第3話 Rebellious phase

 どうして私なの──?

 飛鳥はベッドに倒れこみたくなる衝動を押さえながら、真っ暗な視界の中でその思いが頭の中を支配していくのを感じていた。

 何の心当たりもなく、ごく普通に過ごしてきた少女が突きつけられるにはあまりにも重い現実は、容赦なく飛鳥を打ちのめした。

 何故命ヲ狙ワレナクテハナラナイノ?

 ドウシテ私ガ?

「飛鳥さん」

 すぐ背後でしたもの静かな声に、我に返って慌てて振り返った。そこには私立探偵を名乗る神沢レイが立っている。恐らくは飛鳥のことを案じているのだろうが、彼女の視線から見上げた神沢の表情は”かわいそう”と雄弁に語っており、それがひどく癇に障った。

「馴れ馴れしく呼ばないでよ!」

 唐突に命を狙われていると知り怯える様を見るのはそんなに滑稽か? オマエにとっては単なる仕事でしか──金稼ぎでしかなくても、こっちにとっては文字通りに命に関わる問題なのだ。私を守る? どうせ自分の身が危うくなれば早々に逃げ出すんだろう?

 早口でまくしたててやりたかった。普段の飛鳥ならばそうしたであろう。だが、今の彼女には睨み返すだけの気力さえなかった。いつものあの苛立ちと頭痛さえ、現状に打ち勝つことはできずなりを潜め、飛鳥はただ不安と恐怖とが作り出した無限に続く闇の淵へと心を沈めていく。

「……出てってよ」

 ようやく口をついて出たのはそれだけだった。

 そこは二階にある彼女の自室。勉強机と、本棚と、タンスとベッド。女の子らしいぬいぐるみなどは一切ない。壁のポスターは風景写真で、唯一女の子らしいといえば、床のカーペットが淡いピンク色だということぐらいだろうか。

 良くも悪くも飛鳥らしさを全面に打ち出した部屋の中央に立ち尽くす部屋の主と、彼女の背後に立つ形で神沢レイがドアにもたれている。

「それはできません。私のそばを離れないで下さいと言ったはずです」

 そばを離れてしまってはボディーガードの意味がない。

 それは解る。

 解る、が。

 理解することと納得することは、違う。

「冗談じゃないわよ! 何で私があんたと同じ部屋で過ごさなきゃいけない訳!? 出てってよ! 痴漢! 変態!」

 ただでさえ男性嫌悪症の気があるのに、第一印象が最悪な相手、しかも彼女を不愉快にさせた原因と同じ部屋で寝るだなんて、できるわけない。別に神沢のせいで命を狙われている訳ではないのだが、混乱と行き場のない怒りの矛先が彼に向かったせいで、飛鳥の頭の中では「神沢のせい」にすりかえられている。

 さんざんな罵声をただ黙って聞いていた神沢だったが、飛鳥が静まるのを待ってから呟いた。

「言いたいことはそれだけですか」

 まるで動じない神沢に、飛鳥はぼそりと吐き捨てた。

「……あんたなんか大嫌い」

「……安心して下さい。あなたみたいな子供を手にかけるほど、女性に不自由していませんから」


「出てけ!!!」


 飛んできた枕を片手で受け止めると、やれやれとため息をついた。今度は机の上に散らかったままだった数学の教科書やらノートやらを投げつけようとした飛鳥の手を捕まえると、そのまま有無を言わさずベッドに投げ込む。スプリングなどない普通の布団に顔面から突っ込んだ飛鳥は、神沢にかみつこうと──して。

 スーツの内ポケットから取り出した何枚かの紙を床に広げると、神沢はそれぞれに手をかざして何かを呟いた。そうして、それらを部屋の四方の壁と窓、それに扉に貼り付ける。テープを使うでもなく、糊を使うでもないのに、紙は神沢の手を離れても床に落下することはない。

「……何?」

「おまじないですよ」

 どこまで本気なのか、表情を変えることもなく神沢が呟く。

「一晩中暴れられても困りますからね。私は部屋のドアの前にいますから、飛鳥さんは夜が明けるまでは絶対にこの部屋から出ないで下さい。何事もないはずですが、恐ろしい夢を見たり、何かあったらすぐに私を呼んで下さい」

「子供じゃないんだから、夢くらいで呼ばないわよ!」

「いいえ」

 即答だった。

「何かに襲われたり追いかけられたりする夢を見たら、すぐに呼んで下さい。夢の中だろうと、必ずあなたを助けに行きます」

「……クッサい……。あんたバカ?」

「いいえ。あなたのボディーガードです」

 守ると言ったからには例え夢の中でも──。

 呆れたのか言葉さえない飛鳥に跪くと、その手を取ってそっと口づけた。

「……私があなたの騎士になります」

 もはや完全にあきれ果てた飛鳥に微笑むと、おやすみなさいと言い残して赤毛の騎士は部屋を出た。その背中を見守っていた飛鳥だったが、あまりの非現実的な神沢の言動に顔から火が出るほど恥かしくなって、そのままベッドに突っ伏した。

 張り詰めていた糸がプツリと切れたのか、飛鳥はそのまま眠りに落ちていった。

 夢を見ることもなく──。


   ***


 翌朝、目覚ましもセットしていなかったというのに飛鳥はいつもの時間に目を覚ました。終業式を待つばかりの身である飛鳥は、この一週間まるまる休みで、ずっと朝8時に起床している。寝ぼけたままの頭で上半身だけ起こし、何故パジャマに着替えることもなく寝てしまったのかを思い出す。

 ──夢だったらよかったのに。

 飛鳥は大きくため息をついて再び布団の中に倒れこんだ。どんなに強く枕を抱きしめてみても、昨夜のそれが現実であることに変わりはない。

(現実……)

 そっと右手の甲に触れてみる。神沢の唇が触れた場所。

(バカじゃないの)

 今時映画でもあんな台詞は言わない。だが、まるで映画のワンシーンのように絵になった。一瞬にして目を奪われてしまうほどに。

 何を考えているんだと激しく首を振って、飛鳥は勢いよく飛び起きた。足音を立てないようにドアに近づき、少しだけ開けて様子を窺う。

「おはようございます。昨夜は眠れましたか」

 両親が用意したらしい毛布にくるまった神沢が、壁にもたれ座り込んだままで飛鳥を見上げた。3月とはいってもまだ夜は冷えるのに、そんな悪条件のところで一晩過ごしたとは思えぬほどに疲れを見せない神沢の姿に、なんとなくカチンときた飛鳥は彼を無視して階下に下りる。

 とんとんとん。

 とんとんとん。

 向こうもすぐに階段を下りてくる。本当に彼女から離れる気がないのだろう。そうでなければ守れないのだから仕方ないのだが、だからと言って。

「ちょっと、入ってこないでよ!」

 洗面所の扉を思い切り閉めた。

 しばらくして飛鳥が出てくると、神沢はやはりドアのすぐ横の壁にもたれて腕組して待っていた。ボディーガードとはそういったものなのだろうが。

(どうせなら女の人にしてくれればよかったのに)

 鬱陶しさや不愉快さはもちろんあるだろうが、それでもこの男であるよりは数段マシのはずだ。だがもう両親は承諾してしまった後だし、訴えるなら最初であるべきだった。言う機会を逃したことは、飛鳥にとって痛恨の極みである。

 そんなことを考えながら再び階段を上ると、やはり神沢が言葉もなくついてきた。飛鳥と一緒に部屋に入ろうとしたところを、振り返った飛鳥に突き飛ばされる。

「着替えるんだから入らないで!」

「ちょ……飛鳥さん!」

 神沢の反論を遮るように音を立ててドアが閉められた。気難しい年頃だから仕方ないか、とため息をついて神沢は天を仰いだ。一度結界の外に出てしまったら、もうその効果はなくなるというのに。……もし何かあってもここにいれば声は聞こえるし、大丈夫か。

 やれやれと、再び大きくため息をついた。


(……?)

 様子がおかしいことに気付いたのは、それから10分後だった。着替えるとは言ったが、そんなにも時間がかかるものだろうか。もしやと思いノックもせずに扉を開けた神沢は、ため息をつきながら髪をかきあげ、口元に笑みを浮かべた。

「らしくなってきたと言うべきか……。少しくらい痛い目に合った方が薬になるか」


 もぬけの殻になった部屋の窓が、開け放たれていた。

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