第12話 Nervous Breakdown
首を圧迫する指の感触も、酸素が不足してだんだんと暗くなる視界も、血の気を失い冷たくなっていく指先も、目の前にある見慣れた親友の冷たい笑顔も、背筋も凍るような彼女の紅い瞳も──すべてが現実。
「どうして……」
にわかには信じ難いこの現状を冷静に受け入れている自分に驚きながら、飛鳥はかすれる声で呟いた。渡辺の非情な笑顔が昨夜の悪夢のそれと重なる。
「どうして? それは自分が一番知ってるんじゃないの?」
自分が命を狙われなくてはならない理由。
「……魔王に……操られて……?」
飛鳥は封印の『鍵』だ。解くために連れ去るか、封印を解かせないために、或いは改めさせないために殺すか。狙われる理由としてはこんなところだろうが、飛鳥を殺そうとするのなら封印をさせる側の者ではあるまい。
「違うわ。これは私の意思」
「友達だと、思って……」
「そっちが私をどう思おうと自由だわ。でも私は友達だなんて思ったこと、一度だってない」
魔王に操られて、自分の意志とは別に身体が勝手に動くのだと、そう言ってもらえたならどれほど楽だっただろう。だが現実は渡辺の笑顔のように冷たく、残忍だ。ぎりぎりと飛鳥の首を締め付けるその手で握手もしたし、こんな風に身体を寄せ合わせて体育祭で二人三脚をしたこともあった。今は冷たい笑顔のあるその顔で、かつて些細なことで笑い合った。図書館で読んだ本の感想を言い合ったこともあった。時々口論になり丸一日口をきかないこともあった。翌日、ゴメンねとふたり同時に頭を下げたこともあった。
こんなにも鮮やかに思い出せるのに──同じクラスになってよかったと思ったのに──来年も同じクラスだといいねと、ついさっき笑い合ったのに──。
(どうして……)
ズキン。
頭の奥に、鈍い痛みが走った。怒りを感じたときに頭痛を伴うのは力の副作用だと神沢は言っていた。だが意識さえ手放す寸前の飛鳥には力を振るうだけの余裕さえない。
ズキン、ズキン、ズキン……。
このままいっそのこと殺されてしまおうかと思う心と、このままで終わるなと叫ぶ力がぶつかり合っているようだった。
(もうどうしたらいいのか解らないよ)
無意識に手を伸ばして、せめぎあうふたつの意思に向かって叫んでいた。
「うるさい……ッ!」
「きゃあっ」
渡辺の悲鳴と同時に、首の束縛を逃れた。どうやら力を使ったようだが、視界が暗いままの飛鳥はその場を逃れようとし、逆に柵に乗りかかってしまった。酸欠で頭がぐらぐらする飛鳥は前後不覚で、今まさに自分が柵から落ちかかっていることも解らずに何事かと手足をばたつかせる。
「飛鳥さん!」
講堂に響き渡る聞き慣れた声。
「遅い……」
声のする方へ行こうとして、飛鳥は自分の身体がぐるりと回転するのを感じた。
(え、落ちる!?)
講堂の二階の通路から落ちるくらい大したことはないだろうが、さすがに頭から落下したらまずい。まして敵だらけのこんな状況でそんなことになったら──。
一瞬の内にいろいろなことが頭の中を掠めたが、眩暈を起こした状態で落下する飛鳥にどうすることもできようはずもない。
ドサッ。
予想したよりも軟質な衝撃で痛みはないが、何事かとしばらく身を固めたままでいた飛鳥のすぐそばでその声はした。
「飛鳥さん、飛鳥さん!?」
「あんたボディーガード失格……」
「それだけ減らず口を叩ければ大丈夫でしょう」
徐々に戻ってきた視界に、神沢がいた。どうやら後を追ってきた神沢の真上から落下し、彼が身を呈して受け止めてくれたようだった。
「怪我は……」
「ないけど……でも渡辺さんが」
まだふらふらする飛鳥を抱き起こしながら見上げれば、見下ろしてくる人間の姿をした女子生徒が仁王立ちしている。
「クラスメートに獣人変化の術をかけたのはあなたですね」
「何言って……」
「そうよ」
淡々と問うた神沢に食って掛かろうとした飛鳥だったが、あっさりと肯定した渡辺に阻まれてしまった。
「渡辺さん……?」
「さっき言ったばっかりでしょ。私はあんたを友達だと思ったことは一度だってないの。いつ殺してやろうかとそればかり考えてたわ」
「だって……いつも一緒にお弁当だって食べてたのに……」
「面白かったでしょ? お友達ごっこは」
今にも泣き出しそうな飛鳥をかばうように二人の視線の間に立ちはだかると、神沢は渡辺を睨み付けた。
「その紅い瞳──魔族に魂を売りましたね」
「まだ完全に覚醒してないとは言っても、『力』がある相手に対して丸腰じゃね。だから私は契約したの。鳴瀬飛鳥を殺せたらこの魂をあげるって」
「どうして……? どうしてそこまでするの? 私のこと嫌いなら……」
「嫌い? 違うわ、殺しても飽き足らないくらい憎んでるのよ」
神沢の背に隠れて怯える飛鳥に毒を孕む言葉を吐き出し、渡辺は柵をへし折らんばかりに掴んだ。
「私の父は封印のことを知ってたわ。そして今あんたに新たに封印をさせようとしてる。ずっと子供の頃から力を秘めたあんたを見守り続けてた──解る? これがどういうことか」
解るはずがないが、首を横に振ることもできない飛鳥はただ神沢の後ろで小さくなる。
「あんたと私は同い年なのに、見ているのはあんただけ。実の娘の私にはまるで興味がない。私がどれだけ勉強をがんばっても、見向きもしない。何も知らなかった母と私は他に愛人がいるんじゃないかって思ってたわ。ストレスが原因で母はノイローゼになった。それでも父は家庭を顧みなかった。あるとき父がつけてた日記を読んであんたがいるってことを知ったわ。封印のこともね。去年の話よ。まさか同じ学校にいるとは思わなかったけど」
飛鳥と神沢はただ黙って聞いている。
「去年の暮れ、母が自殺したの。それでも顔色ひとつ変えなかった父に言ってやったわ、そんなに封印が大事なの? 家庭よりも大事なのってね。何て言ったと思う? 『世界が滅ぶよりはましだ』ですって。私には世界よりも大事だったのに、世界の方が大事なんですって。だったらこんな世界滅びればいいわ。家族を犠牲にしなきゃ成り立たないような世界なら無くなればいいのよ。魔王でも何でも復活して、こんな世界消し去ってくれればいいんだわ」
そのためには封印の鍵である飛鳥が邪魔だった。飛鳥さえ殺してしまえば再封印は叶わなくなる。そのとき父はどんな顔をするのか、見てみたい。
「だからって──!」
「父の書斎には魔術関係の本もたくさんあったの。その中に悪魔と契約する方法が書いてあったわ。まさか本当にできちゃうなんてね? でも、こんなことまでできるなんて思わなかったわ」
言った渡辺が掴んでいた柵が、べきりと音を立ててへし折れた。頑丈ではないが仮にも鉄でできた柵は、老朽化していたとしても少女が片手で握りつぶせるようなものではない。目を見張る二人の前で、渡辺はみるみる内に爪を禍々しい刃のように伸ばし、口を耳まで裂き、その背から漆黒の翼を生やして羽ばたいた。
「そんなバカなことが……!」
「渡辺さん!?」
動揺する二人を見下ろしながら魔物へと姿を変えた渡辺が、コウモリのそれに似た翼を空中で一度羽ばたかせると、そこから氷の矢が雨のように降り注いだ。
「え、な、何!? どうなってるの!?」
神沢の結界に守られて無傷だが、飛鳥は混乱の極地だった。自分が攻撃されていることさえ理解しているかどうか怪しい様子に、神沢が飛鳥の手を取って走り出す。
「ちょっと何処へ!?」
「じっとしていたらいい標的になるだけです、今は動き回って大がかりな術を使われないようにしなければ……」
「無駄よ」
羽ばたくごとに氷の矢は飛来し、結界に阻まれて小さな欠片へと砕けていく。だが結界に触れなかったものは講堂の床に深々と突き刺さった。
「紅蓮の焔よ……」
「待って!!」
走りながら渡辺を攻撃するためであろう言葉を紡いだ神沢の腕を掴んで、飛鳥が叫んだ。
「さっきみたいに気絶させれば……!だから!」
「いい加減になさい」
「きゃあ!?」
腕を掴んだままの飛鳥をそのまま引っ張って、振り回す要領で神沢の反対側に来させる。たった今まで飛鳥が立っていたその場所に、氷の矢が打ち込まれた。
「いつまで甘いことを言ってるんです? 向こうは殺す気で来ているんですよ」
「でも!」
「それに獣人のようにはいきませんよ。彼女は言ったでしょう、悪魔と契約したと。変化の術をかけられているのならともかく、身体を悪魔と同化させていては、もう気絶させたからといって元の姿には戻れないでしょう」
「そんな……じゃあどうすればいいの」
答えは決まっている。それでも、まだ何か手段があるのではと願わずにはいられない。向こうはハッキリと敵意を表明したというのに、飛鳥にとってはまだ親友であるというのか。すがるような飛鳥の視線を振り切って、神沢はできるだけ優しく、言った。
「……あなたは目を閉じていて下さい」
飛鳥が理解して何かを訴えるよりも早く、神沢は掴まれたままの腕を勢いよく引いた。神沢の腕に引きずられて飛鳥は講堂の床に倒れこみ、衝撃で掴み続けていた腕を手放した。
(──!!)
「来たれ、紅蓮の焔よ!
まっすぐに魔物と化した渡辺に向けて伸ばした神沢の腕から、火花を飛び散らせながら灼熱の炎の帯が放たれた。床に倒れ込んでいる飛鳥でさえ熱で肌がちりちりと焼けそうなその炎は、獣が牙を向いて獲物に襲い掛かるように瞬きする暇も与えず、渡辺を飲み込んだ。紅の幕の向こうで、黒い影が蠢いている。
「渡辺さん……」
呟く飛鳥の視線の先で、宙に浮いていた炎が落ちた。床に落ちてもまだ炎は衰えることはないが、標的以外にその熱は伝わらないのか床が燃え上がる様子はない。
「あなたはまだ見ないほうがいい」
炎の向こうで、まだ影は蠢いている。神沢の持てる力のすべてを叩き込んだ焔を受けて、無事でいられるはずはないが、焼け残った残骸を見せるのは忍びなかった。
「これで終わるの……?」
「いいえ、これが始まりです。彼女のように魔族と契約する者はいないでしょうが、これから直接魔族と対峙することもあるかもしれません。こんな戦いがどれだけ待っているか……」
炎が鎮まりかけているのを見て、神沢は飛鳥をその場に残して歩み寄った。まだ息があるのならば止めを刺さねばならない。これが彼女の背負った運命であったとしても、それらを飛鳥に見せる必要はないはずだ。
「いつまで続くの……」
今にも泣き出しそうな飛鳥に、かけてやる言葉も答えも神沢は持ち合わせてはいなかった。封印を改めるか、解いてしまうかのどちらかをすればこんな戦いは終わるだろう。終わるだろうが──。
足を止めて振り返った神沢の耳に、ざらりとする声が響いた。
《これで終わりよ……》
「!?」
立ち尽くす神沢のスーツの裾を焦がして、炎の牙が飛来した。
倒れ込んだままの飛鳥をめがけて、まっすぐに。
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