第4話 峠の茶屋

 晴天の空に大きな雲の塊が、ゆっくりと浮動していた。まいごはそのとき、山塊のまん真んなかにある峠の茶屋の前を、とぼとぼと通り過ぎようとしていた。

質朴なたたずまいの店の前で、若草色の前掛けを巻いたかっぷくのよい女が、さっきから自分に向かって手招きしていることには気づいていたが、まいごは無視した。

 だが女の「ちょいとお待ちよ、おまえさん。お団子食べていかないかい」という言葉に、図らずも足を止めた。なにしろ村を発ってから丸二日間、ほとんど飲まず食わず、一睡もせずに険しい山路を歩き続けているのだ。秋のさわやかな日輪の光が緑の大地を包みはじめたこの時分、身も心も綿のように疲れていた。

 まいごはふらふらと女店員に歩み寄ると、警戒心をこめた目で鳴いた。本当に団子をくれるのか、確かめたかった。

 ふっくら愛らしい店主は、山焼けした丸い顔いっぱいに笑みを浮かべ、ちょっと待ってな、と言って店のなかに消えた。そしてしばらくして小皿を手に現れた。

 「ほら、たんとお食べよ」

 目の前に置かれた渋好みな飾り皿には、きつね色に焼かれた真ん丸の団子が三つ、きれいに並んでいた。

 まいごは女店員をじろりとにらみ、なぜ自分にこんなほどこしをするのか、と低い声で問うた。女は声をあげて笑った。

 「まぁ、そんなに怪しむことないじゃないか。なぁに心配しなくても、毒なんか入っちゃいないよ。昨日の夜、ちょっと作り過ぎちゃってね。余らせて捨てちゃうのももったいないだろ。だからこうしてここを行き交う人には、お客さんじゃなくっても片っ端から声をかけて、無銭で振るまってるのさ」

 まいごは皿に目を落とした。団子は香ばしいにおいを漂わせながら、和毛のように細い湯気をゆらゆら立ち昇らせている。警戒心はまだくすぶっていたが、湧きあがる空腹感にはあらがえず、とうとうかぶりついた。

 気づいたら残らずたいらげていた。ややあって店のなかから出てきた女は、空の皿をなおも舐めくりまわす猫を見て、目を丸くした。

 「あれまぁ、驚いた。おまえさん、体のわりに大食らいなのね。よっぽどお腹が空いてたのかしら。待ってな。今、おかわりとお水を持ってくるから」

 まいごは杉でできた形の良い一合升に入った温んだ水をまたたく間に飲みほし、新たに置かれた団子三つをほお張った。最後の一個を胃に流しこんだあとには、満足感しか残らなかった。

 まいごはほっこりと微笑む女に向かって、丁寧にこうべを垂れた。女は鏡餅のような腰を屈めて、優しい声で話しかけた。

 「ちょっとは元気になったみたいだね。よかったよ。でもねぇあんた、余計なお世話かもしれないけど、あんまり無理はしちゃだめだよ。ここへ来たときのあんたの顔、えらく疲れて見えたよ。そんなぶっそうな刀を背負って、きっと大変な旅の最中なんだろうけど、もっと体は大事にしなきゃ。よかったら、なかでちょっと休んでいきな」

 返事をするまでもなかった。腹が満たされた今、今度は猛烈な眠気に襲われはじめていた。重たいまぶたを必死でこじ開けながら女を見あげ、弱々しく鳴いた。それを見て女はまた破顔一笑した。

 女の柔らかな腕にすっぽり抱きかかえられたまいごは、店のなかに入る前から、すでに夢の世界に引きずりこまれていた。

 気がつくと老翁がいつもの鍛冶場で、まいごの背中にくくりつけられていた懐刀の手入れをしていた。

 鋼を溶かす炎の音、熱気が充満する空間。翁は眉間にしわを寄せ、難しい顔で「まったくへぼ侍め。もうちっとましな使いかたはできねぇのか」とか、「あぁ、刀が泣いてるぜ」などと、もぐもぐひとり言を言いながら、刃こぼれを紡ぐように直している。仕事中、絶えず悪態を呟く癖は昔からだった。

 まいごは翁の足元に寄った。まいごに気がつくと刀工は手を止め、右の腕で額の汗を拭った。腕から大玉のしずくが、豪快に飛び散った。

 「おぅ、まいごじゃねぇか。待ってろよ。もうちょっとでおめぇの刀、直るからよ」

 まいごは最初、なにがなんだかわからず、言葉が出てこなかった。呼吸を整え、気を確かに持つと、再び刀を持つ手を動かしはじめた翁に向かって、なぜ鍛冶場にいるのか、と尋ねた。翁はちらりとまいごに目を落とし、白い歯を見せた。

 「なんでって、そりゃあおめぇ、俺が鍛冶屋だからに決まってんだろ。それも天下選りぬきのな。なんだおめぇ、そんなことも忘れちまったのか」

 翁はぎゃははと、なお声高らかに笑った。まいごは寸刻の間、呆気にとられたが、やがて石臼を椅子にして座る翁の膝のうえに飛び乗ると、翁の痩せたどてっ腹にすりすりと身体をこすりつけた。何度も、何度も。

 「おいおい、まいご。なんだって今日はそんなに甘えん坊みてぇなことしてきやがんだ。そんなとこにいたら邪魔だ。ほら、仕事がはかどらねぇだろ」と戸惑った様子でそう言いながらも、その表情はどこか嬉しそうでもあった。

 まいごも素直に従ってどくつもりは毛頭なく、翁が刀を研いでいる間、その骨ばった膝にひしとしがみついていた。この夢のような時間をもう二度と失わぬように、しっかりと。そして刀匠の奏でる律動的な研磨の音に全身をゆだね、静かに目を閉じた。

 次の瞬間、まいごは刃物を研ぐ音ではっと目を覚ました。慌てて身を起こすと、そばには見たことのない壮年の男がいた。切子灯籠の明かりをたよりに刀を研いでいる。それはまいごの壊刀だった。

 男はまいごが目覚めたことに気がつくと、静かに手を止めた。

 「やぁ、やっと起きたね。よっぽど疲れていたのかな。もうすっかり夜だよ」

 のんびりとした口調で話す男に対し、己が刀を勝手にいじられたまいごは、それどころではない。身体にかけられていた麻の肌かけ布団を後ろ足で勢いよく払いのけると、俺の宝刀に無断でなにをしている、と哮り、今にも飛びかからんとして爪を尖らせた。まいごに蹴りあげられた布団は温かい抜け殻となって、ふわりと床に舞い落ちた。

 男は焦った顔で研いでいた懐刀を手に取ると、気色ばむ猫の鼻先につきつけた。

 「ほ、ほら、これ見てくれよ。こんなになるまで研いだんだ。結構、大変だったんだぞ」

 まいごは蚤取りのまなこで、刀の刃をじっと見つめた。男の言う通り、研ぎ面は艶かしく輝き、刃先も見事に研ぎ澄まされている。長い間、軒先に放置されていた古刀にはもはやまったく見えなかった。男はこう続けた。

 「でもまぁ、君の刀はもともとびっくりするくらいちゃんと手入れがされていたから、僕がやったことと言えば、劣化した部分をちょっと手直ししただけなんだけどね」

 男は南紀重国(なんきしげくに / 江戸時代屈指の刀鍛冶。のちに十一代にわたり幕府のお抱え刀工となる)と名乗る痩身の細面で、漆喰で塗ったような白い肌と、闇夜の湖面のような深い藍の浴衣の色の対照が印象的だった。狐のような目に、細くて高い鼻。口もとにはところどころ薄っすらと無精髭がはえている。髪は結われておらず、長い黒髪が根元から緩やかに波打っている。

 まいごがようやく爪をおさめると、重国は目を柔らかく細めた。

 「ねぇ、よかったら聞かせてくれないかな。この美しい御刀のことを」

 猫は鼻から息を漏らす。

 「あんた、こんな名もない古刀を美しいと思うのか」

 「刀の真価は、どれくらい作り手の想いが宿っているかで決まる。有名か否かじゃないさ」

 「なぜ研いだ」

 まいごの問いに、男は表情ひとつ変えず、優しい調子で答えた。

 「この刀のすばらしいところは、まさしく研ぎ面だよ。僕も長いこと研ぎ師をやっているけれど、こんなにも滑らかに研がれた刀は、これまでに見たことがなかった。だから思わず手が動いちゃったんだ。これをもっと美しくしあげたいってね。ねぇ、いったいこれは誰が研いだものなんだい」

 まいごはふんと笑った。「俺の爺さんだ」

 男の目は颯と好奇を帯び、前かがみの姿勢になった。

 「へぇ、きみのお爺さんか。さぞや名のある刀匠なんだろうなぁ」

 「まぎれもなく天下一だ。まぁ、商売っ気がないせいで、名は通っちゃいないがな。ところで、あんたもかなりの研鑽を積んだ鍛冶屋のようだな。なかなかのしあがりだ」

 「天下一の刀鍛冶を祖父に持つきみにそう言ってもらえるとは、一生懸命に研いだ甲斐があるよ」と穏やかに微笑みかけると「ねぇ、きみ。もうちょっとだけ待っていてくれるかい。あと少しで終わるから」と続けた。

 そして猫の返事を待たず、再び砥石と向き合った。少し研いでは刃を切子灯籠にかざし、指と目を使って、面のしあがりを丹念に調べていく。その様はかつての老翁を彷彿とさせ、まいごは図らずも見とれていた。

 さらに小半時が経ったころ、白皙の男は声をあげた。「よし、できた」

 刃を水桶に浸けてじゃばじゃばと丁寧にすすぎ、手ぬぐいでさっと拭くと、まいごの目の前に置いた。「さぁ、出来栄えを見てもらえるかい」

まいごは両の碧眼で穴が開くほどそれを見つめ、ひと通り見終わると男に向かってゆっくり首を縦に振った。それを見て研ぎ師は嬉しそうに微笑み、慣れた手つきで刃を鞘におさめた。

刀をまいごのそばに丁寧に置くと、男は今一度まいごを見つめた。

 「それじゃ、僕はそろそろ寝るけど、きみは好きにしていってくれ。ここに居たければ居てくれて構わないし、すぐに発つというのなら、それももちろんきみの自由だ」

 重国はあくびをしながら両手をあげてうぅんと伸びをし、こう続けた。「でもね、この辺りは夜になると、般妖が嶽から腹を空かせた物の怪たちが餌を求めてやって来るから、できれば日の出まで待つことをおすすめするよ」

 そう言って腰を浮かせた。

 「重国、」まいごは長髪の研ぎ師をあおいだ。「俺の名はまいごだ。我が刀を研いでくれたこと、感謝する」

 重国の目じりに愛想のよいしわが寄った。

 「僕の方こそ、今日はきみと、それからそのすばらしい刀に出会えて嬉しかったよ。それじゃあ、おやすみ」と言い襖の奥に消えた。

 切子灯籠の明かりで浮かぶ部屋には、いたるところに刀剣や切れものが置かれている。そのどれも品柄がよく、なかには名の知れた帯刀なんかもあった。そしてそのどれもが見事なまでにしあがっていた。

かつての翁の家の光景がまぶたの裏に浮かぶ。まいごは目を閉じ、しばし刀たちの息づかいに耳をすませた。蘇生したばかりのまいごの刀と共鳴し、音色を奏でている。それは美しい旋律だった。いつまでも浸っていたかったがやがて目を開け、おもむろに立ちあがった。そして生まれ変わった我が懐刀をくわえると、峠の茶屋をあとにした。

外は潤んだ冷気に包まれた暮夜だった。まいごは一度止まって目をこらし、闇のなかの進行方向を確かめると、再び歩きはじめた。

 少し歩いたところで不意に背後から自分を呼ぶ女の声がした。振り返ると先ほどの茶屋の玄関戸の前に、今朝の豊頰の女店員と南紀重国が並んで立っていた。

 まいごはくわえていた刀をその場に置き、尋ねた。「あんたたち、夫婦だったんだな」

 重国が代表して答えた。「そうなんだ。ねぇ、やっぱりきみは今すぐに発つんだね」

 「あぁ、俺は先を急がなきゃならんのでな。あんたたちにはとても世話になった。なにも礼はできないが、せめてあんたたちがこの先も達者に暮らせるよう願っていよう」

 「きみはいったい、どこへ向かっているんだ」再び重国が尋ねた。

 「般妖が嶽(はんようがたけ)だ」

 まいごの返答に二人の顔つきが同じように変わる。

 「きみは当然、知っているんだろ。そこがどんな場所なのかを」

 まいごはうなずいた。

 「なぜ、行かなきゃならないんだ」

男の問いにまいごは閉口した。虚言でうやむやにすることもできたかもしれないが、この恩人二人にそんなことは無用、とすぐに考え直した。

まいごは口を開いた。「金平糖(こんぺいとう)を探しに行くのだ」

 「こ、金平糖だって」重国は声を張る。「無茶だ。口碑のなかにしかでてこない、実在するかもわからないものだ。あてはあるのかい」

 「そんなのはない。あるのは希望だけだ」まいごは即答した。

 「あんた、」次に妻が声をあげた。「般妖が嶽なんて、あんたみたいなちびっちゃい猫がひとりで行って、ただで済むようなところじゃないよ。へたしたら命だって落としかねない。ねぇ、止めておきなよ。悪いことは言わないから」

 殊勝な顔つきで懸命に訴える二人を見て、まいごは口角をあげた。

 「やっぱり、あんたたちはいい人間だ。俺の爺さんのようにな。俺なら大丈夫だ。一流の菓子職人のこしらえた団子で胃の袋を存分に満たし、腕利きの刀鍛冶が研いだ懐刀を持って旅立つんだ。そう簡単にのたれ死んだりはしない」

 まいごはいまだに深い懸念の雲がかかる夫婦の顔を順繰りに見つめ、小さく会釈すると、刀を拾い、茶屋に背を向けた。

 「ま、まいご」重国の声に猫はもう一度、振り返った。重国は続けた。

 「きみの刀を研いでみて、わかったんだ。その刀にはなにか特別な力がこめられているって。勝手ですまないが、僕の手でできるだけその力を解放できるように調整しておいた。それが少しでも、この先のきみの旅の助けになることを願っているよ」

 まいごはなにも答えず、かすかにくちびるをつりあげ、再び行く先と向き合った。目の前には漆黒の空間が広がっている。秋分の夜風の冷たさが、身体の芯にまで食いこんでくる。

 だが今はもう寒さもわびしさも感じなかった。老翁と南紀重国、天与の才を持つ二人の刀工魂が息づく愛刀が、見えないまゆで我が身を包み、この闇路をやがて目的の地まで導いてくれる。そう信じることができた。

 そしてそこには、この世で最も愛する人間を救える金平糖がある。まいごは張り切った気持ちで、また新たな一歩を踏み出した。

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