第5話 酒呑童子
「外で会いましたじゃろ」
宮司は柔和な表情を、ほとんど不自然なくらいわずかにも動かさず、そう切り出した。
「あの鬼女のことか」
宮司はゆっくりとうなずいた。「さようでございます。それで、どうなされた」
「どうもこうもない。斬り殺した。でなければわしが殺されておった」
その返答に宮司はのっぺりとした赤ら顔の口角を満足そうにつりあげた。
「青行燈(あおあんどん)はそうやすやす倒せるような妖怪ではありますまい」
「うむ。一瞬ひやっとさせられた。じゃが、それでもわしの相手ではなかった」
「ほぉ、それは豪気な」
あくまで郎色を崩さない小男に、うにゃもんは語勢を強め、問い返した。
「宮司よ、わしとて与太郎(よたろう / まぬけなやつ)ではない。あの鬼女を仕向けたのがおぬしの仕業であることはわかっておる。青行燈は元来、人の居ないあばら家に住み、滅多なことでは人前に姿を現さぬ内気な半妖。じゃが唯一、空音を吐かれたときに逆上するという難癖がある。おぬしはそれを利用したんじゃ。
神の祝りである宮司たる者が怪異の類をたぶらかし、人を襲わせるなど沙汰のほか。さぁ、さっさとそのお粗末な化け術を解くがよい」
険しい形相のうにゃもんに対し、目の前の異形なる男はくつくつと忍び笑いを漏らしながら、ゆらりと立ちあがった。
「うにゃもん殿、どうやらあなたはわしが見こんだとおりのお方のようだ」
言いながら老人はにゅるにゅると大蛇のようにうねりながら姿を変えた。
「やはり、きさま」
うにゃもんもすぐさま立ちあがり、腰の打刀の柄に手をかけた。「酒呑童子(しゅてんどうじ)じゃな」
猛牛の二本角に、鎧兜をも噛みちぎるという大牙。成獣のように毛深い紅色の肌。その悪業や放逸ぶりの数々は醜聞として知れわたる。
うにゃもんは本性を現した人ならぬ者をにらみつけ、刀をぬかんとした。その様子はいかにも豪胆だった。だがどうしたことか、刃が鞘から離れない。たちまち慌てる大男を見て、酒呑童子は口の端をつりあげた。
「無駄ですよ。ひとたび青行燈の血飛沫を浴びた刀は、その呪いでぬけなくなるのです。そのなまくらはもう一生使えますまい。それにしてもあなた、そんなことも知らなかったのですか」
うにゃもんは、顔をまるっきり真っ赤にし、ありったけの力で刀を引きぬこうとしたが、それはぴくりとも動かなかった。あきらめて刀を放り捨て、素手で闘うべく身構える。一方、酒呑童子はゆったりとした動きで、ため息まじりに腕組みをした。
「さて、うにゃもん殿、ひとつ聞かせくだされ」
酔いどれ鬼は一拍おいてからこう切り出した。
「あなたはかの誉れ高い桃尻でしょうに、いったいいくらでこんな不毛な依頼を引き受けたのですか。せいぜい百文といったところか。あなた、桃尻のくせにいったいいつまでそんな妙味のない商いをしているつもりです。それより、わしと手を組みませんか。金も女も、いくらでも手にはいりますよ」
「この色魔が。わしに欺術は通じぬぞ」
言い終えるや否や、うにゃもんは酒呑童子に向かって突進する。だが鬼はすんでのところで煙のように消え、矢のごとく突っこんだうにゃもんは勢いを殺せず、前のめりに倒れこんだ。
「やれやれ、お里が知れますな。怖めず臆せずは結構じゃが、世の三大妖怪のひとりであるこの酒呑童子に素手で勝負を挑むとは。桃尻ともあろう者がこうもぼんくらでは、人の世も末ですな」と醜い口もとを皮肉に曲げた。
「きさま、言わせておけば」
うにゃもんは唐獅子のような身のこなしで跳ね起きると、首をぶんぶん振りまわし、霧散した鬼の行方を追った。だがその姿はどこにも見当たらない。堂内にはせせら笑う鬼の声だけが静かに響く。
「まぁ、なんとも手荒なお方だ。そんなにかっかしなくてもよいでしょう。それにこれは、あなたにとっても悪い話ではないはずですがね。どうです、結論は急がずに、これから一杯やりませんか。酒は憂いの玉ぼうきと言いますし、うまい酒でも飲みながらゆっくり語り合いましょう。それとも、」
次の刹那、うにゃもんの太首に禍々しい刃がつきつけられた。少年のような背丈の酒呑童子は、自身の胴体ほどもある巨大な鉄鎌を手にうにゃもんの背後に現れ、熟柿くさい息を襟首に吐きかける。「その首、今すぐ切り落としてあげましょうか」
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常闇に包まれた秋夜の田舎食堂。その片隅の客席でそれまで雄弁を振るっていたうにゃもんは、苦々しい顔つきで口を閉ざした。次にしゃべりはじめたのは、しばらく時が経ってからだった。
「わしは今でもはっきりと覚えておる。やつの鎌の先っぽが、我が首筋に触れたときの、あの氷のような冷たさをな」
そして再びうにゃもんは話を中断した。向かいに端座する板場の娘はその間、じっと相手の目を見守り、口が開かれるのを黙って待った。目の前の男が苦い記憶を引き出そうとしていることが伝わってくる。
やがてうにゃもんは、一粒ずつ粟でも噛むような調子で、こう尋ねた。「それで、わしはどうしたと思う」
女は少し考えたあと、無言で首を横に振った。
外では相変わらず夜風が荒れ狂い、さらに少し前から霧粒の舞うような細雨も混じりはじめていた。
「降参した」うにゃもんは薄明かりのなかで答えた。
「どう考えてもわしに勝ち目はなかったし、あの世に行くよりはましだと思ったんじゃ。酒呑童子は満足そうな下卑た笑みを浮かべ、鎌を引っこめた。そして次には近習や手下の鬼を呼び寄せ、酒樽と山くじら(獣肉全般の呼び名)を盛りつけた大皿を持ってこさせ、わしを囲んで饗応をはじめた。物の怪どもとの晩酌などまるで生きた心地はせず、どれだけ飲んでも酔いはまわらなかった」
「でもお尻さん、さっきお酒は口にしないと」
「あぁ、このときの変事を境に、身体が受けつけなくなったのじゃ」
それを聞いた女給は納得したようにうなずき、ひとりごとのように、わたしと同じですね、と呟くと、不意に立ちあがった。
「お茶のおかわりをいれましょうね」
そしてうにゃもんの返事を待たず、刻み足で板場へ向かった。
「おい娘、この次はおぬしの分の茶も持ってくるがいい」うにゃもんは女に向かって発した。「こんな荒天では、今宵はもう店じまいじゃろう。ならばこれ以降は、客と給仕の関係ではないはずじゃ」
女は振り返ると、そうですね、と短く微笑んだ。
飯台に新たに二つの湯のみが置かれた。湯のみは先ほどよりもひとまわり小さな蕎麦猪口のような形をしていた。
女が店じまいのため暖簾をたたんでいる間、うにゃもんは温かいお茶をちびちび酌みながら、その様子を眺めていた。まだ年若い娘がたったひとりで田舎食堂を営む姿は、徒士(かち / 下級の武士)の子でありながら病弱な両親のせいで赤貧の日々を送り、早年にして尻に就き、食い扶持を稼いだ自身の過去と重なった。
無駄のない手つきで店じまいを済ませた女は、足早にうにゃもんのいる座卓に戻ってきた。そしてさも美味しそうに一口、お茶をすすった。
「それで、その鬼はお尻さんと組んで、いったいなにがしたかったのです」
「あ、あぁ、ええとな、」女の問いにうにゃもんはうぉんと大きく咳払いをし、その間に記憶を整理すると話を再開させた。「早い話が復讐じゃった」
酒呑童子はかつて人間だった。長者の子として生まれ、一族ではじめての代官になることを目指して父子鷹、勉学に励む日々を送るも、書生のころ父親との口争いがきっかけで義絶され、とある密教寺院に送りこまれた。
そののちは、徳の高い住職のしたで心をあらため、一心に修行することのみを糧としてきたが、ただの一度、夏祭りの夜に酒を鯨飲したことで寺を追い出され、山奥の洞窟に幽閉された。
ようやっとその洞窟を脱してからも、醜業で食いつなぐ不遇であさましい日常を余儀なくされ、辛苦にあえぐなか、その身体は少しずつ恐ろしい鬼の姿へと変わっていったという。
うにゃもんは言った。
「酒呑童子の望みはただひとつ、その寺院の和尚の首をかっ斬ること。そのためにやつはわしを利用しようとしたんじゃ」
「でも、鬼はなにゆえ尻の助けを求めたのでしょう。単に復讐がしたいだけなら、ひとりで勝手に赴けばよいでしょうに」
「うむ。わしもそう思った。じゃが、それができなかったのじゃ。寺のまわりには強い結界が張りめぐらされておってな。札つきの悪鬼である酒呑童子ですら、どれだけ挑んでも破れなかったそうじゃ」
女は合点がいったようにうなずいた。「だから桃尻を」
うにゃもんは首肯する。
「そのとおりじゃ。結界とは、霊妙なる野山の草木をつむいで作られる霊的な壁。選ぶ素材やそのつむぎ方によって千差万別のものが出来あがり、そうやすやすと読み解けるもんではない。じゃが桃尻であればそれ成すものを見破り、解きほどくことができるのじゃ。
わしはやむを得ずやつの命に従い、翌日の朝早く、偽の宮司の姿に戻った酒呑童子とともに、その山寺に向けて発った」
うにゃもんはそこで一度お茶をすすった。女給もつられるように湯のみを手に取ったが口にはつけず、話の続きを促すように真剣な眼差しを大男に投げた。その様子にうにゃもんは一笑し、湯飲みを卓に置いた。
「目的の寺は、その宿場町から四つの村と二つの山を越えたところにある険しい山の頂にあった。宮司は道中、すべての村で胃の袋がくちくなるまで人を襲い喰らい、酒場で浴びるほど酒を飲み、家という家から金目のものを獲り漁った。
やつがよだれを垂らして肉塊を貪るさまを見て、わしはなんべんも吐きくだした。わしの真っ青にゆがんだ顔を見て、やつはさも愉快そうに笑った。
やつは人間が恐怖する顔を好み、あるいは儚く息絶える様子を見て興奮し、あるいは家族の幸せを一瞬にしてついえさせることに至極の快感を覚えていた。
ある日の夕刻、やつが気まぐれに通りすがりの村人をなぶり殺し、体からえぐり出した生肉にかぶりつこうとしたとき、わしはたまらず発狂し、波のように押し寄せる吐き気を無理やりに飲みくだすと、無我となってやつに飛びかかった。
じゃがまったくの背後から猪突したにもかかわらず、やつは前と同じように霧煙となって忽然と姿を消し、あっさりとそれをかわした。そして今度もわしの背後にすっと現れると、猫のように身を躍らせて背中を駆けあがり、わしの首を羽交い締めにした。首を絞めるやつの腕は、冬眠明けの熊でさえもうっちゃれるわしの怪力をもってしても、まるで歯が立たなかった。もがき苦しむわしの耳もとで、やつは嘆息まじりにこう呟いた。
『うにゃもんよ。まだこのわしに逆らうか。まったく底なしに阿呆な尻よ』
そして穏やかで残忍な微笑みで、さらにじわじわとわしの首を絞めつけた。
わしが今まさに失神しそうになったところで、やつはようやっと腕を解いた。激しくむせながら地べたに這いつくばったわしをやつは興がさめたような目で見おろし、そしてこう言った。
『うにゃもん、きさまに一晩やる。その間に湯の沸いたような頭を冷やして、もういっぺんだけよく考えるがよい。その強情を折り曲げて、わしの忠実な下僕となるか、それともこのしがない村の片隅で人知れず朽ち果てるか、果たしてどちらを選ぶのが幸せかをな。答えは明朝、この場所で聞かせてもらおう。もしも逃げたらどうなるか、わかっておろうな』
そして最後に、『どのみちおまえの天寿はわしの手のなかにある。せいぜい賢い返事を期待しようか』と愉快そうに言い残し、やつは夕闇のなかへと姿を消した。そのときばかりは、わしは恐怖で全身がしびれ、しばらくの間、動けなかった」
うにゃもんは湯のみのなかの残りのお茶をぐいっと飲みほした。おかわりは、という女給の問いに、もう結構、と短く答えた。
雨足は激しさを増し、切妻の屋蓋を止めどなくたたく。ふと天井を見あげたうにゃもんに向かって、今夜の雨は長引きそうですね、と女は言った。うにゃもんは小さくうなずき、しばし押し黙ったあとに、思い立ったように黄大仙を手に取った。そして静かに抜刀した。薄闇のなかで切っ先が怪しい光を放つ。
「娘、ここを見ろ」
うにゃもんが指さしたものうち(刀の刃で最もよく切れる部分)には、際やかな刃こぼれがあった。
「これは酒呑童子との大立ち回りの末、やつの腹を斬り裂いたときにできたものじゃ。やつの体は文字どおり鋼のような硬さじゃったが、この名刀の実力が勝った。わしはやつにとどめを刺すことこそ叶わなかったが、かなりの深手を負わせ、やつは命からがら山林へと逃げていった」
「鬼は今もどこかで生きているということですか」
娘の質問に、うにゃもんは首を横に振った。
「わからん。あれ以来、一度も姿は見ておらんからな。話にも聞いたことはない」
「じゃあ、またいつか出くわすかもしれないのですね」
「あぁ、もし生きているのなら、当然あり得るだろうな。さぞかしわしのことを恨んでおるはずじゃ。やつはまぎれもなく化け物だった。返報はそりゃあ恐ろしい。じゃがやつの方も、わしがこの刀を持っている以上、うかうかとは近づいては来るまい」
自分に言い聞かせるように、うにゃもんはこう締めくくった。
もの言いたげな目でうにゃもんを見つめる板場の女に向かって、うにゃもんは鷹揚にうなずいた。
「わかっておる。わかっておる。おぬしが知りたいのは、どうやって黄大仙を手に入れたかじゃろう。これから説明するところじゃ」
大男はもったいつけるように、あぐらをかいた毛むくじゃらの足を組みかえ、渋い表情を浮かべる女とあらためて相対した。
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