リサちゃんとフライパン
朝宮ひかる
始まり
僕はリサちゃんのフライパンです。
フライパンと言っても、ちょっと深型で中華鍋に近いフォルムをしていて、炒め物はもちろんのこと、ちょっとした煮物やカレー、シチューなんかも少人数分の量であれば作れちゃいます。本格的なガス専用の中華鍋には劣ってしまう点もあるかもしれないけど、僕はIHでもガスでも使うことができるし、なんというかマルチに使えるでしょ?
そこが僕の長所だと僕なりに勝手に思っています。
リサちゃんが実家を飛び出し東京に暮らすと言ったときにリサちゃんのお母さんが僕をリサちゃんに持たせてくれました。
フライパンなんて今時どこでも買えるし、別に新しく新調したっていいけど、でも一つくらい実家を思い出すものを持っていきなさいよってリサちゃんのお母さんがリサちゃんに言ってくれたから。
リサちゃんは冬には膝の下くらいまで雪が積もる、これと言って目立つ特徴のない県の田舎の街から東京に飛び出してきた女の子です。
目的があって東京に出てきた訳じゃないのだけど、「都会暮らし」っていうのに憧れて高校を卒業して暮らし始めたのです。今はアルバイトを掛け持ちしながら杉並区に借りたアパートの家賃と光熱費やら食費やらを稼ぐために毎日働いていらっしゃいます。
ちなみにお部屋はワンルームです。ロフトがついていてそれがリサちゃんは気に入ったみたい。東京の家賃って高いね。たいして大きさもないのに7万円とか8万円とかすぐ飛んで行っちゃう。リサちゃんはたくさん頑張って働いているけど、なんだか労働するために生きているみたい。体を壊さないか僕は心配です。
僕には毎日ご飯を作ってくれるお母さんと、ちょっとお腹が出ているのが気になるけど家族のために一生懸命働いて家のローンを返しながらお小遣いの中でちょっとだけ気晴らしにパチンコに行って、勝ったら王将で餃子を3人前お土産に買ってきて帰ってくるお父さんのいるあの平和な家を飛び出して東京に来て一人暮らしをする理由が全く理解できないけど、リサちゃん曰く、「キラキラして素敵な何か。」をこの東京で見つけるんだって。
リサちゃんはちょっと夢見がちというか、ぽややんとしていて先々の事を本当に考えているのか良く分からないところがあって心配だけど。
でも僕は所詮ただのフライパンだから、キッチンで心配しながらリサちゃんの毎日を見守っています。
でも最近、ちょっとリサちゃんの様子が変わってきた。
新しい友達ができたみたい。女の子なのだけど、港区女子っていうのかな。リサちゃん時々テレビを消し忘れちゃうおっちょこちょいなところがあって、代わりに僕が見ているのだけれど、そう呼ばれている女性たちが存在すること、僕知っているんだ。
その新しく出来たお友達は六本木や麻布でパーティーや飲み会に毎日のように参加しているんだって。自分の仕事も持っているけど、経済的に余裕のある男の人から奢ってもらって美味しい食事を楽しんだりするらしい。パーティーピープルってやつなのかな?とにかく毎日が一見華やかでキラキラしている印象を受けるよ。そして、そんなキラキラした毎分毎秒の日常をインスタグラムというSNSに投稿するらしいんだ。
前は節約節約!って言いながらちゃんと小さいながらも2口コンロのあるキッチンでちゃんと自炊をしてご飯を食べていたのに、もう週に1回も使っていない。コンロの奥に置いてある塩やコショウもちょっと湿って固まっちゃっているよ。もうどうでもいいのかな。外食って、お金もかかるのに一体何をどこで食べているのだろう。奢ってもらっているのなら別だけど。でもそれって、見返りは何だろう。無償で他人のご飯を奢り続ける人って居るのかな。
リサちゃんは彼女たちみたいなキラキラした毎日に憧れているみたい。真似をして様々なリサちゃんの体の「先」に気を遣うようになった。爪の先、髪の毛の先、そして、靴。
毎日仕事が終わると、彼女たちと合流して何やら食事会だのパーティーだのに出かけている。お友達が出来る事は良いことだけれど、周りに合わせすぎて自分を見失っているんじゃないかな。僕は少し心配です。
でもリサちゃんは楽しそうだし、リサちゃん自身が望んでいる毎日なら僕がどうこういう権利もないのだけれど。口もないし。フライパンだから。
でも僕リサちゃんが消し忘れたテレビの番組でそういうキラキラした女の子たちの事を「金魚」って呼んでいる人の事を見たことがあるよ。その人曰く「金魚」は熱帯魚みたいに観賞用のものなのだって。だから、いつもキラキラ輝いていないと価値がないんだって。常にキラキラし続けなくちゃお金を生み出せないんだって。隣に座っていたMCみたいな人が「じゃぁ、年齢を重ねて若さが失われたりして、キラキラと輝き続けることが出来なくなったら金魚たちはどうするのですか?」って質問したら、その「金魚」って呼んでいた人は「そうなったら、また新しい金魚たちに入れ替わるだけですよ。」って言っていたのを聞いたことがあるよ。
それを聞いたとき、僕はとても複雑な気持ちになったんだ。
確かに一定の経済力のあるそういう女性を好む男の人にとって、若くて顔立ちのいい女性は魅力的だよね。
聡明で教養があり会話の技術にも長け、ファッションセンスもあり自身の手入れも欠かさない。それはとても素敵なことだし、連れて歩くには申し分のない女性に思えるけど、なんだか凄く薄っぺらい関係性のように思えるんだ。だって同品質であればその女性でなくてもいい訳だから。それって、その女性を個々の人間として扱っているというより、お人形さんみたいなモノとして捉えているように感じたから。うまく言えないけど、バービー人形が壊れたら、またすぐに新しいバービー人形を買う子がいるでしょ?
それって、その「壊れたバービー人形」が大切なのではなくて、バービー人形を持っているっていうのが大切だという価値観だと思うのね。固執していないと言えば聞こえはいいけど、でもそれって本当に「壊れたバービー人形」を大切に思っていたのかな。
でも彼女たちは確かに命の通った人間で、そのように扱われていいのか、という疑問が生まれたけど、彼女たち自身がそういった扱いを望んでいる以上、他者がとやかく言う筋合いは無いわけで、何が言えるわけでもないけど、それって本当にキラキラしているのかな。
僕はリサちゃんに代替品が用意可能な存在になって欲しくないけど。僕にとってリサちゃんは、僕の大好きなリサちゃんのお母さんが、この世で最も大切にしていて、この世の誰とも比べようのない、この世で一番大切な娘のリサちゃんだから。
だから、リサちゃんと一緒にリサちゃんの毎日を過ごす人は、リサちゃんという個人を好意的に思っていて、そしてリサちゃん自身を大切に思ってくれる。
そんな人と時間を共有してほしいと思うんだ。時間というのは有限で、限りがあるものだし、日々有意義な時間を過ごしてほしいと思っているから。
でもリサちゃん自身が好んでそんな存在になりたいとしているのだから仕方がない。
僕は所詮しがないフライパンだし、僕はリサちゃんのフライパンとしてリサちゃんの毎日をキッチンから見守っています。
そうこうしている間にリサちゃんは小綺麗になった。
自分の外見に手間暇を費やし始めた。
爪や毛先は美しく整い、キューティクルを帯び、装飾された。服はたいてい膝丈くらいのワンピース。色はパステルカラーや浅い感じの優しげな色合いが多い。
靴は高くも低くもない適度なヒールのヌードベージュのアンクルストラップのパンプス。長すぎない程度の適度なボリュームのマツエクに、一体何を入れることが出来るのか分からないほどの容れ物として役割をたいして果たせてなさそうなサイズのハンドバック。(アクセサリーの一部のようなものなのだろうか。)
なんだか僕からすると、全てが計算の上でスタイリングされているよう。ナチュラルじゃない感じがする。実際ナチュラルではない。そんな「整ったリサちゃん」を作るためにリサちゃんはかなり努力している。
2週間に1回のペースでネイルサロンやエステに通い、月1回の美容室は絶対。トレンドを押さえるべくファッション誌のチェックは欠かさないし、話題の店の情報をいつも絶えず仕入れている。
そんな自分の毎日を表向きだけSNSに投稿している。
眉毛を剃ったり、ヘアパックをしたり、フェイスパックをしたり。いびきをかいて寝ているリサちゃん、生理の時に情緒が不安定になってメソメソ泣きながら初期のセーラームーンの最終話とフランダースの犬を見ているリサちゃんは投稿しない。お金は続くのだろうか。
そうして少し経った頃、リサちゃんは「パパ」と呼ぶ少し年齢の離れた男の人たちと夜出かけるようになった。何人いるのかは知らないが一人じゃないみたい。あの、少し前に出来たキラキラした新しい女の子のお友達が紹介してくれるんだって。
会うのはたいてい夜みたい。リサちゃんのお給料じゃ年に1回奮発したって行けないような高級なお店で高級なご飯や高級なお酒を奢ってくれるんだって。
素敵な店で素敵な時間を過ごす。それはとても素敵な事だと思うけど、僕は誰かに奢ってもらって身の丈以上の店で何かを食べるより、自分で稼いだお金でちょっといいご飯を自分にご馳走してあげるほうが遥かに素敵だと思うけど。
でもリサちゃんはそういう毎日に今とても夢中です。
その「パパ」さん達と会うときは、パパさんそれぞれの好みに合わせてリサちゃんは自分を変化させている。でも不思議だよ。リサちゃんのお父さんは一人だけなのに。なぜパパって呼ぶのだろう。お父さんの事も「パパ」なんて呼んだことなかったのに。
僕は心配だよ。年が離れて経済的に余裕がある人とお見受けするものの、そんな贅沢を見知らぬ女性にただただ与え続けるだろうか。金魚という鑑賞生物の鑑賞代みたいなものなのだろうか。本当に鑑賞するだけで話は済むのだろうか。
そうこうしているうちに、リサちゃんはバイトを辞めてしまった。
パパさんたちから毎月お小遣いをもらって生計を立てるようになった。
その代わり、パパさんたちに呼ばれたら昼でも夜でも出かけるようになった。
自分磨きもますます熱を帯びてきた。
ジム・ヨガ・ピラティス・ネイルサロン・美容室。靴はマノロブラニクかクリスチャンルブタン。(無理して履いているけど、あんなに高いヒール、こけたら大変だよ。)
お化粧はいつもトレンドを意識して、服は毎シーズン新作を買う。
毎日体脂肪を図り、お米とお菓子を全然食べなくなった。
食事はもっぱら野菜か果物。小腹が空いたらナッツ。
野菜を摂るのは良いことだけれど、少し度が過ぎているんじゃないかな。
まだ実家にいたころ、家族で焼肉をして、お父さんに取られまいとお肉争奪戦を繰り広げながら炊き立ての白いご飯の上に焼けたお肉を乗せてお口いっぱいに頬張って食べていたリサちゃんが懐かしいよ。
料理なんてもうずっとしていない。
僕は少し埃をかぶっているし、コンロの奥に置いてある塩やコショウはもう中身が固まっちゃったよ。もう僕たちの存在も忘れてしまっているみたい。
夜は毎日出かけていって深夜や朝方に帰ってくる。シャワーを浴びて寝るだけの部屋。起きたらまたパパさんたちから呼び出しがあるまで自分磨きに精を出すべく色々なところに出かけている。
いつの間にかリサちゃんは、鼻まで高くなった。
比喩ではなくて、本当に高くなっちゃったんだ。整形というものだろうか。
リサちゃんのお母さんに似て少しペチャっとした可愛い鼻も、もう存在しない。
お父さんにと一緒に食べ過ぎちゃって、いつも三日坊主だけど、今日からダイエット!今日からダイエット!って、お父さんと一緒に地元の町内を走っていたリサちゃんも、もう存在しない。
僕には骨と皮だけのように見えるリサちゃんの体がそんなに素敵だとは思えないけど、リサちゃんはとてもほっそりしたリサちゃんの姿に満足そう。
パパの数も以前より増えたようだ。正確な数は分からないが、以前より更に忙しくしている。
これがリサちゃんが東京でしたかったことなの?僕には分らないよ。
そうこうしているうちに一人の男がリサちゃんの部屋にやってきた。
その男はホストをしているらしい。
今時のホストってカジュアルなんだね。僕、初めてその男性を見たとき、全く気付かなかったよ。だってちょっと顔の整ったそこら辺の街中を歩いていそうな風貌だったから。
なにせ僕ってば、リサちゃんのお母さんがまだお父さんと新婚だったころからフライパンをやっている。昔、実家のテレビで見たホストっていう人たちはいかにもサラリーマンでは通用しなさそうなスーツを着て、髪はオールバックに浅黒い肌に、はだけた黒いワイシャツって感じで、今の現役のホストさんたちのイメージと大きくかけ離れていたんだ。
その男は馴れ馴れしくリサちゃんの事を「リサ」って呼んでいる。
会話から察するに一応、彼氏らしい。本当かな。
その男はリサちゃんの部屋にやってきては、軽くシャワーを浴びてセックスをし、終わるとまたシャワーで体を流して、そそくさと帰っていく。リサちゃんはいつももう少し居られないの?とせがむけど、そいつは仕事があるだの、同伴だのと言ってすぐに帰ってしまうよ。
でもリサちゃんはその男が好きみたい。そいつが来る前にはいつも部屋の掃除をして、自分の下着も、ちょっとお高くてお洒落なやつに着替えている。
でも、その男はいつも帰り際にリサちゃんからお金を貰っているんだ。
駄目だよ、リサちゃん。どうか気づいて。
こういうのは、愛とは言わないと思うんだ。
僕、リサちゃんがシャワーを浴びている間に、この男が他の女性にメッセージを送っていたり、電話したりしているところを見たことがあるよ。誰にでも「好きだよ、愛している。お前だけが特別だよ。」って言っているんだから。
そんな軽々しく沢山の人に愛をささやく男に自分を捧げてはいけないよ。
そもそも、セックスの後に相手の女性の体も気遣うことなく、そそくさと自分だけシャワーを浴びて帰ってしまう男なんて最低だよ。僕はそう思う。
リサちゃんのお父さんだって、今ではただの腹の出たオッサンだけど、若かりし頃はリサちゃんのお母さんと営みもあったし、僕はそれを実家のキッチンから見てきた訳だけど、もっと、リサちゃんのお母さんの事を大切に扱っていたよ?
僕はリサちゃんの体をぞんざいに扱うこの男の事が好きじゃないよ。
リサちゃんは僕と、僕をリサちゃんに持たせてくれたお母さんや、お父さんが大切にしている世界でたった一人のリサちゃんなんだから。お付き合いする男の人には大切に扱ってもらう権利があると思うし、そういう関係の人には大切にされるべきだと思うよ。
それが叶えられない関係なら、それは、愛じゃないかもしれないよ。リサちゃん、どうかそのことに早く気付いてほしい。時間は有限で、もう今日という日は二度とこないんだから。
でも僕は所詮リサちゃんの部屋のキッチンで埃をかぶっているだけのただのフライパンだから。見守るしか出来る事はないのだけれど。
それから、リサちゃんはその男とパパ達と、日々を送るようになった。
ピルも飲み始めた。
いや、ピル自体は、生理痛の改善や月経前症候群の和らぎにも効果的だし(テレビで見たよ。)何にも反対する理由はないのだけれど、なぜ今のタイミングなの?
リサちゃんを取り巻く男たちは、彼女との避妊について協力的ではないのかな。自分の為に服用を決めたのならまだ納得もいくけど、まさか相手の人が避妊を面倒がっているのではなかろうか。ますます心配だよ。
リサちゃんは毎日鏡の前でお化粧したり服をチェックしたりしているのだけれど、本当にちゃんと自分の事が見えているのかな。
過度のダイエットによって体はガリガリだし、頻繁に鳴る電話に起こされて、ちゃんと満足に寝ていない。予期せぬあの彼氏というには軽薄なホストの来訪もある。
掃除もサボりがちになり、冷蔵庫の中は牛乳と水だけになり生鮮食品はなくなってしまった。リサちゃんのお母さんが送ってくれたお米もキッチンの戸棚の奥に忘れられている。
このまま、あのテレビの人が言っていたような、金魚としての生活をずっと送り続けるつもりなのだろうか。毎日のようにパパ達やイベント、パーティーなんかの様々な理由で動き続けているけど、それって、本当に充実しているっていう事なの?
僕はしがないフライパンだから、何にも偉そうなことは言えないけど、もう少しリサちゃんにはリサちゃん自身の毎日を大切にしてほしいし、他の誰かの都合に合わせるのではなくて、リサちゃんの時間をリサちゃん自身に生きて欲しいと思うんだ。
そしてそんな日々がいくばくか過ぎて、僕の被っている埃の層が少し分厚くなった頃、事件は起きたんだ。
リサちゃんの部屋に時々来ているホストの彼氏(と、リサちゃんは思っている。)が、リサちゃんの部屋をその日も訪ねてきた。
でもいつもと少し様子が違った。リサちゃんに何かを懇願している。
その男曰く、自分には借金があって、リサちゃんに助けてほしいと。
お金が必要だから自分の為にその男が紹介する風俗店でリサちゃんに働いて欲しいのだと。
リサちゃんはすごく驚いていた。だいぶ言い合いになったみたい。
だけど最終的にはリサちゃんはそのお願いを拒絶して、男を部屋から追い出した。
その男はだいぶドアの前で粘っていたみたいだけど最終的には何か暴力的な言葉を叫んで帰っていった。
その言い争いの後、リサちゃんは酷く落ち込んで、布団にくるまって引きこもるようになった。
時々、部屋のチャイムが鳴ったり、携帯の着信が鳴っていたけど、すべてを遮断していた。
お風呂も入らないし、着替えもしない。
寝ているか、ただただ部屋の片隅で三角座りをしながら布団をかぶって窓の外から空を見ていたり、テレビのザッピングなんかを繰り返していた。
最初のうちは携帯の着信音も頻繁に鳴っていたけれど、そのうち鳴らなくなった。
リサちゃんは、ちょっと動いたと思ったら水を飲むか、少しだけストックのあったナッツやカロリーメイトを齧るだけ。日に日に衰弱しているように見えた。
まさか、ずっとこのままでいるつもりなのだろうか。
元々、ダイエットなどと言ってろくに食べもせず、骨と皮だけのようなガリガリの体つきだったのに。
ああ、誰かリサちゃんを助けて。僕は励ますことさえ出来ないんだ。
だって僕はしょせんキッチンで埃を被っているだけのフライパンで、手も足も、口もない。
リサちゃんが日に日に衰弱していくのを目の当たりにしているのに、何にもしてあげられないんだ。
彼女の心を救ってあげられない。励ましの言葉もかけてあげられない。
僕の大切なたった一人のリサちゃんなのに。
自分が無力で涙が出そう。でも、涙を流す目も僕は持っていないけど。
そんな日が何日流れただろう。五日、いや、一週間は経過しただろうか。
僕はこんな毎日がいつまで続くのだろうと、リサちゃんがこのまま衰弱して死んでしまうんじゃないだろうかとヒヤヒヤしながら毎日を過ごしていた。
そんなある時、おもむろにリサちゃんが立ち上がった。
着の身着のままのスウェットで髪も梳かさず、立ち上がったかと思えば財布を持って、そのまま部屋を出て行った。
どこへ行ったのだろう? あんなに弱っていたのに。
まさか、自殺とか。
考えたくはないけど最悪の事態が頭をよぎる。
もしそうなら、神様どうか、リサちゃんを思いとどまらせてください。
リサちゃんはちょっと行き当たりばったりで、おバカなところはあるけど、でも愛嬌があって素直で、優しい女の子なんです。
まだまだこれから沢山出会いや別れや様々な事を経験していくべき女の子なんです。
失敗したってやり直せます。どうかそのことを彼女に気づかせてあげてください。
そんな事を考えながら僕はリサちゃんの帰りを待っていた。
それから小一時間ほど経ったころだろうか。リサちゃんが帰ってきた。
帰ってきたリサちゃんは、なんとスーパーのビニール袋を提げていた。
中には野菜やお肉が沢山入っていた。そしてリサちゃんは、おもむろに長い髪を後ろでお団子にして、キッチンの隅で眠っていた包丁とまな板を取り出し、それらを切り始めた。
そしてリサちゃんのお母さんが送ってくれたお米を研ぎ、炊飯器に入れ米を炊きだし、切った野菜たちを僕で炒めはじめたんだ。
もやしとキャベツとニンジンと、それから豚の細切れを入れて。
ほんだしと塩で味付けをして、味の素をふりかける。最後にごま油を入れる。
知らない人にとっては、何の変哲もない野菜炒めだけど、それは紛れもなくリサちゃんのお母さんがいつも作っていたあの野菜炒めだった。僕は知っているんだ。だってずっと見てきたのだから。
ああ、リサちゃん!
僕は言葉に出来ないくらい嬉しくなった。
食べるという事は生きるということだと思う。部屋の片隅で引きこもっていたリサちゃんに生命力が戻ったように感じた。すごく安心した気持ちになった。
そしてリサちゃんは作った野菜炒めと炊けた白米を沢山食べた。
キャベツを噛むポリポリという音が聞こえる。とても嬉しい。彼女はちゃんと食べている。
そして食べ終わり人心地ついた頃、リサちゃんは声をあげて泣いた。
何に対して泣いていたのか、フライパンの僕には分らないけれど、さまざまに思うところがあったのだろう。こんなに大声で泣くリサちゃんの事を見たのはリサちゃんが小学生のころ以来だろうか。
そしてリサちゃんは泣くだけ泣いたら、久しぶりにお湯をためてお風呂に入って、その日は床ではなく布団でちゃんと寝た。
次の日は朝からリサちゃん、実家に電話をしたみたい。
お母さんは長い間、全然連絡をしてこなかったリサちゃんに凄い剣幕で怒っていた。
リサちゃんは謝りながら何やらお願いをして、お母さんを説得していた。
どうやらその説得は成功したようで、リサちゃんはホッとした顔で電話を切ったと思ったら、またどこかへ出かけて行った。
僕はまたスーパーに買い出しなのかなぁ、などと思っていたけど、違った。
帰ってきたリサちゃんの腕には何冊か分厚い本が抱かれていた。「看護短期大学」「看護専門学校受験用問題集」などの文字が踊る。
それからのリサちゃんは化粧っ気もなくなり、つるんでいたお友達やパパ達とも連絡を絶ち、毎日その買ってきた本たちと一緒に勉強するようになった。
もうさまざまな「先」を気にすることをやめたみたい。
爪の先は昔から知っているリサちゃんの本当の爪になった。もうキラキラしたデコレーションはないし、爪も短くなった。
こけてしまうんじゃないかと心配していたリサちゃんのパンプスたちも、当面段ボールの中で眠るようだ。
外出も近所のスーパーや生活用品店での買い出しが大半になった。朝から晩まで参考書なるものと一緒にカリカリカリカリ、机に向かっている。あれからリサちゃんは、リサちゃんのお母さんと定期的にちゃんと連絡を取っていらっしゃいます。
時々、受話器越しにお父さんの声も聞こえる。皆さん元気そうで僕は嬉しいです。
そしてリサちゃんは、毎日キッチンに立ち自分で料理をするようになった。
勉強があるし、そんなに時間がかかる手の込んだものは作れないみたいだけど、毎日ちゃんと自分で作って自分で食べている。やせ細りすぎて、やや心配だった体も少しふっくらした。
リサちゃんはまだ若く、これからも長い人生の中で色んな出来事を経験すると思う。
それはきっと嬉しいことや楽しいことばかりではないだろう。
もしかしたら、忘れてしまいたい事や、どうしようもない寂しさや挫折感、立ち直れない悲しみに出会うこともあるかもしれない。
僕は、手もなければ足もなく、励ましの言葉一つかけられる口も持っていないし、何にも出来ないけれど、リサちゃんの毎日をキッチンで見守っているから、しっかり食べて明日を生きていこうね、リサちゃん。
リサちゃんとフライパン 朝宮ひかる @soregadoushita
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