第2話 記憶のない猫

 男の名はまいごといった。いや、男というのは適切な表現ではないだろう。正しくは雄だ。

 まいごは深い碧眼と、縞模様の入った長い尾を持つ成猫だった。山の麓の小さな田舎町にある老翁の家に、もう長いこと居候をしていた。

 まいごは乳臭さのぬけない時分から、どういうわけかおぼろげながら人語を解することができた。そして青年になるころには、おのずから人の言葉をしゃべるようになった。

 まいごには実親の記憶がなかった。最も古い記憶は、半死半生でこの町にたどり着いたときのものだ。空腹で今にも道端に倒れてしまいそうだったまいごを拾いあげた翁が、自家で振るまった蒸したさつまいもは、それ以来、猫の無二の好物になった。

 老翁の介添えにより、やがて快気してからも、まいごはそのまま翁の家に居座った。寝床も厠の場所も家主に相談なく決めたが、翁がそれに口を尖らせたことは一度もなかった。日に二度の食事も当たり前のように二人分が飯台に並んだ。

 まいご、という呼び名は翁がつけた。理由は言うまでもなく、まいごが迷い子だったからだ。まいごはこの名を気に入っていた。なぜかは自分でもよくわからなかった。

 この日、まいごはとうとう出立の心を決めた。旅立ちを考えたのは、これがはじめてではなった。だがいざという間際になると体が動かなくなり、結局いつも行動には移せなかった。だが今回ばかりは臆病風に屈するつもりはなかった。

 朝早くこっそり家を出て行くつもりだったが、宵っ張りで朝寝坊の翁が、どういうわけかこの日にかぎっては、まいごが目を覚ましたときにはすでに床離れしていた。

 発つのか、と短く尋ねる翁。まいごが翁を見あげ、小さくうなずくと、老翁はなにも言わず厨に消え、時を待たずして山盛りの蒸したさつまいもを大皿で運んできた。昨晩、まいごが眠ってから用意したもののようだった。好きなだけ食ってけ。老人はそう言うと、そっぽを向いて腰をおろした。

 まいごは時間をかけ、心ゆくまで好物の味を満喫した。そして満腹になった腹を休ませながらいつもより入念に毛づくろいを済ませると、やがておもむろに腰をあげた。この多くを語らぬ飼い主がどうやって自分の旅立ちを予見したのか、最後まで問うことはできなかった。

 翁は立ちあがった猫に向かって、そっぽを向いたままの恰好で、なにか持っていきたいものはあるか、としゃがれ声で尋ねた。まいごは少し考えたあと、土間のなげし(柱から柱へ渡して壁に取りつける横木)に置いてある、あの懐刀をもらえないか、と答えた。それは小さな守り刀だった。持ち主は知れず、数年も前からうち捨てられたようにそこに放置されていた。

 道中のお守りにしたい、とまいごはその透き通る声でつけ加えた。老人はしわだらけの顔にちらっとだけ歯を見せ、やおら懐刀を拾いあげると、わらの縄でまいごの背にしっかりとくくりつけた。足取りを鈍らせるほどのずっしりとした重みが、今の猫の心境と重なった。

 たゆたう気持ちを捨て去るため、二度三度、太い声で鳴いてみた。そして最後にもう一度、目いっぱい息を吸いこみ、それを腹の底からえぐり出したような雄叫びに変えた。そこでようやく最後まで決心を鈍らせていたなにが雲散したような気がした。まいごは土間に降りると、生涯で最も重たい一歩目を踏み出した。

 軒先まで来たところでふと振り返ると、戸口のところに腰の曲がった翁が立っていた。翁はいつもの仏頂面のまま「いとまごい(別れのあいさつ)は、しねぇんだな」と風にかき消されそうな声で問うた。まいごはそれには応えず、くるりと背を向けた。うらぶれた我が家と老翁の姿をこれ以上、見ているのは辛かった。

 それからはただ真っすぐ前だけを見据え、つづら折りのなかを進んだ。目指すはここから二つの山谷を越えたところにある霊山、般妖が嶽のてっぺん。長い、長い旅路だ。

 太陽が背中越しに天高く昇り、全身から汗がにじみ出した。ここいらでひと休みしよう。高台の木陰に腰かけ、霞のかかったような空のもと、自分が育った町を見おろした。それは晩秋のうら悲しい眺めであった。

 この町はかつて職人の町として名を馳せていた。織物職人や建具職人(しょうじ、ふすま、窓、戸など開け閉めする仕切りを作る職人)、床職人に塗装職人。凡百という職人が大通り沿いに各々の店屋を構え、その職人目当ての訪問客や交易目的の商人たちによって、町内はのべつ幕なくごった返した。

 だがやがて、この賑わいの町から出て行く者がちらほら現れはじめた。都に店を置いた方が実入りがいいからに違いない、というのがもっぱらの噂だったが、理由はきっと他にあった。

 職人がひとり、またひとりと減るごとに、町はみるみる色あせていった。今では老いらくした職人がほんの数名、古参の客を相手に細々と商いを営む程度になっていた。残りは皆、老畜ばかりと相場が決まっていた。

 老翁は刀鍛冶であった。まいごが翁の家に居座った理由のひとつに、老境に入った刀工の手から生み出される、世にも美しい腰の物(腰に差す刀)にあった。とりわけ翁は、研ぎ師として比類のない腕を有していた。一片の乱れもない鏡面の仕あげで艶やかに輝くその造形は、いつでもまいごを強烈に引きつけ、どれだけ見ていても飽きることはなかった。

 だが、あるときを境にこの傑出した刀匠は槌を握らなくなった。それまではひとたび熱中すると、寸暇も惜しんで仕事に打ちこんでいた翁が、日中も飯の時間以外は布団に包まっているか、たまに起きてきても縁側に腰かけて日がな一日つくねんと座り、ぼうっと外を眺めるだけになった。

 なにかの考えにふけっているのか、であればいったいなにを考えているのか、まいごには皆目わからなかった。食事の献立もまいごの分はさておき、自分の食べるものは形ばかりになった。わけを尋ねた回数も一度や二度ではなかったが、老人はいつでも口を閉ざしたままだった。なにかの病ではないかと詰め寄ったこともあった。翁に黙って勝手に医師を呼んだこともあった。だが老いの一徹か、翁はまともに相手にしようとはしなかった。

 まいごは今でも鮮明に思い出すことができる。かつて家の壁をおおい隠すほどに立てかけられていた刀剣や農工具の数々を。鍛刀場に溢れ返るすさまじい熱気を。翁の額から流れ落ちる大粒の汗を。鉄や鋼の焼かれる独特のにおいや、槌が立てる力強い大音を。そして妥協なき手仕事によって丹念に研磨された刀剣が、陽光を浴びて産声をあげる瞬間を。まいごはそのすべてが好きだった。

まいごはそこまで追想したところでぶんぶんと首を振った。感傷にひたっている暇はない。今は一刻も早くかの悪名高い霊山、般妖が嶽に向かわなければ。

心の深いところまで染みこんだ思い出を丁寧にぬぐうように、猫はゆっくりと腰を持ちあげた。

 目の前に伸びる山椒魚のようにうねった道の両脇には、燃えるような色の木々が隙間なく並んでいる。まいごは目いっぱい息を吸いこむと、細き荒れ道を再び歩きはじめた。

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