒そうとした。だがお前はそうではない」
飛鳥だって不正は認められない。許せないと思う。彼女のように存在が悪であるというものと戦うことはなかっただろうが、現代において許せないものはたくさんある。
「裏切った者の身さえ案じ、傷つけることをためらった。重荷を背負わせた私に気にするなと言う。かつて魔王であったこの存在さえ、お前は許し慈しむ。
……私には、できなかったのだ。裏切り者を許すことも、重荷を課した運命を受け入れることも、自分の内にある闇を認めることも。それらは私にとっては許しがたい悪だった。だがお前は善悪を飛び越えて、己の道を切り拓いた。それが私にはできなかった。自分自身の既成概念に捕われて、お前のように何もかもを超越することはできなかった。
──それが私たちの、決定的な違いだ」
どこか寂しそうに、オウジュ・シルヴィアが微笑んだ。
「私はこの胎児とともに還るべき場所へ還る。お前はどうする」
「還るって……消えちゃうの? もう一度人として生きることはできないの?」
「消える訳ではない。ただこの魂が自然の中に溶け込むだけだ。もしかしたら、また人として生まれてくることもあるかもしれない。……魔王とはあまりに長く居過ぎた。すでに運命共同体だ、今さら離れようとは……」
そっと光り輝く胎児を抱き上げ、頬を寄せた。彼女にとって魔王とは、憎むべき存在であり、同時に憎みきれないものでもあったのだろう。
「でも、それじゃあ……」
「時に、気付いているか? お前の肉体がどうなっているか」
「え?」
ぎくりとして、自分の両手を見る。その輪郭がおぼろげに光っていた。
「え、ええっ何?」
「闇を打ち破ったあのとき、お前の肉体は一度その衝撃で消失している。今ここにあるのはお前の意識だけだ」
「え? 私、死んじゃったの!?」
「ここは意志の力がすべてだ。肉体が滅んだからといってそれが死を意味するものではない。今ならお前の肉体を紡ぐこともできるが……このまま私たちと共に行くこともできる」
言われ、
「私にも帰るところがあるから」
即答した。
「だろうな」
オウジュ・シルヴィアが笑った。
「自分自身を強く意識しろ。手でも足でも構わぬ、どこかひとつでも形として成せれば後は私の力でなんとかできる」
「意識……意識って言われても」
「思い出せ。髪のひとすじでも、身につけていたものでも何でもいい」
自分自身のことなど、意識することがほとんどない。毎日鏡で見ていたとしても、正確に自分の顔を脳内で再現することは難しいだろう。
(うーんと、自分自分……うまくいかないなあ、えっと何着てたっけ?ダウンにハイネックにデニム……だったよね)
強く、強く思い描く。
「……それか?」
「え?」
おぼろげな飛鳥の人型に、唯一質量を持って存在しているのは、首に巻かれた緑色のマフラーだった。当の飛鳥にはどれが質量を持っているかどうかなど解らないので、彼女が何を指して言っているのかは解らない。
「まあいい……行くぞ」
オウジュ・シルヴィアがマフラーの端に触れると、そこから一気に飛鳥のぼやけた輪郭が鮮明に描かれる。瞬時にして形を成した飛鳥は、両手を握ったり開いたりして、その感覚を確かめる。
「それは……あれのものか」
残留思念でもあるのだろうか、マフラーに触れて飛鳥が頷く。
「うん。後で返すって約束したの」
「……そうか」
どこか遠い目をしたオウジュ・シルヴィアに、ふと思い出して飛鳥が問う。
「あなたを封印してからずっと、生き続けてきたんだって。呪いだって言ってた。でも違うよね?」
「どうしてそう思う」
「無理矢理魔王と一緒に封印されて、怒ってるのかなって思ってた。確かに怒ってたけど、それって裏切られたっていうことに対してだよね。封印のことは何も言ってなかったもん。裏切られても封印はしなきゃいけないんだっていう気持ちはちゃんと受け止めてて、だから私に生まれ変わったんじゃない? 封印しなきゃって」
裏切られたことは許せなかった。けれど、そうせざるを得なかった事情を理解している。その上で永遠という苛酷な罰を与えはしないのではなかろうか。
「半分……」
「半分?」
「元々あれにはそうなる素質があった。それが私の負の感情によって引き出されてしまったのだろう。まさかあのまま生き続けているとは思わなかった」
そうなる素質とは、母親が自らにかけた不老不死の呪いのことだろう。その影響は胎児に及んでいたのだ。
次の言葉を待つ飛鳥の右手に触れると、そこが熱を帯びて光った。
「それで止まっていたあれの時間は動き出すはずだ。弟を、頼む」
頷く飛鳥に微笑む。
「飛鳥──お前に逢えて良かった」
「私も、あなたに逢えて良かった」
互いの半身であるのに、ひとときの邂逅。
生まれ変わったはずの魂が、同時に存在する奇跡。
その心に距離はなく、だが埋めようのない隔たりがあった。
旅立つ者と、見送る者と。
意を決したように、オウジュ・シルヴィアが踵を返す。
「思い描け、『帰るべき場所』を」
別れの言葉だった。オウジュ・シルヴィアの身体の輪郭がぼやけ始める。
「待って、一瞬でもいいの、お願いだから──!」
この姉弟に言葉はいらない。きっと、逢えばすべてが氷解する。
「魔王と同調した私の肉体は、とうにない。叶わぬことだ……」
「いやだよそんなの! あなただって逢いたいでしょう!?」
永遠という十字架を背負わせてしまったことを、謝りたいとも思う。何故あんな形で離別せねばならなかったのかと、殴ってやりたいとも思う。弟とて言いたいことはあるだろう。彼もまた謝罪したいと思っていることだろう。だがどんなに望んだとしても、それは叶わないことなのだ。
それでも食い下がる飛鳥に、オウジュ・シルヴィアが振り返った。
「ではひとつ、頼まれてくれるか」
頷いた飛鳥の目の前で、火花が散った。
***
どれだけの時間をそうしていたのだろう。地に身体を投げ出した神沢は、ふと影がさすのを感じてうっすらと目を開いた。すでに高い空にある太陽は、穏やかに大地を照らしている。
「そんなとこで寝てると風邪ひくよ」
降って来た声を、一瞬理解することができなかった。
その声を、間近で聞くことは二度とないものと思っていたから。
「飛鳥さん!?」
飛び起きてみれば、目の前に消えたときと同じ姿のままの飛鳥が微笑んで立っている。衣服の乱れも、傷を負った様子もない。夢か幻かと呆然とする神沢の様子に、飛鳥がマフラーを外して赤毛の騎士に巻いてやる。
「後で返すって言ったでしょ」
首に巻かれたマフラーに触れて、思い出す。
必ずここに帰ってきてくれと、強く願っていたことを。言葉にできないその想いを、飛鳥は受け止めてくれたのだ。
「魔王ってね、人の心の闇が集まったものなんだって。だから今はなくなっちゃったけど、またいつか現れるかもしれないって言ってた」
「はい」
「でも今すぐのことじゃないって」
「はい」
「あんたもお疲れさま。外もすごかったんじゃない?」
封印の地でのことが外界にどれほどの影響を与えたのか、飛鳥は知らない。神沢は何も語らず、跪いた。
「飛鳥さんがご無事で良かった」
頭を上げる様子のない神沢に戸惑いながら、飛鳥は右手で彼の頭をぽんぽんと叩いた。
「止まってた時間は、これで動き出すからって言ってた」
顔を上げて、飛鳥を見つめる。それを言ったのは──。
「ゴメンね。逢わせてあげるって言ったのに、ちょっと難しいみたいで。代わりに言伝を預かってきたよ」
両手で神沢の頬を包んで、そっと額に口づける。吐息の絡む距離で見つめあい、微笑んだ。
「”……レイ”」
それは、遠い日に彼を呼んだ姉の声だった。
「”お前は私の自慢の弟だよ”」
かつて、罪を犯した。
最愛の姉を裏切った。許されることのない、罪を犯した。
どれだけ謝っても謝りきれない、どれだけ恨み言を言われようが罵られようが甘んじて受けようと思っていたのに、姉は許してくれるというのか。
愛してくれるというのか。
オウジュ・シルヴィアもまた同じ思いだったのだ。あまりにも苛酷な試練を弟に与えてしまったことを、どうすれば償えるだろうかと。罪の意識に苛まれているであろう弟を、どうすれば救えるだろうかと。
伝えたいことは山ほどあった。だがどれも言葉にすることはできなかったのだ。だから、たった一言だけ。その一言がすべてを伝えてくれると信じて。
「……姉さん」
神沢の鳶色の瞳から、ぼろりと大粒の涙がこぼれた。姉を裏切ったあのときに、流すことさえできなかった涙が、堰を切ったように溢れ出して止まらない。歓喜の涙なのか、今度こそ永遠の別れなのだと嘆いているのか──解らないまま呆然とする神沢に、飛鳥が両手を広げた。
おいで。
誘われるまま、飛鳥の胸に飛び込んだ。しがみついて、声をあげて子供のように泣きじゃくった。永過ぎる時の中で止めてしまっていたものが、流れる涙に呼び起こされる。
ただ生きるには、邪魔だった感情。
喜びも、悲しみも、永く生きるには邪魔でしかなかった。
だから心を止めてしまった。
それらが、止まっていた時間とともに動き始める。
これからは、限りある時間を人として生きればいい。
それが姉の最後の願いだった。
神沢が泣き続ける間、ずっと髪をなで、背中をさすった。大きな身体で子供のように泣きじゃくる神沢を優しく抱きしめる。
「……お疲れさま」
もうひとりで孤独と戦いながら、永遠を生きる必要はない。重すぎる荷を背負う必要はない。彼の戦いもまた、終わったのだ。
重い運命を課せられた哀しい姉弟は、その業から解き放たれた。世界さえ巻き込んだ輪廻の輪は断ち切られた。世界のために誰かが犠牲にされることはもう、ないのだ。
泣き尽くしたのか、静かになった神沢が顔を埋めたままで飛鳥を抱きしめた。応えるように、飛鳥も神沢を抱きしめる。
……ぐぅ。
飛鳥の腹の虫が、小さく鳴いた。
「うあ。あの。そういえば、何も食べてないし」
顔を真っ赤にしてしどろもどろに言った飛鳥に、神沢が身体を離して小さく笑った。泣きはらした目が痛々しいが、その笑顔はどこかあどけない。
「そういえばそうですね。どこかでお昼にしましょうか」
立ち上がった神沢が飛鳥の手を取り、エスコートする。
「何かご要望は?」
「オムライスが食べたいです」
「かしこまりました、姫」
恭しく頭を垂れる。顔を上げ飛鳥と視線を合わせて、笑った。
笑い合うふたりの間を、そよと風が通り抜けた。
やわらかな、頬をなでるような風。
「あ。今の……」
言いかけた飛鳥に、神沢が微笑んだ。
解っていますよ。
そんな、表情で。
風が流れていった方向に目をやれば、そこには聳え立つ霊峰富士がある。
「いつか、また来ようね」
「はい」
踵を返し、穏やかな日差しの中を歩き出した。その背中を富士山に見守られながら、ゆっくり、確かな一歩を踏み出す。
春にしては珍しい、雲ひとつない青空が広がっていた。やわらかな春の光は遮られることなく、大地を照らす。
巨大な運命のうねりがひとつ、終止符を打った。その跡に残る小さな始まりを祝福するように風が吹く。
空高く、どこまでも──。
完
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