第6話 般妖が嶽の黒い森
般妖が嶽のふもとに着いた。道々、目を引きつけた燃ゆるような楓の木立も、昼なお暗い谷底も、気高い彼岸花の群落もぬけた今、目の前にはのっぺり平たい湖が広がっていた。昇りはじめたばかりの月明かりで、湖面は生まれたばかりの白刃のように銀鼠色に輝いている。
まいごは口にくわえた刀を畔に置くと、水際に近づいた。水は水精(水晶の江戸時代の呼び方)のように透き通っていた。水面に映る夜月は柔らかな秋風を受け、気持ちよさげに小刻みに揺れている。
身を乗り出して湖水を口にふくみ、時間をかけて飲みくだした。秋の晩涼でほどよく冷えた水が、体のなかに静かに染みこんでいく。その感覚が心地よかった。
のどの渇きがすっかり癒えると頭をもたげ、眼前に鋭くのびる魔の山をあおいだ。ここから行く先は宵の天界よりも暗く、視地平を超えるほどに果てしない黒い森におおわれている。その光景はこの旅がまだまだ道半ばであることを、小さな旅猫に強烈に印象づけた。
だが、ようやくここまで来たのだ。なんとしてもかの金平糖を手に入れ、我が家に持ち帰らねばならない。これまでどんな医家や薬師でも、どうにもならなかった老翁の病を治す手段は、もはやこれしかないのだから。
まいごは金平糖によって再びもたらさせる翁との幸せな日々を思い浮かべ、疲れ切った心身に再び活を入れた。そして大切な守り刀を拾うと、黒い森へと続く岩だらけの荒れた坂道を登りはじめた。
月のいい晩だった。外は昼間のように明るく、そのおかげでごつごつのやっかいな足場でも、難なく歩き続けることができた。やがて森の入り口が見えてきた。
森に足を踏み入れる直前、不意にこんな声が聞こえてきた。夜空を切り裂くように降りてきたその声は、まいごの頭頂を突きぬけて、直接脳内に響き渡る。
「小さき者よ。渇する品を手に入れたくば、陽光の足跡を追い、雲海を臨む頂まで来るがよい」
それは太く静かで、少しくぐもった声だった。感情は持たず、ただ事実のみを伝えている、そんな感じだ。
まいごは天を見あげ、声の主を探した。一瞬、鳥のような影が見えたような気がしたが、気のせいだったのだろう。雲ひとつない空には愛想のない月がぽっかりと浮かんでいるだけだった。まいごは再び正面を向くと、森のなかへと歩みを進めた。
どす黒い巨木の群れが、大蛇のようにうねうねとからみあうように伸び、幾重にも重なって空をおおいつくし、一片の月の光も届かない。元来、猫という生き物は、暗闇が苦手ではない。両の眼がほんのわずかな光をも逃さず、瞳のなかに取りこむことができるからだ。だがこの墨汁を垂らしたような漆黒の空間では、一寸先も見えなかった。
光を失った恐怖はもちろんあった。だが猫は寸刻、足を躊躇させただけで、すぐに気持ちを切り替え、湿っぽい大森林のなかを手探りで道なき道を進む。果たして自分が今、目指すところへ向かっているのかどうかも怪しかったが、とにかく目の前にある斜面を登ってさえいれば、いつかはてっぺんまでたどり着ける。そうかたくなに信じ、ただひたすらに足を動かし続けた。
目が見えない状態で歩くのは、想像以上に神経を酷使する。さらに山道の傾斜はどんどん激しくなっていく。またたく間に息はあがり、心の臓は早鐘を打った。
そんななか、どれくらい歩いただろう。足はもはや鉛のように重たく、踏んばりもきかなくなってきていた。一瞬でも気をぬけば、たちまち転げ落ちてしまいそうだ。
目をつむっていても開けていても、目の前には同じ光景が広がっている。それは完全な無明な世界だった。
そのときだった。ふと一箇所だけ小さく陽だまりのようになっている場所が視界に入った。 それは亭々と伸びる光の柱のようだった。木の幹ほどもありそうな太さだが、光自体はひどく微弱だったので、はじめは幻覚ではないかと疑った。だがどれだけ目を凝らして見ても、確かにそこに光は存在する。まいごは慎重な足取りで光源に近づいた。
目の前まで来ると、それが単なる光る柱ではないことがわかった。それは緩やかに萌えでた糸のような線の集合体だった。線はたこ糸くらいの太さで、一本一本が異なる淡色の光を帯びている。人よりも色彩感覚に劣ると言われる猫でも、このとりどりに光り輝く無数の糸の神秘的で美しい様に、我にもなく呆然と立ちつくした。
そのとき異変が起きた。口にくわえていた宝刀が突如、熱を放散しはじめたのだ。それはあっという間に煮えつくような熱さとなり、たまらずまいごは口を開けた。
刀が地べた落ちた衝撃で鞘がぬけた。その次の瞬間、刀刃から雷のような鋭い閃光が走った。強烈な光を両の目の瞳孔が余すところなく受け止め、そのあまりの眩さにまいごはのけ反り、後ろに倒れこんだ。
ややあって身を起こし、いまだ抵抗するまぶたを強引にこじ開けると、そこには先ほどまでとは違う光景があった。かすかな光を放っていた柱は今、太陽のように眩く、ばらばらの色をしていた細き糸の束はすべて、はっきりとした単色になっていた。
さらに線の一本が色を変えると、それにつられるように周囲の線も漸次、同じ色に変わっていく。それが波紋のように輪を描きながら広がり、最後は柱全体の色がその色に染まる。その変色が一定の間隔で起こる。赤から青に。橙から紫に。緑から黄色に。それはただただ、限りなく美しかった。
息をのむ奇観を目の前に、高鳴る心の臓の音に合わせ、全身の血管が荒々しく脈を打つ。まいごは気分を落ち着かせるように思い切り息を吸い、時間をかけて吐き出した。
「さぁ、陽光よ。俺を雲海へと導いてくれ」
そう唱えた刹那、まいごは屹立する巨大な柱が放った光彩に包まれた。
やがて黒き森はもとの静かさへと帰っていった。そこにもう、まいごの姿はなかった。
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