第8話 光る坂道
そこは地表一面が点々と底光りする、ゆがみなき一本の道であった。光源はどこまでも静かで、おぼろげで、それでいてどこか艶々しさを感じさせる柚子色をしていた。その光は明るいだけでなく、小春(冬のはじめに、穏やかで暖かい春に似た日和が続く時期)の陽光のように、ほのかな暖気を放っていた。
行く手一帯には夜霞が立ちこめていて、全景は見通せなかった。さっきまで空高くから煌々と大地を照らしていた白き月も、今はもうどこかへ行ってしまった。
まいごは青畳のようにきめ細かく滑っこい灰におおわれた細道を、地面に足跡のように浮かびあがる薄明かりに沿って歩きはじめた。
降灰の表面は薄くて柔らかく、足音はほとんど立たなかった。そのせいで自分の息づかいがやけに大きく感じられた。
口にくわえた守り刀が、再び熱を帯びることはなかった。あのとき、いったいなにが起こったのか。刀が異常な熱量を発した直後、鮮やかな糸の群れが放った光に包まれたまいごは、気がつくと黒き森を脱し、今いるこの静謐なる光る道に立っていた。
次々起こる不可解な出来事について、あれこれ想像をめぐらせても詮のないことだった。またこの道の先に果たしてなにが待ち受けているのか、その予覚もまるでなかった。
今はとにかく、頭よりも先に足を動かすべきだ。まいごはそう自分に言い聞かせ、いちずに歩を進めた。
まいごは足の運びが、ここに来てさらに鈍くなっていることを自覚していた。人にしてみたら小ぶりな懐刀でも、短小な家猫にとっては結構な重さだ。そんなものを口にくわえ三日三晩、あの野趣に富んだ茶屋で息を入れた以外、ほとんど休むことなく歩き続けているのだ。体力の限界はとうに過ぎていた。そのはずだった。 だが今でも自分はこうして、たゆみなく歩き続けている。
老翁を救いたい、そんな意志の力も働いていたのかもしれない。だがこの力の源がそんな類いのものではなく、この懐刀がもたらす超常的ななにかであることは、本人が一番わかっていた。
そう思うには心当たりがあった。これまでの旅路で窮地に立たされたとき、必ず刀が不可思議な力を発し、わが身を助け、あるいは守ってくれたからであった。
たとえば、腹を減らした妖魔に出くわしたときのことだ。峠の茶屋を発ってほどなくすると、突如、上空でばさばさという羽音が聞こえた。そして黒と紫が混じったような色の翼を持つ幻妖が、目の前に現れた。
鳥のような部位は背中からはえた巨大な両翼だけで、あとの肢体は頭のてっぺんからつま先まで、残らず人間そのものだった。
あごからよだれを滴らせ、下品にのどを鳴らす様子から、この烏のような妖怪はえらく飢渇しており、まいごを捕食しようとしているのは明らかだった。
まいごは歯をむき出して敵を威嚇しながら、妖怪との間合いを確かめた。ぎりぎり逃げられるくらいの距離はありそうだった。
まいごは逃げ出そうと後ろ足にそっと力をこめた。だが敵の方が一枚うわてだった。まいごが駆け出すのを予期したかのように短い金きり声をあげると、直後にもう一羽、瓜二つの容姿をした烏妖怪が背後に降り立った。
細い一本道で前と後ろの両側から挟まれた猫。退路は完全にたたれている。二羽の烏はくちばしを小刻みに動かし、燐光した眼でまいごを凝視しながら、じりじりと迫ってくる。まいごはやむなく戦う覚悟を決め、抜刀の構えを取った。
二羽はまいごとある程度、距離をつめたところでばさばさと翼をばたつかせ、とうとう飛びかかってきた。一羽目の突撃はうまいこと身体をよじって跳ねてかわしたが、地に着地したところを二羽目に狙われた。だめだ、この体勢ではよけきれない、そう思った。
そのときだった。刀がけたたましく咆哮した。そのあまりの大音響は、まわりの山々にまで響きわたった。突然の異音に泡を食った烏妖怪は、ぎゃあぎゃあとおめきながら大慌てで飛び去っていった。
なかなかに仰天し、闇夜を逃げていくからすの背中をしばしぽかんと眺めていたまいごだが、やがてその小気味悪い羽音が完全に聞こえなくなると、胸をなでおろした。
また、こんな出来事もあった。たおひにでくわした晩のことだ。たおひ、とは人間たちが不寝番で夜中、野獣を追い、捕えることである。
まいごはそのとき、猪垣が張りめぐらされている一帯にいた。またいたるところに落とし穴もしかけられていた。猪被害に困った近隣住民がこしらえたのだろう。
辺り一面、なんとも言えない臭気が立ちこめていた。これは山くじら(獣肉の異称)、とくに猪の肉を腐らせたものだ。山々の害獣がこのにおいをひどく忌避することをまいごは知っていた。そしてまいご自身も、このにおいは大の苦手だった。
鋤を手にさげた百姓らしき男が二人、提灯の明かり越しにまいごを見つけた。洗いざらしの着物にゆるゆるの股引をはき、尻きれ草履でこちらに向かって来る。男のひとりが口を開いた。
「おい、見ろよ。あの猫、刀なんかくわえてるぜ」
もうひとりも相づちを打つ。
「あぁ、見たとこたいしたもんじゃなさそうだが、質屋に持ってきゃ明晩の酒代くらいにゃなるかもしれねぇ」
「そ、そうだな。へへへ。よし」
二人の間にわずかに微笑が揺らめき、そろって足を踏み出した。すでに目の色は変わっていた。
やれやれ、おれの爺さんは、自分は冷え粥をすすってでもおれを食わせてくれたが、こいつらはちんけな我欲にあらがえず、こんなちび猫のたったひとつの所持品さえも奪おうっていうのか。まいごはひとつ嘆息を漏らした。
まいごは刀を一度、地面に置くと柄の部分をくわえ、鞘からすばやく引きぬいた。そして刃先が地面と水平になるように構え、間髪いれずに男たちに向かってつぶてのように駆け出した。
鋭い刀の刃が猫とともに地を這うよう襲ってきたので、二人は手にした鋤を構える余裕もなく、わぁと声をあげ、慌てて道の左右に跳ね散った。
まいごは前足を素早くひねり、二人のうちのひとりを追った。男はほうほうの体で逃げていたが、まいごの脚力が勝っていた。あっという間に追いつくと、男の右足のかかとを、背後から斬りつけた。かすり傷にとどめたつもりだったが、男は大げさに悲鳴をあげ、うつぶせざまに転倒した。
まいごは蛙のようによつん這いでうごめく男に歩み寄った。そして脅すようにして刀の刃先を男の顔面に近づけてみせると、たちまち男は泣きっ面をかいた。
「た、た、助けてくれ。おらが悪かった。このとおりだ。た、たのむから殺さんでくれぇ」
くしゃくしゃの紙くずのような顔で情けない声をあげる百姓を、まいごは哀れみの目で見つめ、なにも言わずきびすを返した。
まいごは鞘を拾いに、もと居た場所に向かった。だがここで予期せぬ事態に見舞われる。突如、顔にべちゃっとしたなにかが降りかかった。それはむせ返るような強烈なにおいを放っていて、ちょっと嗅いだだけで脳の髄までしびれてしまいそうだった。
まいごは慌てて首を振りまわし、顔にかかったどろどろのなにかを振り落とした。そしてそれが飛んできた方向を見た。
そこには逃げた百姓の片割れが立っていた。その手にはこげ茶色の塊が握られていた。さっきもあれを投げたに違いない。
あれは腐った猪の肉塊だ。あらゆる動物の頭と身体の動きを鈍らせる。
男は投げた肉塊がまいごに命中したことを手を打って喜び、意気揚々として再び振りかぶった。もう一塊、投げてくるつもりらしい。
一投目を顔面にもろに受けたまいごは、もはやまともに動けなくなっていた。そこに二投目が命中した。まいごはなす術なく、その場にへたりこんだ。あごにもまるで力が入らなくなり、守り刀は口からぽろりと落ちた。
百姓はまいごに近寄った。気力を奮い立たせ、どうにか立ちあがり、男をにらみつけたまいごだが、それがやっとだった。刀を拾って再び対峙することも、相手を威嚇することも、もはやできなかった。
田舎百姓は薄ら笑いを浮かべ、まいごを一べつすると、次には地に転がった刀を奪おうと手を伸ばした。
そのときだ。突として刀から黒い煙がもくもくと湧きはじめたのだ。煙は風もないのに真上にではなく、男の方に向かって流れていく。そしてたちまちに男を包みこみ、やがてすっぽりとおおい隠した。煙のなかからは慌てふためく男のくぐもった声が聞こえてくる。あんまりその声が異様だったもので、まいごは目を見張りその場に立ちつくした。さらにしばらくすると、その声さえも消えてしまった。
まいごはしばし呆気にとられ、蚕のまゆのようになった黒い煙の塊を見つめていたが、やがて頭をもたげると、身をひきずるようにして近くの小川に向かった。そしてとうとうと流れる冷たい水に長いこと浸かって、身体中にこびりついた肉塊を入念に洗い流した。肉片をすっかり落とすと、ようやく少しばかり生気が蘇ってきた。だが、その悪しきにおいが身体のすみずみから消えたのは、半日以上経ってからのことだった。
まいごが刀を拾いに戻ると、刃から湧き出た得体の知れない黒き煙はもうなくなっており、同じ場所にさっきの百姓がのびていた。息はしているが、意識はない。馬鹿のように口を開け、死んだように眠るその男からまいごは目をそらすと、刀を拾い、静かに鞘におさめた。そしてようやく安堵のため息をついた。
このように、この守り刀は旅路の最中、たびたび猫の窮地を救ってきた。そして今もまた、満身創痍の身でこのほの明るい坂道を登る自分に、刀は絶えず精力を送りこんでくる。
光ったり、熱くなったり、咆哮したり、煙を吹いたり、まったくわけのわからない刀を持ってきちまったもんだ。まいごは回想から覚めると、口髭をかすかな微笑みでふるわせた。
食えない爺さんだ。帰ったらきっちり、この刀が秘めたからくりを聞かせてもらうとするか。
まいごはひとりごちると、眼前に伸びる暗く長い道を一歩、また一歩と進んだ。
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