第11話 酒は憂の玉ぼうき

 女天狗は母を両腕で抱えたまま、声のした方をゆっくりと振り向いた。灰色の煙が立ちこめる堂の表座敷の向こうに、母を連れ去ったあの男の姿があった。着ている着物も、前回会ったときと同じ、黒漆の反物だった。

 男は口もとにかすかに笑みを浮かべ、でもその穏やかな表情とはうらはらの、凍るような声で尋ねた。

 「どなたですか」

 天狗の娘は男を燃えるような目でにらみつけた。 

 「母に、母にいったいなにをしたのです。こんなことをして、ただで済むとお思いですか」

 男は一笑に付すような態度で、上から下までなめるように女を見た。

 「おや、あなた、木の葉天狗ですね。その方は人間ですよ。あなたのお母上ではありませんね。さぁ、その赤の他人を降ろして、さっさとお帰りなさい」

 女天狗は怒りにわななき、かん高い声で刺すように叫んだ。「ふざけるな。たとえ血のつながりはなくとも、この人はわたしの母です。だから連れて帰るのです」

 そして母を抱く腕に力をこめると、勢いよく男に背を向けた。

 振り向くと、さっきまであっちにいたはずの男が、すぐ真ん前にいた。女は目を見張り、ひぃっと思わず一歩退いた。

 近くで見る男は思ったよりも背が高く、細作りだが人を威迫するような重厚な空気をまとっている。口もとには相変わらず冷淡な笑みを浮かべているが、穏やかならぬ渇いた目で、女天狗をじっと見おろしている。

 娘は恐怖でがたがた身体が震えるのを必死でこらえながら、「そ、そこをおどきなさい」と語勢を荒げた。男はほとんどせせら笑った。

 「虚勢はおよしなさい。悟性に富む天狗のあなたならば、感じ取れているはずです。わたしの底知れぬ妖力を」

 男の言うとおりだった。男から放たれる妖気は強大で、まがまがしかった。それは木の葉天狗の長である偉大なる父のそれを、何倍もうわまわっているようだった。

 男は不敵な面構えで一歩、女に近づいた。その途端、自分を取り囲む空気が重くなった。さらにもう一歩、男が踏み出すと、今度は母を抱いていられないくらい、いっそう空気が重たくなった。両の手がどんどんさがっていく。娘は顔を真っ赤にして腕を持ちあげようとしたが、どうしてもあらがうことはできなかった。

 やがて女はその場にへたりこんだ。息は激しくあがり、身体中から汗が吹き出してくる。そして母を乗せたまま地べたにはりついた両の手のこうは、どれだけ力づくで引きはがそうとしても、もはやぴくりとも動かなかった。

男は毒々しい口振りとともにふっと笑った。

 「さあ、これでわかったでしょう。あなたにこの人を連れて帰ることはできないのです。無駄なあがきはやめて、素直にここを出て行くと言いなさい。そうすればきっと解放してあげますよ」

 男の言葉に、天狗の娘は般若のような形相でにらみつけた。そして動かない腕の代わりに、思いきり首を振りまわし、つばを吐きかけた。口から放たれた真っ白なつばの塊は、男の黒い着物の袖にべっとりと付着した。

 男は小さく嘆息を漏らす。

 「やれやれ、なんとも困ったお嬢さんだ。そんなにかっかしなくてもよいでしょうに。まぁ、あなたの気持ちはわからないでもないですがね。

 そんなにここから帰りたくないのなら、どうです、今からうまい酒でも飲みながら、わたしとゆっくり語り合いませんか。酒は憂の玉ぼうきと言いますし」

 誰がきさまなんかと酒など飲むかと、がなろうとしたが、声にはならなかった。それどころか、今は全身がわずかにも動かなくなっていた。

 その様子を見て男はふっと笑うと、ゆっくりとした足取りでどこかへ行き、やがて太い酒瓶を手に戻ってきた。

 「さぁ、飲みましょうか」

 男は天狗のそばまでやって来ると、口の端を醜くゆがめ、自らの細い指を女の口のなかに差しこんだ。そして口をぐっとこじ開けると、そこに酒瓶の注ぎ口を突っこみ、はたと酒を流しこんだ。酒は女の口のなかでごぼごぼと音を立てて溢れ返り、天狗の顔や着物をそぼ濡れにした。女は酒瓶もろとも酒をどっと吐き出し、激しくむせた。

 「まだまだもっと、もっと飲むのです」

 男は間髪いれず女の髪の毛を引っ張って無理やりに顔を上向かせると、再び口に酒瓶を突っこみ、さっきよりも勢いよく酒を注ぎこむ。女は酒を吐き出し、げほげほと苦しそうにむせる。男はそれを幾度となく繰り返したあと、ぜぇぜぇと激しく呼吸を荒げる娘の耳もとで、冷たくささやいた。

 「さて、お馬鹿な天狗さん。そろそろ死にますか」

 とっさに顔をそむけた女天狗の髪の毛を男はむんずとつかみ、自分のそばへぐいとかき寄せ、口のなかのさらに奥深くまで酒瓶を押しこみ、ゆっくりと酒を流し入れた。そしてもう片方の手で、女の高くとがった鼻をそっとつまんだ。鼻と口をふさがれた女の顔は、みるみる赤く染まっていく。

 苦しい、とてつもなく苦しい時間を経て、やがて意識がくらんできた。両の目から生温かい涙がこぼれた。愛する母を救えぬまま、こうしてなす術なく死にゆく無力な自分が、ただただ悲しかった。

 そのときだった。薄らぐ意識のなか、不意に小さな影がさっと目の前を横切るのが、視界の隅に入った。幻かとも思ったが、そうではなかった。 その影が再び、今度は先ほどとは反対の方から横切ったのだ。

 次の刹那、男がぐらりと揺れた。同時に男の左手は天狗娘の鼻から離れ、右手の酒瓶は、床に落ちてがしゃりと割れた。そして娘の体を拘束していた見えないなにかも、たちどころにはがれ落ちた。

 影が横切った方を見ると、そこには尾に縞模様の入った小さな猫がいた。両の眼は美しい碧色で、口に短い刀をくわえている。それであの男を斬ったのか、刃先にはべっとりと血がついていた。

 男はしばし知覚が麻痺したような、呆けた表情をしていたが、やがておもむろに体の構えを戻すと、足元の猫を見おろした。その目には、動揺と怒りが入り混じっていた。

 猫は前足にぐっと力をこめると、再び男に飛びかかった。男は猫の動きを予期していたかのように、即座に着物をひるがえし、猫の太刀を華麗にかわそうとした。だがその瞬間、猫の太刀がたちまちに変化する。

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