第7話 山寺の和尚

 「もうじき秋も終わるな」

うにゃもんは呟いた。

 「わかるのですか」板場の女は尋ねる。

 「においじゃ」

 「におい、ですか」

 解せないという表情の女に、うにゃもんはこう説き起こした。

 「春夏秋冬、季節の変わり目になると、それぞれ独特のにおいが漂うようになる。いたるところでな。わしのように自然相手の商いをしている者は、とりわけそれに敏感になる。今宵、この雨のせいで、秋のにおいがはっきりと薄れ、にわかに冬のにおいが湧きはじめた。おぬしも目を閉じて静寂のなかで心を研ぎ澄ませれば、きっと感じ取れるはずじゃ」

 女はきょとんとしていたが、やがて居住まいを正すと目を閉じ、沈黙した。しばらくそのままにしていた。

 「どうじゃ、なにか感じるか」

 うにゃもんの問いに、若娘はゆっくり首を横に振った。

 「よくわかりません」

 そしてまたしばらく黙ったあと、こう続けた。

 「ですが、こうして自分の息差しに意識を注いでいたら、そぞろ寒い明け方の景色と、起きぬけに真っ白な息を吐く、幼いころのわたしの姿が不意に蘇ってきました。大切にしていた秋明菊の花が枯れて、わたしはそれが無性に悲しくて母に泣きつくのです。あぁ、なんだか懐かしい」

 うにゃもんは腕組みをした。「うむ。それこそ季節の移ろいのなかに身を置いた証拠じゃ」

 娘は目を開けると、そうかもしれません、と相好を崩し、やがて雨戸の方へと視線を向けた。外では相変わらず篠突くような飛雨が暴れまわっている。

 「娘、この黄大仙がなぜ秘刀と呼ばれているかわかるか」

 うにゃもんの問いに、女は少し首をかしげ、こう答えた。

 「この国で、作ることが叶わぬからでしょうか。他の刀とは違って、大陸でしか生まれぬものだと父が昔、話しておりました」

 若娘の回答に、うにゃもんは片頬に笑みを浮かべた。

 「そうじゃ。今の清国ができるはるか昔、華南の地に、洋上に住み、真珠を取って暮らしを立てる蜑民(たんみん)という少数部族の住む村があった。そこで取れる世にも美しい真珠をあしらった宝飾品の数々は自国だけでなく、南海貿易を通じて他の国々にも渡り、たいそう価値ある品として扱われたそうじゃ。当時の王朝も国賓への貢ぎ物や、仏への捧げ物として重宝したらしい。

やがてその真珠を狙って、海賊が出没するようになった。王朝は国益を奪う悪党を退治するために兵を送りこんだが、なかなか思うようにはいかなかった。海のうえという不慣れな戦場や、荒れやすい華南の天候のせいもあったが、それに加えて、海賊を率いる頭領が、妖刀として恐れられた龍炎舞を扱いこなす剣術の達人だったこともその理由じゃった。そのせいで、兵の数では圧倒的にうえをいく王朝軍が、戦になると常に劣勢を強いられた。

 そこで王朝は次の一手として、錬金術師(普通の金属類を金や銀などの貴金属に変える技術を研究する者)と華南一の腕を持つとされる刀鍛冶を呼びつけ、龍炎舞を超える無二の快刀を作るよう命じた。そして精魂をつくし、試行錯誤の末、ついに生みだされたのがこの黄大仙じゃ」

 うにゃもんは刀を手に取り、おもむろに掲げた。刀は弱々しい行灯の明かりを受け、怪しく光った。

 「この刀には麒麟(きりん)とかいう霊獣の生き血と、荒海で育った黒蝶貝の殻が練りこまれているらしい。他に類を見ない刀刃の鈍色と乱れ映りは、この珍奇な混じり物によるものじゃ。

 果たして海賊退治のために生み出されたこの打ち物は、清国一の剣豪に託された。

 海戦の地に降り立った黄大仙の破壊力は、想像以上だった。ひとたび剣を振りおろすと、海賊船はまるで豆腐を切るように一刀両断にされた。海賊たちは恐れおののき、たちまち散り散りになったが、龍炎舞を携えた頭領の乗る舟だけは、逃げずにとどまった。

 剣豪は黄大仙を握りしめ、丸木舟でゆっくりと頭領の舟に近づくと、ためらうことなく飛び移った。剣豪はとうとう海賊の頭領と対峙した。龍炎舞と黄大仙、名刀同士の天下分け目の決闘に、王朝兵も海賊どもも皆、 息をこらして見守った。

 両者の距離は十尺(約三メートル)ばかり。勝負はまさに一瞬だった。先手を打ったのは海賊だった。一刀流の手練れである海の猛者が、切っ先から火花を散らしながら龍炎舞を打ちおろしたのを、剣豪は黄大仙をかざし、額のすれすれのところで受け止めた。

 その瞬間、黄大仙の刃から雷のような閃光がほとばしった。光彩で海賊がひるんだ隙に、剣豪はすかさず刀を踊るようにひるがえした。

 海賊の頭領がたじろき、一歩あとじさりしたところを見逃さず、剣豪は空を斬るがごとく、黄大仙を水平に振りぬいた。二次創作を許さない独自の造形をした秘刀は、この日一番の雷光を放ち、海賊の下腹部を横一線に切り裂いた。海賊はゆっくりと舟床に崩れ落ち、最後にはしぶきをあげて水面に転倒した。

 かくして海賊問題は黄大仙の活躍によって、あっという間に解決を迎えた。そしてその名を大陸中にとどろかせた。

 そののち、ほどなくして黄大仙は、倭寇の一味であった高麗人によって盗み出され、密輸品として日本の対馬藩に渡ったところで、海賊取締令によって没収された。刀は他の価値ある押収品とともに、ときの太閤に献上されることになったが、そのあまりの破壊力にせっかく安寧となった世が再び荒れることを危惧した対馬藩藩主の宗義智(そうよしとし / 安土桃山時代から江戸時代にかけての大名。朝鮮との戦である文禄の役では日本軍の最先鋒として戦った)が、刀鑑定の元老であった本阿弥家の助言を受け、密かにとある寺院に送り、そこに厳重に封印したのじゃ」

 「そ、それじゃあ」

 板場の娘は口に手をあて、目を見張った。

 「そうじゃ。黄大仙が送られたのは、酒呑童子の仇である和尚のいる寺。そしてわしが黄大仙を預かったのもその寺じゃ」

 「でも、どういういきさつで」 女は問う。

 「うむ。酒呑童子と別れた夜、わしはやつの目的地である山奥の寺院へとひとり走った。なぜそのとき、そこへ行こうと思ったのかは、自分でもよくわからん。おそらく、なにがなんでも酒呑童子から逃れる術を見つけたかったのだと思う。それくらい、わしはやつのことを心底恐れていた。

 いっときも休まずに荒山を二つ越え、大変な険山のてっぺんにあるその山寺にようやくたどり着いたときは、もう丑三つ刻(午前二時頃)じゃった。

 寺は本地垂迹(ほんちすいじゃく / 八百万の神々は仏の化身という考え)に基づいて建立された、相当に古い寺じゃった。

 酒呑童子の言っていた通り、境内一帯は、寺の前に立つ古びた鳥居を境界線にして強い結界が張りめぐらされていて、邪気を放つ者は何人たりとも入りこめぬようになっていた。

 わしが寺の戸をたたくと和尚はすぐに起きてきた。夜着ではなく、折り目正しい出仕姿であった。

 わしは玄関口で出しぬけに来意をまくしたてたが、和尚は少しも顔色を変えず、落ち着き払った態度で、寺のなかのすすけた小座敷へとわしを通した。

 和尚はわしを上座へと招ずると、おもむろに座敷の隅っこにある戸棚を開け、奥から刀を取り出した。目釘の部分に、いにしえの封印がほどこされているのをわしは見逃さなかった。

 和尚はわしの前に泰然として座し、こう言った。これは世にはびこる悪を、光浄とともに斬り裂く秘刀。この黄大仙をもってすれば、醜い妖魔になりさがった酒呑童子も、きっと倒せるはずです、と。

 そして言いよどみながら、こうつけ加えたのじゃ」

 うにゃもんはそのときの和尚との対話の様子を、詳しく話しはじめた。


——


 古き山寺の和尚は相当に使いこまれた、さりとて精妙にくすんだ輝きのある紅き袈裟を品よくまとった老人であった。

 一切合切を見透かしたような深淵な目、年輪のように刻まれた顔中のしわと、いかつくでっぱったあご。そこに本人の慎ましい言葉づかいとの不均衡を覚え、うにゃもんは思わず居すくまった。

 和尚は黄大仙の鞘をぬくと、おもむろに立ちあがった。そして、ちょっと見ていてくだされ、と右の手で握った刀を軽く一振りした。

 その瞬間、薄暗い小座敷のなかで刀刃が明滅し、なにかが弾けるような音がしたかと思うと、刀の向けられた先にある壁に縦一文字の切れ目ができていた。目を丸くするうにゃもんに、和尚は静かな表情のままこう言った。

 「これが黄大仙です。老いたわたしでもこれだけの力を放つことができます。あなたが使えば無尽蔵の火力を引き出すことができましょう」

 「和尚よ。なぜ、この刀をわしによこす」

 うにゃもんは当然の疑問を口にする。和尚は少し考えてから、慎重にこう答えた。

 「やつを止めてもらいたいのです。やつはもともとは生真面目で純朴な青年でした。だが残念なことに、道を踏み外してしまった。それはわたしの責任なのです」

 「おぬしとやつの間にいったいなにがあった」

 住職は小さくため息を吐き、重たそうに口を開いた。

 「あれは麓の村で夏祭りが催された夜に起こった出来事でした。当時、この寺には人であったころの酒呑童子を含めて三人の修行僧がおりました。二人はよく働き、熱心に修行に励む坊主でしたが、あとのひとりはそうではありませんでした」

 「それがやつか」

 和尚は首を横に振った。

 「先ほども申しましたが、酒呑童子はこの寺に連れてこられたばかりのころから、きわめて素行のよい快男児でした。それが狂ってしまったのはしばらく月日が経ち、三人目がやって来てからのことです。

 三人目は名を北角(ほっかく)といい、丁年となった古顔の二人よりも、齢は少し下でした。賭博にのめりこみ、借金を膨らませた父親が、口べらしのためにこの寺に送ってよこしたのが北角です。

 えも言われぬ端正な顔とはうらはらにその瞳は暗く淀み、また多弁ですが話していることのどこまでが本心なのか、まったく読めない子でした。才知に富み、頭の回転はたいそう速いのですが、その秀でた頭を私利私欲のため、あざとい不徳義にしか使いませんでした。

 北角は人を籠絡する術を心得ておりました。自らが僧であることを利用して麓の村々に赴き、よからぬ嘘の予言をしては厄祓いするなどと言ってお布施を集めたのです」

 「そんな年端もいかぬ小坊主の嘘言など、誰も信じぬじゃろう」

 「いいえ、そんなことはありません。ちょうどそのころ、都はひどい飢饉に見舞われていましたし、地方でもいたるところで農民一揆や病害が起こっていましたから。自分の村でも、いつどんな災いが起こってもおかしくはない、と誰もが思っていました。

 北角は近い将来、この界隈も塵界に成り果てると吹いてまわり、民衆の不安や不和をあおりました。そしてそれを証するため、ある日の晩、牛鬼(うしおに)と呼ばれるどう猛で残忍な鬼を近隣の村におびき寄せたのです」

 「牛鬼、となると酒か」

 和尚はうやうやしくうなずく。

 「さすがは桃尻殿、さようでございます。北角は鬼が猛ると言われる下弦の月夜に、牛鬼の大好物の佳酒がなみなみ入った木樽を村のすぐそばに置きました。そして自分自身も村の一隅に身を潜めたのです。

 火点しごろになり、酒のにおいにつられて牛鬼がやって来ました。そして浴びるようにして樽の酒を飲み、気分が良くなったところで村人たちを襲い喰いはじめたのです。そこから先は口にしたくもない地獄絵図でした。静かな村で次から次へと悲鳴が響き、いくつもの家が、かくも無残な紅い色に染まりました。

 村人たちは大慌てで村の広場に逃げ集いました。そして男衆は鬼を迎え討つべくかがり火をたき、農具を手に陣を構えました。

 ですが痩せた田舎百姓の腕っぷしでは、牛の怪異を相手に歯が立つはずもありません。あれよあれよという間に全員がやられ、辺りはさながら血の海と化しました。

 残った村人が恐怖と絶望に駆られおろおろしていたとき、忽然として現れたのが北角でした。

 北角は、この寺で持ち出し禁止とされている法衣をまとい、悠然と牛鬼の前に歩み出ました。そして、わたしの霊力を宿した聖なる壺をかざし、襲いくる鬼と対峙し、こう唱えました。

 『仏の力を預かりし青磁の壺よ。通力で悪しき鬼を成敗したまえ』

 直後、壺の口から光波が滝のようにとうとうと溢れ出し、濁流となって鬼に押し寄せました。眩い早瀬のような光に飲まれた牛鬼は悲鳴をあげ、泡を食って逃げていきました。村人たちは当然、大喜びです」

 「ふむ。そして無垢で愚かな村人どもはその男を英雄視し、以来、手玉に取られるようになったというわけじゃな」うにゃもんは言葉を継いだ。和尚は深くうなずいた。

 「委細、説明の必要はないようですね。お察しのとおりです。北角はこのような手口を繰り返すうちに、各地で傑僧として名を馳せ、もてはやされるようになりました。人々は完全に北角の手のひらのうえでした」

 「そこまでわかっていて、おぬしはいったいなにをしておった。その男の師であったのじゃろう」

 「はい。一生の不覚でごさいます。わたしはようやっと北角を怪しんだときから間者(かんじゃ / しのびの者)を雇い、幾度となく探りを入れましたが、あやつはぬけ目がなく、まるっきりしっぽを出しませんでした。だから次の一手として、わたしが最も信頼している酒呑童子に命じて、北角が買い出しという口実で寺を留守にしたある日、こっそりあとをつけさせたのです。

 案の定、その日も北角は牛鬼と手を組み、ひとつの村を襲う画策をしていました。そしてその夜、酒呑童子の純粋な道心は、もろくも崩れ去ったのです」


-----


 風のまったくない夜だった。雲間から漏れた月の光が、この山奥の寺の小さな子座敷に寂しく差しこんでいる。しじまに包まれ、和尚が黙って虚空を見つめている間は、まるで時までも止まったようだった。

 徳の高き和尚は長い沈黙を挟み、沈痛な面持ちで再び口を切った。低い、息のつまるような声だった。

 「わたしの指示で北角を追った酒呑童子は、蛇のように目を光らせ、とうとう北角の企みを看破しました。

 そこは美しい水郷(すいきょう / 湖や川の景色が美しい町や村)でした。北角と牛鬼は村のはずれの川べりで落ち合い、ひそひそ話をしていました。やがて話を終えると、二人は村に向かって歩きはじめました。酒呑童子は隙をみて北角を引っ捕らえようと尾行を続けました。

 ですが、ここで不測の事態にあいます。日暮れどきになり、例によって酒をがぶ飲みし、泥酔した牛鬼の様子をうかがっていたときのことです。 夜道をふらふらと拾いはじめた牛鬼が、最初に押し入った役場のなかから大慌てで逃げてきた男の姿を見て、酒呑童子は目を見張りました。ゆくりなくもその男は、自分の父親だったのです。そう、書生のころ口争いがきっかけで酒呑童子を勘当した男です。

 命からがら役場から脱してきた父親ですが、すぐさま追いかけてきた牛鬼にあっけなく捕まりました。父親は牛鬼の腕のなかで必死にもがきますが、身動きひとつできません。

 憫笑を浮かべ、今まさに我が父に喰らいつかんとする鬼。父親の顔が恐怖にゆがみます。酒呑童子はたまらず、潜んでいたやぶのなかから飛び出しました。そしてありったけの力で牛鬼に体当たりしました。その拍子に父親は鬼の腕から解放されました。

 『父上、お逃げください』と酒呑童子は叫びました。ですが父親は腰をぬかしてしまい、動けません。その間に牛鬼は体勢を立て直し、恐ろしい形相で酒呑童子へと向き直りました。

 牛鬼が槍のように鋭い両の手を酒呑童子に向かって振りあげ、もうだめか、と死を覚悟したそのとき、背後から眩い光が放たれました。その光を一身に浴びた鬼は奇声をあげ、一目散にその場から逃げていきました。

 鬼の姿が見えなくなった途端、膝からがくりと崩れ落ちた酒呑童子。その背中に聞き慣れた声がかけられました。『やぁ、ご無事ですか』

 声の主は北角でした。青磁の壺を抱えて柔らかく微笑み、酒呑童子に手を差しのべた北角に向かって、酒呑童子はいきり立ちました。

『北角、きさま、いったいなにを考えている。こんな子供じみた茶番をしでかして、ふざけるのも大概にしろ』と胸ぐらを掴み、声を張りあげました。

『はて、茶番とは』と北角は落ち着き払って、白々しく言います。酒呑童子はにわかにわきあがる怒りとともに、拳を振りあげました。

 しかしそこで予想だにしなかった出来事が起こります。突然、脳天に激痛が走り、酒呑童子は力なく地面に倒れこみました。

 なにがなんだかわからず、遠のく意識のなかで薄っすら目を開けると、そこには血に染まった鍬を手にした父親の姿がありました。

 『ち、父上、なぜ』酒呑童子は喘ぎながら、声を絞り出しました。

 父親は憎しみと悲哀が混ざったような表情でこう言いました。

 『この無礼者が。大師様に手をあげるなど言語道断。きさまなど、もはや息子でもなんでもないが、今からはただの他人ではなく、咎人とみなす』

 そして再び息子に向かって鍬を振りあげたそうです。

 そこで酒呑童子は気を失いました。次に目が覚めたときは、海岸にいました。嗅ぎ慣れた磯のにおいで、すぐにそこが寺の麓にある村の浜辺だとわかったそうです。

 美しい月が天高くのぼる時分でした。父にやられた頭の傷は手当てがされていました。酒呑童子はその場に寝そべったまま、ぷっくり膨らんだ楕円の夜月を一途に見あげていましたが、やがてゆっくりと半身を起こしました。頭の傷のせいで、少し目の前がぼやけましたが、ほどなくすると落ち着きました。

 ひたひたと穏やかに行ったり来たりする波の音に合わせるように、遠くの方では祭りばやしの奏楽が流れていました。この日は村の宵山(よいやま / 祭の前夜に行われる小祭)でした。

 軽やかな音色と一緒に、村人たちの楽しそうに談笑する声が聞こえてきます。

そのときでした。向こうから北角と牛鬼が並んでやって来ました。二人は酒呑童子の目の前で立ち止まり、微笑をたたえながら酒吞童子を見おろしました。

『なぜ、そんなに陰気な顔をしているのです』

そう声をかけた北角に、酒呑童子は焼けつくような視線をぶつけました。北角はそんなのは気にもとめず、愛嬌のある顔で酒の入ったお猪口を差し出しました。『さぁ、お飲みなさい』

 酒呑童子はふざけるな、とそれを払いのけました。北角はやれやれ、とゆっくりとした動作で、波打ち際まで飛ばされたお猪口を拾いに行き、口縁についた砂を丁寧に払いました。

 『そんなにかっかしなくてもよいじゃないですか。まぁ、あなたの気持ちはわからないでもないですがね。とにかく今夜はうまい酒でも飲みながら、ゆっくりと語り合いましょう。結論は急がずに。酒は憂の玉ぼうきと言いますしね』

 やがて村では盆踊りがはじまりました。踊りに合わせて村人たちが歌う歌には、北角が偉大なる大師だと激賛し、謝する言葉が含まれていました。しばし呆然としてそれを聞いていた酒呑童子でしたが、やがて頬には静かに涙が伝いました。

 『さぁ、どうぞ』北角は再びお猪口をお差し出しました。酒呑童子はそれを引ったくるようにつかみ、ぐいっと飲みほしました。そして次には牛鬼が脇に抱えていた酒樽をも乱暴に奪い取って、鯨飲しました。

 樽がすっかり空になると酒呑童子はそのまま村に向かって走り出しました。そして盆踊りの輪に乱入すると、近くにいる村人を片っ端から殴りはじめました。

 わたしが村人から通報を受けて祭の会場に駆けつけたときには、体のすみずみから酒のにおいを放ち、わら縄で縛りあげられた酒呑童子が、血まみれでぐったりと横たわっていました。わたしはもうひとりの弟子とともに、酒呑童子を背負って寺に戻りました。

 夜が明けるのを待って、今あなたにお話したこの一部始終をひと通り聞いたあと、わたしは酒呑童子を結界を張った洞窟に幽閉しました。

 閉じこめた理由は、表向きには罰ということでしたが、本当の目的は、北角からかくまうことでした。酒呑童子は北角の本性を知ってしまいましたから、やつに命を狙われてもおかしくはないと思ったのです。わたしは悪しき心を持つ者を寄せつけない結界を、何重にも張りめぐらせました。

 ほとぼりが冷めたら洞窟から出して、また一緒に修行に励むつもりでした。でもわたしが次に洞窟を訪れたときには、すでにもぬけの殻になっていました。

 そののち、やつが酒呑童子と呼ばれる魔鬼と化し、数々の悪事に手を染めている、という噂は聞いてはおりました。ですが年甲斐もなくお恥ずかしい話ですが、わたしはまったく信じたくなかったのです。正義感が強く果断に富んだあの男が、そんな野蛮な愚か者になり果てるわけがない、と。でも今日こうしてうにゃもん殿のお話を聞いてはっきりしました。まことに残念です」

 そこで和尚は長い話を終え、閉口した。代わりにうにゃもんが時を置かずしてこう尋ねた。

 「和尚よ。わしに酒呑童子を斬れ、と本気で申しておるのか」

 和尚ははじめは反応はしなかったが、やがて覚悟を持ってはっきりと首を縦に振った。

 「酒呑童子は哀れな男です。心底、同情もしています。でもあまりにも罪を重ね過ぎた。あなたと黄大仙であれば、間違いなく酒呑童子に天誅をくだすことができるでしょう。どうぞ、その刀でやつをお斬りください」

 そこで和尚は再び押し黙った。そしてこれまでで最も長く、重たい無言の間を経たあと、うにゃもんをしかと見据えた。

 「でも、でももし、あなたがこのあさましい話を聞き、ほんのわずかでも情をかたむける気持ちになってくださるのなら、どうかたったひとつだけ、この愚僧のわがままを聞いていただきたい」

 「聞こう。わしも腹蔵のないところが知りたい」 

 即答したうにゃもんに、ひとかどの和尚はまがいもない態度で、深く頭をさげた。

 「うにゃもん殿、あなたがやつを追いつめ、とどめを刺そうするとき、こう伝えてもらいたいのです。『もしも来世で罪過を悔いあらため、清く真っ当に生きることを望むのならば、幽魂となったのち、このわたし、天海のもとを訪れなさい』と」

 「呼びつけてどうするつもりじゃ」

 「浅はかな方便かもしれませんが、せめて仏に代わり、わずかばかりの慈悲を与えてやりたいのです。親の愛情を受けられずに鬼と化し、望んでもいない非行を続けた、あの哀れな愛弟子に。できることなら生きて今一度、一緒に善行の道を歩みたかった。でも、もうそれは決して許されぬこと。ならばもはやこれしか、わたしがしてやれることはないのです」

 苦悶の表情の天海に向かって、うにゃもんは低い声でぼそっと、是非におよばず、と言い残し、その眼にわずかに会釈をすると、刀を手に座を立った。

 翌朝、東の空が微かに琥珀がかってきたころ、約束の場所で酒呑童子と再会したうにゃもんは、ためらうことなく黄大仙をぬき、光り輝く退魔の剣舞で、悪鬼を完膚なきまでにを打ちのめした。


-----


 おとぎ話を聞く子供のような熱心さで、うにゃもんの話に聞きいっていた板場の娘は、飲み終えた湯のみをそっと飯台に置くと、大男に向かって尋ねた。

 「それで、うにゃもんさんは、天海和尚の頼みごとは叶えてあげたのですか」

 外はいまだに積もるような白驟雨(断続的に烈しく降る秋の雨)が続いている。半夜を越え、突如はじまった遠雷のとどろきが合図であったかのように、うにゃもんの唇は一文字に結ばれた。

 女は押し黙った大男の様子をしばしちらちらとうかがっていたが、やがて出しぬけに空になった二つの湯のみを手に立ちあがった。けげんそうな目で顔をもたげたうにゃもんに、女はこう言った。

 「今晩はまだまだ降りそうですね。なんだか薄ら寒くなってきましたし、宵越しのお茶は縁起が悪いので、いれなおしてきます」

 ほどなくして板場の娘は、丸火鉢を抱えて運んでくると、そっと座卓の脇に置いた。なかに敷かれた木炭が、柔らかな火光と暖気を放っている。

 火鉢には年代物の五徳(やかんなどをのせる三脚)が置かれていて、そのうえには小ぶりの急須がのっている。女は先ほどの蕎麦猪口のような湯のみよりも、さらに小さな湯のみを二人分用意すると、急須から煮え湯のような茶を注いだ。勢いよく立ち昇る白き湯気の向こうで、うにゃもんは微笑みをこぼした。

 「三献の茶か。なかなかやりよる」

 女は火鉢の火の世話をしながら白い歯を見せ、ちょっと気どった調子で答えた。

 「はい、うにゃんもんさん。まだまだ夜は長いのです。もっとこの奇天烈な語らいを楽しもうではありませんか。この三杯目のお茶はぜひじっくり味わってくださいね」

 「ふん、飯の味も座持ちもうまい、か。ますますこのひなびた飯屋の秘め事に興味が湧いてきたぞ」

 二人は火鉢で暖をとりながら、しばし無言で熱々の茶を味わった。

 三献の茶とは、のどの乾いている相手に、一杯目は飲みやすいぬるめのお茶をたっぷりあたえ、二杯目は先ほどよりも少し熱いお茶を、茶碗に半分ほどそそいで出し、渇きが癒えたあとの三杯目は、熱い茶を小さな湯のみでゆっくり味わってもらう、という気配りのすすめである。

 かの有名な戦国大名、石田三成がまだ寺の小姓であったころ、鷹狩りの帰りにたまたま寺に立ち寄った豊臣秀吉にこれをやり、たいそう喜ばれ、のちに家臣に登用されるきっかけとなった、という逸話が残っている。

 「さっきのおぬしの問いじゃがな、」うにゃもんは湯のみを置くとしじまを破った。「約束は、果たした。酒呑童子をたたきのめし、地べたに這いつくばらせたあとでな」

 「それで、鬼はなんと答えたのです」

 「なにも言わなかった」うにゃもんは渋い顔で答えた。「やつはただ一言、濁った目で『我が首を落とせ』と言い、黙座した。それからはわしがなにを話しかけても一切、その口が動くことはなかった」

 「でもうにゃもんさん、先ほど酒呑童子は逃げていったと」

 「あぁ、そのときのわしはどうかしておった。乱れることなく死を受け入れたやつの顔を見ていたら、体が硬直した。結局、最後の一太刀はおろせずじまいじゃった」

 女はその黒い目を大きく見張り、うにゃもんがまだ語り終わらぬうちから、いかにも当惑したように眉をひそめた。

 「なんと、とどめを刺させる状況であったのに、刺さなかったと。確かに同情の余地はあるようですが、それを差っ引いても相手は極悪非道な殺人鬼でございましょう」

 うにゃもんは苦虫を噛みつぶしたような顔で答えた。

 「あぁ、若さゆえの浅慮とは言え、阿呆なことをしたと思っておる。今でもそのことに煩悶し、強い悔恨に揺れることがある」と言ったあとに、こう弁解した。「じゃがな、さっきも言ったが、やつはそのときすでに黄大仙のすさまじい斬撃によって、相当な深手を負っておった。這うようにしてその場から逃げはしたが、あの傷ではおそらく、日ならずして力つきたことじゃろう」

 娘はなにか考えごとをするようにしばし黙っていたが、ややあってこう尋ねた。

 「その北角とかいう下衆男はそのあと、どうなったのでしょうか」

 「うむ。わしも和尚に同じ質問をした。だが、和尚は力なく首を横に振った。行きかた知れずだと言っておった」

 湯のみを持つ女の手が、小さく震えた。

 「なんだか、耳にふたをしたくなるようなお話ですね。そんな悪の権化が、いまだにこの世に野放しになっていると思うと、寒心に耐えません。今もきっとどこかで人を籠絡しているに違いありませんから」

 「まぁ、そうじゃな」

 うにゃもんはひび割れた声でそう答えると、やおら熱いお茶を立ち昇る湯気ごとずずっと吸いこんだ。

 「さて、わしの話はすべて済んだ。合点がいったか」

 板場の娘はしっかりとうなずいた。

 「へぇ。でも、最後にもうひとつだけ。うにゃもんさんの言うとおり、酒呑童子がどこかの地で朽ちたとして、そののち魂は天海和尚のもとへ向かったのでしょうか」

 うにゃもんは若娘の問いに少し面を食らったようだった。火桶のうえで手をもみながら、しばらく考えこんでいたが、やがてそっぽを向き、さぁな、と興もなさそうに聞き流した。女はさらに突っこんで聞こうとしたが、大男の態度がそれを許さなかった。女はそれにいささか拍子ぬけしたようだったが、上品な肩を小さくすくめただけで、無言の表白にとどめた。

 やせ細ったこの田舎食堂には今、荒々しい雷雨の音だけが響き渡っている。雨粒は滝のように雨戸を滑る。晩秋の冷えた夜気が、そこらじゅうからじりじり室内に入りこんでくる。

 そして時刻は丑の上刻(午前一時四十分)を迎えた。

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