第9話 木の葉天狗

 「わたしは天狗でございます」

板場の娘は抑揚のない声でしとやかに言った。額に数本だけ垂れた艶やかな黒髪がほんの少し揺れた。

 「世俗の人々にまじって暮らし、もうずいぶんと時が経ちます。背中の翼を隠してさえいれば、わたしを天狗と気づく者はまずいないでしょう。でもうにゃもんさん、あなたは早いうちから、わたしが人ならぬ者だと気づいていましたね」

 うにゃもんは鼻をこすり、答えた。

「ふん、そんなことはない」

そしてわけ知り顔でこう続けた。「わしが確信を持ったのは、三献の茶の最後の一杯を受け取ったときじゃ」

 「あのとき、ですか」

 天狗の娘はつぶらな目を皿のようにし、しばし考えこんだあと、「さっぱりわかりません。わたし、なにかまずいことをしましたか」と尋ねた。

 うにゃもんは、したり顔で口を切った。

 「うむ。あのときおぬしは、わしに熱いお茶をふるまうため、丸火鉢を抱えてここまで運んできた。まるで木綿豆腐を運んでいるかのような、さも涼しい顔でな。

 あの火鉢は信楽焼きの瀬戸火鉢じゃろう。その重さもさることながら、あれだけの量の炭がくべられた火鉢。それ自体も相当な熱を帯びていたはずじゃ。若い娘の細腕でひょいと持ってこられるようなもんじゃない。そこでふと考えた。おぬしは人ではなく、人にふんしたなにかではないかと。

 もしもおぬしが妖(あやかし)の類であれば、わしはこれまでの経験から、即座に見破る自信がある。じゃがそんな気配はまったくしてこない。だからこう結論づけたのじゃ。おぬしは、おそらく山人(山に住む仙人や天狗の総称)だと」

 板場の娘はかすかに目を細める。「なるほど。さすがでございますね」

 うにゃもんはあぐらをかく足を組み直し、話を続けた。

「山人であれば、おぬしが刀や打ち物にやたらと詳しかったり、その年齢で三献の茶なんて乱世の礼法を知っていたことも、すべて合点がいく。天狗は山の神と称されるだけあって、博識なことは世に知れた話じゃからな。

それで、おぬしは今、人と偽ってこの村で暮らしておるのじゃな」

 「へぇ、おっしゃるとおりで」

 「ふん、そのやけに整った顔立ちや、とがった鼻先には少し違和感を覚えるが、それでもおとなしく村娘を演じていれば、誰ひとりとしておぬしを天狗と疑う者などあるまい」

 うにゃもんの言い草に、天狗の娘は寂しそうに首を横に振った。「いえ、それでも疑う者があるのです」

 女はしばらくの間を挟み、おもむろに口を開いた。

 「ある夜のことでした。わたしはここからちょっと離れたところを流れる大井川におりました。同族の木の葉天狗から、そこで活きのいい魚が獲れる、という話を聞いたのです。焼いた川魚は病に苦しむ母の無二の好物。わたしは日が落ちるのを待って、いそいそと川に向かいました。

 とりどりの紅葉の葉っぱが気持ちよさげに水面を泳ぐ、秋の末つ方の宵でした。わたしは川辺で着物を脱ぎ捨てると早速、魚を獲りはじめました。両の翼丸出しの格好でしたが、別段、気にしていませんでした。そこは村から距離があってまるでひとけのないところでしたし、もうすでに日もどっぷり暮れていましたから。それにそもそも長年、人と偽って俗世で暮らす身ですから、正体がばれぬよう気配を察することには慣れてました。

 ですがこの日に限っては、母に新鮮な魚を食べさせたいと思うあまり、つい漁猟に夢中になり、警戒を怠っていました。村人が見ていることに気がつかなかったのです。

 翌朝になって魚を抱えて帰宅したとき、村は大騒ぎになっていました。この村に天狗が住み着いている、と。

 人の世では、天狗は災禍をもたらす者とされています。幸いわたしを目撃した村人はずいぶんと酔っていたらしく、もとより世間の信用にも乏しい俗輩でしたから、わたしがどうにかしらを切り続けている間に、この不都合な噂話はだんだんと聞こえなくなりました。

 人の噂も七十五日とはよく言ったもので、三か月も経つと、わたしのことを話の種にする者も、悪しざまに言う者もほとんどいなくなりました。ですがそれでも、ひとたび離れた客足はなかなか戻っては来ず、いまだに誰も寄りついちゃくれません」

 「それが、この飯屋がうらぶれておる理由なのじゃな」

 板場の娘は唇を噛み、秋風に揺れるすすきのように力なくうなずいた。「最近じゃもう、店をたたんだほうがいいんじゃないかと思っていました。ですが、この店はおっ母の生きがいでしたから、なかなか決心がつかず」

 「おぬしの母親は人間じゃな。どこで出会った」

 天狗娘はその問いに一瞬、気おくれしたようだったが、やがてこう説き起こした。

 「もう何年も前のことです。幼いわたしはその日、ひとりで空を浮遊して遊んでいました。ちょうど空飛びを体得したばかりで、えらくはしゃいでいました。生来のおてんばな気性に加えて、愚かなことにそのときは空を飛べる楽しさのあまり、天狗の森から遠く離れた人里の近くまで来ていることに、まったく気づいていなかったのです。

 そのとき、突風に舞あげられた大木のかけらが、わたしの左の翼に命中しました。わたしは中空で跳ね飛ばされ、そのまま人の住む民家の庭に落ちました。それが母の住む家でした。

 母は裕福な呉服商人の娘で、家もそれなりに立派なものでした。あんのんと育てられてきた母でしたが、この当時は両親が続けざまに急死してしまい、母が単身で店を切り盛りしていたそうです。

 母はわたしが地に落ちた大音に驚き、慌てて庭に飛び出してきました。そしてぐったりするわたしを拾い抱えると、家のなかに運びこみました。わたしは翼が折れた痛みで、その直後に意識を失いました。

 目を覚ましたとき、外はちょうど今日のような嵐になっていました。そして母は誰かと口論をしていました。天狗の子を差し出せ、としきりにつめ寄る、荒々しい男の声が聞こえてきます。

 話を聞いているうちに、わたしは状況を察しました。天狗の血は万能の秘薬とされています。人の世ではとびきりの値で取り引きがされていますから、都に持っていけば一生遊んで暮らすだけの大金に代えることができます。

 おそらく偶然にもわたしが落下するところを目撃した人間が、わたしの血を目当てに母のところへやって来て、このようにまくし立てていたのです。ですが母はその男の要求をかたくなに拒み、しまいには追い返しました。

 やがて戻ってきた母は、わたしが起きていることに気づくと、そばに来て言いました。今すぐにこの家を出ましょう、と。 天狗の血を求めて、さっきの男はきっと大勢を引き連れて再びここへやって来る。その前に早く逃げなくては、と母はささやくように、でも強い口調で言いました。

 傷を負ったわたしの左の翼は、とても飛べるような状態にありませんでしたし、落下したときに足の骨も折ってしまい、まともには歩けない状態でした。

母は布風呂敷でわたしを包み、自分の背に固く結びつけると、家も財もすべて放てきして、嵐のなか駆け出しました。

外はざんざんと降るどしゃぶりでした。気まぐれに吹きつける強い風によって、わたしを背負う母の小さな身体は幾度となくよろめき、横だおしになりました。それでも母はとうとうその足を止めませんでした。

 やがて嵐がやみ、夜が明けたころ、小さな山峡の村にたどり着きました。それが今いるこの村でございます。

 着の身着のまま、泥にまみれた格好の母とわたしを、村人たちは温かく迎え入れ、素性の知れぬわたしたちに、なにも聞かず手を差し伸べました。

 わたしはしばらくの間、母とこの村で暮らすことにしました。母はわたしを助けるために、自分のすべてを投げ打ったのです。そんな恩人をひとり残して、自分だけさっさと天狗の里に帰ることなど、わたしにはできませんでした。

 はじめはそんな責任感や罪悪感から母と暮らしていましたが、やがてわたしは母の優しくて温かい人となりに心底惚れこみ、また夜ごと人一倍寂しがる性格を知り、ずっとこの人のそばに居たいと思うようになりました。そのときわたしは人間として一生、生きていくことを決心したのです。

 母は村一番の百姓にやとってもらい、朝から晩まで一生懸命に働き、その日その日の暮らしをしました。そしてようやっと貯まったわずかなお金で、この飯屋を開きました。

 店は程なくすると軌道に乗り、やがてたいそう繁盛いたしました。母には料理の才がありましたし、なにより努力を惜しまぬ性合いの持ち主でした。日の出より前に起きて丹念に仕込みをし、夜も遅くまで包丁を握っていました。その甲斐もあって、店の味は村中で、もしくは村の外でも評判を呼び、昼でも夜でも客足が途絶えることはありませんでした。

 わたしは賑わう店にいるのが、なによりも好きでした。母の前かけを勝手に持ち出して厨房に立ち、飯炊きの真似事をしてみたり、ちょいとめかしてお客さんにお茶を注いでまわったり、お膳を運んでみたり。

 お客さんたちもそんな小娘のままごとを見て、いつでも愉快そうに笑いました。それはそれは幸せな時間でございました。そして当時のわたしは、そんな時間が一生続くと信じて疑わなかったのです。ですが、」

 ここで女天狗の表情が変わった。それはあまい飴玉を取りあげられた子供が、今にも泣き出しそうになるのを必死でこらえるような面持ちだった。これまで一度として、うにゃもんの前で毅然とした態度を崩さなかった女が、その日はじめて見せた心の乱れであった。

 「それから数年が経ったある秋の日、店に見知らぬ男がやって来ました。村の人間でないことは一目でわかりました。小さな村だから顔を知らぬ者などまずいませんし、黒漆の着物をまとった身なりも田舎百姓にはありえないくらい、あかぬけていましたから。わたしもかまどで母の仕事を手伝いながら、ちらちらとその奇異な男を見ていました。

 男は若く、均整のとれた顔立ちをしていました。まげは結っていませんでした。ものごしは柔らかく、なによりいんぎんでした。

 男は、今日うにゃもんさんが召しあがったのと同じ山菜の定食を時間をかけて味わうと、お膳をさげにきた母に向かって優しく微笑み、次にこう言いました。二、三日、うちで働いてくれませんか、と。

 男は自らを麓の町の小役人だと言い、給仕の者が急きょ故郷に帰る用事ができてしまって、今は料理を作る者がいない。数日後には代わりの飯炊きが送られてくることになっているから、それまでの間、料理番をしてくれないかと頼み、うやうやしく頭をさげました。

 母はすげなくお断りしました。いきなりこの店を閉めたら常連さんたちが困るから、と。ですが男はねばりました。これほどに美味しいお手料理ははじめてだから、ぜひともますます食べてみたい、としきりにつめ寄り、そして信じられないほどの給金を提示したのです。

 役人の頼みとあっては無下にもできず、またそのときはまだ店を開業したときの借財がだいぶと残っていましたから、母は終いにはしぶしぶ諾しました。そして懇意にしている隣人に、わたしを数日あずかって欲しいと頼みこみ、その男とともに村をおりていきました。

 母は何日経っても帰ってきませんでした。半月も過ぎたころ、わたしはとうとう我慢できなくなり、まわりが止めるのも無視して村を飛び出しました。

 わたしはひとけのないところまで来ると、ひさかたぶりに両の翼をばたつかせ、空に舞いあがりました。

 宙から見おろすと、やがてそれらしき町が見つかりました。わたしは滑空して町に降り立ち、母を探しました。

 町のなかには、異様な光景が広がっていました。ほとんどの町人たちからは、まるで生気が感じられないのです。顔は一様に青白く、瞳は暗くおちくぼみ、口はだらしなく半開きになっています。

 まるで生ける屍のようになってわたしの目の前を行き交う人びとを見て、これはただごとではないと背筋が凍りました。そしていっそう必死になって、町のなかを駆けまわりました。

 やがて、ひときわ目立つ大きな住家の前にやって来ました。わたしはすぐに不穏なにおいをかぎとりました。なにしろ天狗は鼻がききますから。それはあの小役人の男が放っていたにおいに違いありませんでした。

 玄関戸を開けると、なかはただっ広い表座敷でした。そして部屋中を灰色の煙りがおおっていました。脳の髄までしびれさせるような香煙でした。

 わたしは慌てて鼻をつまみ、できるだけ息をしないように身を屈めながら、奥へと進みました。

 座敷の奥部に足を踏み入れると、そこには一面、おびただしい数の人間が、水あげされたまぐろのように横たえられていました。全員、意識はないようでした。 香煙の毒にやられていたのです。

 わたしはそのおぞましさに、悲鳴をあげそうになるのをどうにかこらえました。そして足の踏み場もないほどに転がっている人間たちの合間をぬうようにして座敷のなかをくまなく歩き、母を探しました。

 やがて母が見つかりました。母はお堂の隅っこで、他の人間たちと同じように死んだように眠っていました。わたしはためらくことなく母を抱きかかえると、いち早く玄関に向かいました。そのときでした。不意に背後から声がしたのです。とても冷たい声が」

 女天狗の声はひどく緊張し、ものがうまく言えないほどあからさまに震えていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る