第2話騎士の素養

 八年前。


 カノンが中学生の頃。まだ世田谷で養父養母と暮らしていた時の事だ。


 その日は、熾瑠璃家に努める使用人ハヤシの伴をする為にカノンは世田谷の住宅街の中に建つ三階建てスーパーに来ていた。


「ハヤシさん、どうですか?」


 カノンは、インフォメーションセンターにやってきた年配の男、ハヤシに駆け寄って聞く。


 ハヤシは何かしゃべろうとするがうまく言葉が出てこずに首を横に振る。


「インフォメーションセンターの方には事情はお話ししました。ここに来てくれればいいのですけど」


「すみません、カノンさん。私が目を離したばかりにこんなことになってしまって……」


「目を離したのは僕もです。それに、まだすんではいません。今はできる事をしましょう。店内の方も巡回をしてくれるそうです。放送は防犯の事情でまだ控えるそうですが……」


 カノンは、ここまでハヤシの買い出しを手伝うための運搬要員として、ハヤシの運転する車に同乗してきていた。


 この外出にルノが伴をしてきたがった為、連れて来ていたのだがその姿が見当たらず今、二人は彼女を探している。


 小学三年生ともなれば、そこまで迷子になる心配はないだろうとカノンもハヤシも考えていたが、その認識は甘い事を思い知らされた。


 ルノは人見知りをするおとなしい子で、外出も一人ではそうしない。


 少ない外出の機会を得て、好奇心から歩き回っているうち、目の届かないところに迷い込んでしまう事はよく考えればわかることだとカノンもハヤシも自責する。


「ハヤシさん、入り口周辺を見てもらえますか?目が届けば。前の通りも……僕は、スーパーの上まで見て、もう一回下まで降りてきながら見てきます」


「わかりました。何かあればスマホに電話してください。こちらもそうします」


「お願いします!」


 カノンは、人にぶつからないように注意しつつ、売り場を小走りにルノを探す。


 お気に入りの大きな猫のぬいぐるみを頭だけ出した鞄を背中に掛けた子だ。それは遠目からの目印になる。


 彼女は低学年から中学年にあがった年ごろだ。もうすぐ失ってしまうであろう、その未だ残ったかわいらしい幼さが彼女を探す助けになればいいのだが。


「ええ、チクショウ!」


 一階を駆け回ってみたが、彼女はいないと思われる。


 荒い息でカノンは彼らしくもない汚い言葉で己に向かう呪詛を吐く。


 ブロックノイズのような視界の乱れがあるのが、彼の焦燥を駆り立てる。


(天目が邪魔だ、今はそんなものを見ているゆとりはない)


 カノンはきゅっと靴を鳴らしていったん足を止め、売り場脇の階段に目をやる。


 二階は菓子乾物やアルコール類、三階は服や生活雑貨の売り場だ。


 子供向けのおもちゃ売り場はない。


 服を見るのが好きな子だから、一気に三階まで上がって、先に三階を探すべきだろうか?


 その答えを心の中に出す前に、かれは気持ち暗い階段室に飛び込んで、三階まで一気に駆け上がっていた。


(頼む……!)


 階段室から売り場に出る。今はフロアを見通せない棚や商品の存在、店内を見て回る他の客が煩わしくて仕方ない。


 小走りをやめて、カノンはほとんど走るようにフロアを見て回る。


 一抹の期待と焦燥に焼かれながらしかし、その甲斐はなく彼は売り場の角までたどり着く。


(これでもう片側まで見ていなかったら二階?……もしそこにいなかったら?)


 カノンの脳裏に、自分を見上げながら控えめに笑い、しがみついてくるルノの姿がよぎる。


(ダメだ。そんなのは……間違っている!そんなことを考えるわけにはいかない!)


 火の息を整え、再び走り出そうとしたカノンは目の前が見えておらず、青年にぶつかりそうになる。


「すみません」


「おい」


 早口で謝るのもそこそこに、走って立ち去ろうとするカノンを、そのぼさぼさ頭の青年が呼び止める。


「あんた、随分急いでいるな。もしかして、人か?誰か探してるのか」


「そうです……このくらいの女の子ですけど、どこかで見かけていませんか?」


 カップ麺の箱を脇に抱えた青年に、ルノの背丈を身振りで示し、なおも早口でカノンはまくしたてる。


 無意識にカノンは足踏みをしていた。早くルノを探さねば。


「見てはいない」


 青年は考え事をするように軽く上を見上げる。


「そうですか、じゃあ。不注意は本当にすみません」


「直接はな。ただ……淀みの追随が緩やかに……遅くなった」


 この青年も天目がある。しかしそれが今、この事態に何か寄与するとはカノンには思えない。


 青年がドア付きの非常階段を指さす。


「ほんの今の今、非常階段を閉じる音がしたのを聞いた。今はかなり希薄になっているが、淀みの集まっている人もそこを通ったようだ。淀みの脈が残っている。もしかしたらの話だが」


 青年の抽象的な話を聞いて、形にならない推測が、カノンの頭の中にぼんやりとした像を結ぶ。


 非常階段のドアに向かって、確かにうすぼんやりとブロックノイズのような視界の乱れの脈が続いている。


「いや……でも、二階を見るより先にもしかしたらこちらか」


 ありがとうございます、と声だけを置いて、カノンは非常階段に向かって矢のように走る。


「貴様、知らない者と話すことが出来たのか……しかし、またそれはカップ麺か」


「九龍院」


 傘家の付き合いで世田谷まで来て、帰りがけに買い物の為にこの店に連れだって来ていた九龍院に声を掛けられてカラウスは振り向く。


「他に何を喰うのか自分で想像できん」


「貴様、真面目に病院かかった方がいいぞ。それはともかく……服を買いに来たんだろ、生活は全く散漫な奴だ、いつもぼろぼろの服着ているなよ」


「ぼろぼろなのかこれ」


 カラウスはそう言うと軽く自分の服の袖をつまみ、持ち上げで膝も軽く上げて自分の服装を見通す。


 九龍院の指摘の通り、たしかに彼の服はあちこちが寄れ、擦り切れているし、ブーツも傷だらけだ。パーカーのフードなどは雑巾のようになっている。


「あちこち擦り切れたり穴空いたりしてるだろうに。スーパーで買うより着潰すなら頑丈なミリタリーでも買うほうがいいかもしれん」


「服ってもしかして頑丈な方がいいのか?」


「赤ちゃんかよ貴様」





 非常階段は段差がきつく、足場も悪い。


 目を走らせて下を見る。大きな人影と小さな人影が一つずつ、確かにある。


 小さな人影を注意深く階段を降りさせるために、そのペースはゆっくりだ。


 その小さな人影は、確かにルノの鞄と思しきものを前に抱えているが、ルノが被っていなかったはずの帽子を被せられているのをカノンは認めた。


「すみません、ちょっと!」


 カノンが、飛ぶように階段を駆け下りる。


 大きな方の人影がびくりと肩を震わせて身構えてから振り返る。


 一階に至る踊り場で足をとめた女性の、さらに四段ほど上の足場でカノンは足を止める。


 踊り場が比較的広いため、下の駐車場からは何かあっても視認しづらい場所だ。


 見れば、上品なワンピース姿につば広の帽子で顔を隠してはいるが、二十代後半から三十代ほどの妙齢の女性のようだ。


 美人の類に入るのであろうがその眉はなにか不穏な気配を感じさせる吊り上がり方を見せていたし、目が潤んでいた。


「人を……探しているんです。あの、もしかして、その子……」


 走り通しで息の荒いカノンの言葉を女性が叫んでさえぎる。


「この子は違います!」


 帽子をかぶった小さな影が、カノンをみようと首を動かしかけたが女性はその小さな影を脚に抱き寄せるように引き寄せ、その視界を遮る。


「……本当にすみません。念のためなんです。少し、顔だけでも見せてくれませんか?」


「なんですか、あなた?……言いがかりをつけないでください、人を呼びますよ!」


 ……青年の推測は的中していた。十中八九そうだろう。この人が隠している少女は、おそらくルノだ。


 カノンは、心中で青年に感謝する。


 孤独な人。そうした人が目の前にいて、その寂しさが衝動的にこの人を迷わせ、ルノの手を取らせたのかもしれない……。


「……わかるでしょう。そんなの、もう、時間稼ぎにしかなりません……。今なら、まだなかったことに出来ます」


「何を……何を言ってるんですか?急ぎの用で私はこの子と一緒に行かなくてはいけません。あなたみたいなおかしな人に関わってる時間はないの!ね?そうなんだよね!?」


 女性は、まくしたてるように足元の少女を強く揺する。


 カノンは、この女性の爆発した悲しみと怒り、ルノの不安を思い、目を細くして涙を流しそうなのを堪えた。


「僕が、ルノちゃんを見間違えるはずはありません」


 カノンは女性が言葉を終えるのを待って、泣きそうな声で、しかしそれを静かに強く告げ、片膝をついて少女の目線に視線を合わせる。


「カノンくん?」


 少女は、首を少し持ち上げる。帽子の奥の目はルノのものだった。


「ぬいぐるみ、しまっちゃった?」


「うん……鞄の中にあるよ」


「そっか……一緒に帰ろうよ」


「うん……でも、あのね」


 ルノは、悲しそうに女性を見上げる。




 ──この人がどういう風にルノを言いくるめたのかは判らない。けれど、ルノもこの女性の面子を潰すのが、悲しませるのが怖いのだろう。人に遠慮をしがちな娘だ──


「大丈夫だよ、お姉さんは判ってくれるから」


 言いながらカノンは、自分のスマートフォンをポケットから取り出して背後に投げる。


 今ならなかったことに出来るし、目をつぶる。それを示すための精いっぱいの態度の表明だった。


 カノンよりも先に、追い詰められていた女性の目から涙が零れ落ちた。


 しかし、まだルノの服の肩口を掴む手に込めた力は緩められていない。


 優しいカノンとは別の、冷徹なカノンが、彼に片膝をしっかりとつけさせた。


 いざとなれば、女性にとびかかる構えを作るために。


「……できれば、夜警と掃備会社に身辺警戒の依頼をしてください……あなたは、徐々に淀みを呼びつつあります」


 自分は孤独である、そうした指摘を成されて、女性は声量をさらに上げてカノンを睨みつける。


「子供に、何が判るのよ!あたしは、あの人との子供が欲しかったのに!あの人は、逝ってしまって……それで、あたしは、一人なんだ……」


 カチカチという音が鳴るのをカノンの耳は捉える。


 背中をおぞけだたせたカノンの片膝がわずかに浮いた。


 女性が、大きく右へと身体の軸を振る。


 つまり、カノンから見て右側、彼女の左手の側だ。


「!」


 カノンの直感が、彼の身体を前に跳ねさせる。


 女性の左手には光るものがあった。


(カッターナイフ……!)


 カノンが手を前に差し伸べながら、女性に飛び掛かる。


 カッターナイフの軌道はそれよりも上、カノンの顔にその筋が走る。


 そのようにカノンの目には見えた、しかし。


 緑色の何か大きな塊が女性の頭に飛来して、ボン、という音と共に衝突する。


 音からして、そう重いものではないが予想していなかったことだ、女性の姿勢はそれでもわずかに崩れる。


 その為に、間一髪ナイフの軌道はカノンの詰襟の前腕部にずれていた。


 傷に構わず、カノンは女性とルノの間に割って入り、女性がカッターナイフを持った手を掴んで、強引にルノと引きはがす。


「ダメです……そんなの、ダメだ……!あなたがしたことを、世間に認識されてしまう!本当に戻れなくなるだろ!」


 カノンは、涙をあふれさせながら女性に喚く。


 非常階段の上のフロアから、長髪を後頭部で束ね上げたスーツの美丈夫が悠々と降りてくる。


「キャベツ」


 美丈夫は、女性に向かって放ったキャベツを取り上げて、スーパーの袋に放り込むと空いた手で女性の腰に手を回し、ぐと引き寄せる。


 女性は、簡単にカノンとルノから引き寄せられ抱き寄せられた。


「助勢がいるな、少年。私はさっきの男の知り合いだけど、心配だから様子を見に来たら……見た通りの展開とみていいのかな」


 降ってわいた助勢に、カノンは声もなくルノを抱き寄せてへたり込み、なんとか顎を上下させて、肯定の意を美丈夫に示す。


「そう、あいつはあとは人の勝手だろ、だとさ。信じられないやつだよ」


 彼は愚痴ってから呆れる溜息をつく。


「お姉さん、どういう事情かは判りませんが……筋がないことを人に押し付けるのは、貴方のように奇麗な方がすることではありません」


 もがく女性に滔々と言い聞かせる美丈夫に、やっと声を発せられたカノンが、かすれた声で礼を述べる。


「すみません……本当にありがとうございます。その人……妹を連れていきたかったみたいで……」


「……そう、警察には知らせた?君、スマホ投げたのは見えたけど、取ってくるかい?」


「いえ、まだ……」


 カノンの答えを読み違えて、美丈夫は女性を拘束する力を強める。細身だが、体幹はびくともしない。


 カノンはスマートフォンを取りにいかず、言葉を継ぐ。続きがあったのだ。


「まだ、ギリギリでなかったことに出来るところに間に合いました。その人……帰してあげてください」


 呆気にとられて、女性も、美丈夫もしばし無言で動きを止め、まさに呆然とする。


「……本気?……君も怪我したんだろう?」


「今ならこれだけで済みますから。僕の失敗の代償と考えたら安いものです」


「無かったことにしたら、同じことをしてしまう、とは思わない?」


 呆れて、声が高くなった美丈夫に、カノンは歩み寄って会釈する。


 そうして彼は負傷していない左手で自分の詰襟のポケットを探るとハンカチを取り出した。


「そのままの孤独に苛まれていたら、近いうちにその人は現象体を呼びます。

 ……おそらく、こうした行いが成功したとしても、その孤独は癒されるどころか加速してしまうでしょう。

 どうか思い直してくれれば幸いですが……そこは、あなたの強さを信じるしかありません」


「今日会ったばかりの子供に、あたしの何がわかるのよ……」


 もはや観念したのか、美丈夫の腕の中で女性はぐったりと項垂れていた。


 しゃくりながら、彼女は呻いて涙が足元に落ちた。


「僕は、この子と違って、養子です……それが判る、とまでは言えませんが。家族の中にあって僕は一人です。ずっと」


 ルノには聞こえないように、小声で女性に告げて、カノンは彼女の涙をハンカチで拭う。


「あなたは、どうかそれを探し出してください。克服する道を」


 祈るようなカノンの言葉に、もはや声にならず女性は目を瞑って悔恨を絞り出すように嗚咽する。


「お姉さん。私は掃備会社の者だけど……よかったら、世田谷の知己に手配をしようか。そのうえで聞ける話もあるでしょう」


 へたり込んだカノンにルノが無言でしがみつく。


 あははと自然に力ない笑い声が出た。


「少年、君はすごいな。その年で男として完成しているじゃないか。まるで騎士だ。良かったら、名前を教えてくれ」


 頽れた女性の背中をさすりながら、美丈夫……九龍院はカノンを助け起こすための手を差し伸べる。黄昏の夕日の逆光が眩しい。

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