第4話 Nobody Knows Me

 先日買ってきたばかりで部屋に置いたままだった靴を履いて、二階の窓からひらりと身を投げた飛鳥は、優雅に着地して気配を窺う。庭の隅にあたるその場所では、この時間キッチンの方にいる両親には気付かれない。立ち上がり今自分が飛び出してきた窓を見上げると、思い切りあかんべをして軽い足取りで庭から抜け出した。

 昨夜の両親の話を忘れた訳ではない。危険な人物に狙われていることは理解した。だからと言って落ち込んでいるだけの飛鳥ではない。昨夜こそ落ち込みはしたものの、本来彼女は負けん気が凄まじく強いのだ。神沢への怒りも手伝って、鬱屈とした気分を吹き飛ばすためと当てこすりを兼ねて彼女を外へと飛び出させた。ゆるやかな朝日に、もう3月とは言えどこの時間の風はまだ冷たい。

 とりあえず勢いだけで飛び出してしまったものの、どうやって過ごしたものか。飛鳥は今どきの女子高生には珍しく携帯を持っていないため、誰かを呼び出すこともできないし、ウインドウショッピングをするにしても開店時間にはまだ早い。人通りの少ない場所は避けるとして、何処へ行こうか──。

 ヒョォ……。

 冷たい風に思わず自分を抱きしめた飛鳥は、軽やかな足取りで歩き始めた。温かいコーヒーでも飲みに、と。


 セルフサービスのコーヒーショップの壁に貼ってあった映画の告知を見て、飛鳥は上映時間が一番早いものを選んで一人で映画鑑賞を楽しんだ。生徒手帳を持っていなかったため学割がきかないと思っていたのだが、運良くレディスサービスデーだったらしく、学生の財布に優しい金額で観ることができた。パンフレットをどうしようかと迷ったのだが、今日1日のことを考えて買うのは控えた。それでもまだ未練はあるのだが。

 美しい姫と騎士の許されざる恋──。

 ……どうせなら、あんなカッコいいボディーガードだったらよかったのに。

(って、ああっ!? 私何考えてるのよっ!!)

 せっかく物語の余韻に浸っていたのに、何も神沢の顔を思い出さなくたってと心の中で叱咤する。そう、どうせならあんなムカつく相手ではなくて、スマートで紳士的で、あの映画の騎士のような……。

『私があなたの騎士になります』

 そういったあの男。なんのつもりか、ご丁寧に手にキスまでして。

 初対面の印象が最悪だったために「ヤな男」というフィルターを通してしか飛鳥は神沢を見ていないが、冷静に見れば神沢の顔の造形は整っている方だ。日本人離れした容姿が好みの分かれるところだろうが、10人いれば半数以上は「カッコいい男」に票を投じるだろう。伸ばした赤毛はクセの無いストレートで後ろでひとつに束ね、それが色白の肌によく映えている。だが180はあるだろうか、その長身から見下ろしてくる鳶色の瞳は何を考えているのかまるで解らない。

 何を考えて騎士になるなどと。

『あなたみたいな子供を手にかけるほど、女性に不自由していませんから』

 そう、言ったクセに。

 別に神沢を意識している訳ではなくても、女として見られていないということが飛鳥の心に小さなかすり傷をつけた。確かにまだ未成年でも、15を過ぎたら女として見て欲しいのが女としてのプライドだ。

(せっかく映画おもしろかったのに、何で凹んでるんだろ……)

 心の奥が軋んだ気がして、飛鳥はうつむきながら映画館を出ようとして。

(あ……っ)

 うつむいたままの飛鳥の視界に、男性の靴が入ってきた。直進すればぶつかってしまう。男性側は飛鳥が立ち止まるか避けるか対応を待っているのか、不動のままだ。

 たまにあるが同じ方向に避けてしまって、相手と見合い状態になると気まずいことこの上ない。この場合は相手が動かないでいることに感謝しつつ、飛鳥は左に避けてやはりうつむいたまま通り過ぎようとした。が、視界に入っていた男性の足が避けたはずの飛鳥の前にやってきた。目が合っていないからいいようなものの、もしかして見合い状態? と今度は右に避けると、やはり向こうもそちらに足をやる。そんなことを2、3度繰り返して、いくらなんでもおかしいと飛鳥がようやく顔を上げる。

 黒い野球帽をかぶった、多分同い年くらいのよく日焼けした男の子だった。背は飛鳥よりやや高いが、男子生徒の中では小柄な方だろう。それほど変わらない目線で見る男の顔は、飛鳥の知らないものだ。

(何? 新手のキャッチ? ナンパじゃないよね?)

 ものすごく現実的なことを考えた飛鳥に対して。

「……見つけた……」

 獲物を前にした肉食獣のように、舌なめずりをして。

「来い」

 問答無用で飛鳥を荷物のように担ぎ上げ、映画館を後に走り出した。

「ちょ、ちょっと何!? 下ろしてよ!!」

 突然の、常識的に考えればありえない状況に、それでも飛鳥はやけに冷静に抗った。両足をバタつかせ両手で男の頭やら背中やらを容赦なく殴りつけるが、痛みを感じていないかのようにビクともしなかった。それどころかかえって飛鳥の手足にアザができそうだ。

 映画館を出て飛鳥を抱えたまま歩道を走る男の姿に、通行人は振り向きはしても誰一人助けてくれようとはしない。飛鳥がどんなに抗って見せても、だ。もしかしたら何かの撮影と思われているのかもしれない。

 ズキン。

 あの、頭痛。

 このところずっと飛鳥を悩ませている頭痛がした。

 昨日は精神的に疲れ果てて頭痛を感じるどころではなかったせいか、今日はいつもより激しく痛む気がする。

 ズキン、ズキン、ズキン。

 どうして──。

 どうして私がこんな目に合わなきゃいけないの?

 どうして拉致されなければならないの?

 どうして誰も私を助けてくれないの?

 どうして、どうして、どうして、どうして。

「助けて!!」

 必死の叫びにも、手を差し伸べてくれる人はいない。

 どうして?

 ズキン。

 最初は、悲嘆。

 ズキン。

 悲嘆がやがて、怒りに変わる。

 ズキン、ズキン。

 どうしてなの。

 どうして私なの。

 どうしてこんな目に。

 どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして──。


 どくんっ。

 ズキンッ。


 心臓がひときわ大きく跳ねると同時に、頭の奥で激痛が走った。


「イィイヤァアアァァァァァァァッ!!!」

 痛みに耐えかねて悲鳴をあげた飛鳥を中心に、大気が渦を巻いた。それはまるで小規模の竜巻のように男を巻き込んでうねり、ほんの一瞬で消えた。何が起きたのか解らない飛鳥はまだ続く頭痛にうめきながら、アスファルトに弧を描く埃や映画の半券を見つめていたが、聞こえてきた複数の悲鳴にハッと顔を上げる。

「スデニココマデ……チカラ、ガ……」

 引きつった顔で遠巻きにこちらを指差す者や、背を向けて走り出す者。現状を把握していない飛鳥は、先ほどとは明らかに異なる声に、おそるおそる自分を抱えたままの男の顔を、改めて見ようとして。

「…………ッ!!!」

 悲鳴は、声にはならなかった。

 先ほどの風で野球帽が飛んでいた。そこにあるはずの頭髪はなく、代わりにいくつもの赤い目が、ぎょろりと飛鳥を睨みつける。

「あ……ッ!」

 目が、合った。

「いや……っ、いや、イヤアァア!!」

 すぐ間近で異形の頭部を目撃してしまった飛鳥は、取り乱して男の肩で暴れ出した。その拍子に爪が赤い目を引っかき、苦痛に悶えながら男が飛鳥を放り投げる。

「グォア……ヨクモ」

 したたかに背をアスファルトに打ち付けて苦痛に顔を歪めた飛鳥が初めて目にした男の両目は、ぎらぎらと赤く怒りに燃えていた。

 ゾク……ッ。

 殺される。本能が激しく警鐘を鳴らしていた。だが恐怖と痛みに身動きが取れない飛鳥は、怯えた子供のように震えることしかできない。

「……たすけて……」

 誰に助けを求めているのだろう。

 先ほどはただ見ていただけの者も逃げ出す有様なのに、一体誰が助けてくれるというのだろう。自力で逃げるしかない。こんな化け物相手に逃げ出すのも無理は無い。自分だってこんな状況に出くわしたら真っ先に逃げ出すだろう。

 でも、自力で逃げることも、戦うこともできなくて。

 うめきながらも近づいてくる男を前に、飛鳥は固く目を閉じて、叫んだ。

「誰か……誰か助けて!!」

 これは、現実。映画じゃない。

 私は、ただの女子高生。お姫様じゃない。

 助けてくれる騎士などいない。

 これが、現実──。

「『誰か』じゃなくて、私を呼んでくれませんか」

 この非常時に不釣合いな落ち着いた声が飛鳥の耳元で囁いた。何事かと目を開くよりも早く、声の主は飛鳥を抱き上げて大きく飛びすざる。

「風よ、集いて内より放て!」

 この声、まさか!?

「弾け飛べ!!」

 パァン!

 目を開いた飛鳥が見たものは、すぐ間近にある神沢レイの端正な横顔と、その眼差しの先にある血痕と陥没したアスファルトだった。

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