第13話 Parting rhythm

「いやあ!!」

 突然飛んできた火の玉に、飛鳥はとっさに力を使った。結界としての効果があるかどうかは解らなかったが、飛来した火の玉は飛鳥を傷つけることなく見えない壁に阻まれて消失した。

「まだ息が……」

 振り返った神沢は、目の当たりにした光景を信じられなかった。あの焔は神沢のありったけの力を使ったのだ。自分の力を考えれば、多少上級の魔族と言えども息の根を止めることはできていたはずだ。それなのに、目の前にあるものは一体──!

《今のは……少し効いた……》

 声は少女のそれではなく、地の底から響いてくるようなくぐもったものになり、人型にコウモリの翼を生やしたフォルムは、崩れた粘土細工のようにどろりとした不定形になっていた。時々アメーバのように蠢きながら、それはじりじりと移動している。

「紅蓮の焔よ……!」

《効かないわ》

「腕に抱いて焼き尽くせ!」

 先ほどよりは威力に劣るが、この至近距離でなら、あるいは。神沢は1メートルと離れていない場所から炎を放った。

(何!?)

 神沢から放たれた炎は形を失いつつある魔族の表面を焦がすこともなく、そのまま飲み込まれてしまった。

《もう効かないわ……オマエの魔法なんか》

 ざらりとした声が囁いた。

 ぞくり──。

 巨大なアメーバの中心部が蠢き、彫刻のように精巧に上半身の人型をとった。

「もうおやめなさいな、そんな無駄な抵抗は」

 アメーバの上にコウモリの翼を生やした渡辺が、幼子に言い聞かせるように優しく語り掛けてくる。

「苦しいでしょ? それでもまだ立ち上がってくるの?」

 それは神沢を通り越して、その背後でまだ床に倒れ込んでいる飛鳥へと投げかけられた。振り返れば、少しよろめきながらも自分の足で立っている飛鳥が、まっすぐに変形したかつての親友を見つめていた。

「渡辺さん……私──」

 何を言いたいのだろう。何を言おうとしたのだろう。解らないまま口を開きかけた飛鳥は、そのままうつむいて拳を握りしめた。

 もうやめてくれと言いたいのだろうか。

 結果として彼女の父を奪ってしまったことを謝罪したいのか。

 どちらももう渡辺の耳に届くことはないのだと、知っているのに。

 親友だと思っていた相手が、こんなふうに自分への憎悪しか抱いていなかったことを、殺意をどうしても認めたくないだけだ。

 ただ、信じていたかった。

 それだけなのに──。

「辛いでしょ? 信じていた者に裏切られるのって。私もね、父にとって一番大切なものは自分たち家族じゃなかったんだって知ったとき、すごく辛かったの。もう死んでしまいたいと思うくらいに」

 飛鳥の心を読んだかのように渡辺が言う。信じていた家族の絆を否定されてしまった渡辺の心境は、いかほどのものだっただろう。その辛さが解っているのに、それをあえて飛鳥に強いたのか。いや、知っていたからこそ──?

「でももう大丈夫よ、鳴瀬さん。封印や力に振り回されることも、こんなふうに裏切られることもないわ。全部終わりにしてあげる」

「させませんよ」

 渡辺の言葉が何を意味しているのか理解した神沢が、アメーバに向けて両手をかざす。

「風よ、刃となりて輪舞ロンドを描け!」

 神沢の力は先ほどの焔でほとんど尽きている。威力の程をそれほど期待している訳ではないが、せめてわずかでも時間が稼げれば──そんな淡い期待さえ打ち砕くかの如く、風の刃はアメーバ状のそれにかすり傷ひとつさえつけることなく、霧散した。

「いくらなんでも、そんな……」

「効かないって言ったでしょ」

 飛鳥にとって、神沢の力は絶対だった。それが通用しない相手がいるなんて、予想の範疇を越えていた。呆然とする飛鳥の目の前で、神沢はアメーバ状から伸びてきた無数の触手にがんじがらめに捕われ、抵抗もむなしくそのままアメーバに半身を引きずり込まれてしまった。

「何を……!」

 神沢はどろりとした半固形のそれに腰まで沈め、すぐそこにある翼を生やした渡辺の腕を掴んだ。だが彼女に振り払われるまでもなく、アメーバ状から伸びてきた触手によって両手を束縛される。

「離せ……っ」

「聞き分けの悪い大人ってキライよ。そもそも、あなたがさっさと鳴瀬さんを殺してくれれば良かったのに、ちっともやらないからこうなったんじゃないの」

「な……!?」

(……え……?)

 凍り付いた空気の中で、渡辺が自分に溶け込んだ神沢を見つめて微笑んだ。

「父はあなたを信頼してたのにね。まさか自分の娘が『鍵』を殺そうとしていて、しかも自分の腹心が裏切って娘につくなんてね。今頃どんな顔してるのかしら」

「何を……」

 顔から血の気を失せさせた神沢に構うことなく、渡辺は微笑んで続ける。

「偽装しやすいようにわざわざ嫌がらせの手紙なんて面倒なことまでしたのに、その上いつでも殺せたはずなのに、いつまで経っても手にかけないんだから。大人って世間体にばっかりこだわるのよね。だから私がこんな大掛かりなことまでしなきゃならなかったんじゃない。私は鳴瀬さんを殺せばそれでよかったのに、学校中巻き込んで……」

(いつでも……殺せた……?)

 神沢は何と言って飛鳥の前に現れただろうか。ストーカーから守るためだと、そう言った。そして封印のことを、力のことを語った。本当は連れ去るように命じられていたのだと。それに背いてまで、飛鳥の騎士であることを誓った。

 ひねくれ者というか、異端者っているもので。

 そう言って打ち明けた神沢が、すごく身近に感じられて。

 第一印象はサイアクだった。こんなヤツに守られなければならない自分の不甲斐無さに腹が立った。

 けれどあの瞬間から、心を許してしまっていた。

 私はあなたの騎士です。命に代えても守ってみせます。

 そう言った、あの言葉は。

「嘘……だったの……?」

 呆然と呟いた。

「私を守るなんて、嘘だったの?」

「違います! 飛……」

「違わないわ。ついさっき、炎の魔法で攻撃したじゃない」

 渡辺の様子を見るために歩み寄ったとき、飛鳥を振り返った神沢をかすめるように火の玉が飛んだ。幸い飛鳥を傷つけることはなかったが、見様によっては神沢が炎で飛鳥を攻撃したように見えなくもない。

(しまった──!)

 渡辺は飛鳥に対して、心理的な揺さぶりをかけているのだ。神沢は飛鳥と強い絆で結ばれている訳ではない。顔を合わせてからまだ数日しか経っていない神沢よりも、魔族に魂を売ったとしても、一年間友人として共にあった渡辺の方が飛鳥に強く繋がっている。二人が全く正反対のことを言ったとき、飛鳥はどちらを信じるだろうか?

「信じて下さい、飛鳥さん! 私はあなたの騎士です、たとえ世界を敵に回しても──!」

「父を裏切って──私まで裏切らないわよね?」

 アメーバ状から伸びた触手が、じわりと神沢を締め上げる。言いかけた言葉を短い呻き声が妨げてしまった。

「でもいいわ。相手が女の子だからって手を下すのをためらってるんだったら、今ここで私が鳴瀬さんを殺すから。あなたはそこで見てなさいよ。男ってダメね」

 圧倒的優位に立つ者だけに許される余裕の笑みで、渡辺は神沢を見下ろした。胸までアメーバの中に沈め、胸から首までを触手で締め上げられながら、それでも飛鳥に訴えた。

「私を──信じて下さい、飛鳥さん! 絶対にあなたを裏切ったりはしません!」

「うるさいわ」

 まだ咆えようとする神沢の口元まで触手が押さえ込んだ。このまま絞め殺すのは容易いが、どうせなら使える駒は使いたい。渡辺自身は願いが成就したところで魂を奪われてしまうが、生き残った神沢はどうするのか。何と言って父に報告するつもりだろうか。そのときに父がどんな顔をするのか。見ることは叶わないが、それらを思い描くだけで笑いが止まらなくなりそうだ。

「もうラクにしてあげる。死んで全部終わらせなさい」

 虚ろな瞳で見上げてくる飛鳥に、微笑んだ。


 ズキン、ズキン──。

 頭痛がする。例のヤツだ。

 信じた者に、裏切られた。信じてくれるかと訊かれ、信じた。その相手に裏切られる、こんな理不尽なことがあるだろうか。

 ズキン、ズキン。

 自分の中に、猛る力を感じる。昨日のあの竜巻よりも、さらに激しい力が渦を巻いている。

 だがそれがどうしたというのだろう。

 何だかもう、本当にどうでもいいような気がする。

 元々人見知りをする飛鳥が会って数日でこんなに心を許してしまったのは、神沢が初めてだ。二年間の高校生活で、唯一友人と呼べるのが渡辺だった。そのどちらも飛鳥を殺そうとしているというのなら、いっそ死んでしまった方がいいのではないか。そんな相手にしか心を開かなかった自分にも、人を見る目がなかったのかもしれない。

 どうせ生きていたって育ててくれた両親に迷惑をかけるだけだし、告別式で泣いてくれそうなクラスメートもいそうにない。封印がどうの力がどうのと言われたところで、飛鳥自身が死んでしまえば関係なくなる。

 昨夜見た夢のように、誰からも必要とされていないのだ。

 封印の鍵として求められることはあっても、鳴瀬飛鳥として求めてくれる人は、誰もいない。

 一生誰にも必要とされないで生きていくのなら、いっそこのまま親友だと思っていた──否、少なくとも飛鳥にとっては友人だった渡辺の手にかかるのも一興かもしれない。

 夢の中のように敵意を向ける者さえいない世界よりは、まだ……

 ……夢?

 深い闇に囚われていた飛鳥の意識が、かすかに動いた。

 ズキン、ズキン。

 これは、夢──?

 ズキン、ズキン、ズキン、ズキン。

 沈み込む飛鳥の意識を引きずり戻すかのように、脈打つ度に激しい頭痛と共に何かが閃く。

 どくん、どくん。

 ズキン、ズキン。

(夢……見てるの……?)

 それは、映像。複数の映画を細切れにした断片が降ってくるかのように、まるで繋がりのない、バラバラの映像だった。一瞬ごとに現れては消えていくそれらに、飛鳥は見覚えがない。自分が見たものでも、映画やドラマで見た光景でもない。

(でも、知ってる……)

 見た覚えはないのに、知っているような気がする。

 既視感? それとも、かつて見た夢の欠片?

 ズキン、ズキン。

 鼓動を打つごとに頭痛はひどくなっていく。

(もうラクにしてよ)

 微笑んでくる異形と化した渡辺を見上げて、目を閉じた。


 その刹那、飛鳥の中で何かが弾けた。


「覚悟が決まったようね。大丈夫よ、一瞬で終わらせてあげるから」

 目を閉じた飛鳥に満足したのか、渡辺は高らかに笑ってその翼を羽ばたかせた。その周囲の空気が凍りつき、きらきらと輝きながら渡辺の前に巨大な氷の槍を形作る。

 触手に捕われ身動きひとつできない神沢が、なお抵抗した。そんな神沢を嘲笑って渡辺は氷の槍を手に構える。

 この槍で鳴瀬飛鳥の胸を貫いてやる──。

 そのとき、この世界はどうなるだろうか。封印の鍵を失ったこの世界は。それを見ることが叶わないのが唯一の心残りか。

 もがく神沢を横目に、正面の飛鳥を見下ろした。

「思い……出した」

 呟いて目を開いた飛鳥に向けて、まっすぐに槍を投げつける。

「死になさい……!」


 目の前の異形も、自分に向けられる敵意も、氷の槍もどうでもよかった。

 そこにあるのは、激しい怒り。

 飛鳥の視界が、白く染まった。

「転生してなお私を裏切るのか、シュレイン・シェイド──!!」

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