ヨルノクローラース

二木一

第1話たったひとりのほんとうのほんとうの

「ラーメン一つ、お願いします」


 消えてしまいそうな声だ。


 ぼさぼさ頭の少年が屋台の椅子に腰かけると、ギィと椅子が鳴いた。


 少年は、背丈から行って中学生だろうか。真新しい詰襟制服にはまだツヤが残っている。


「こんな時間に子供がウロウロしているなよ。今日はもう帰ろうと思っていたんだけどなぁ、まぁいいや」


 屋台の店主は露骨に舌打ちをした。


 奇麗な白髪は銀髪の様にも見える。


 顔は、客席の方からよく見えない。


「こんな寂しい通りにわざわざ来て食うほどのものかねぇ」


 店主はテボに安っぽい中華麺を放り込みながっら悪態をつく。


「さみしいから良くて」


「あ?なんだい、思春期かい?家出か?悪ィーけど、思春期はよそでやってくれねえか」


 店主は雑に麺を鍋に放り込んで、スポーツ新聞を取り上げた。顔はまだ向こう側をむいたままだ。


 鍋は、客と店主の間に置いてある。


「……今は、人がいるところは、僕にはつらいんです」


 向こうを向いたままふぅんと興味なさそうに唸る店主の動きはいささか不自然ではある。


「麺茹でてる間、愚痴くらいなら聞いてやろうか」


「母が、ヨドミにさらわれたんです」


「……そいつぁ、まぁ。だが、ない話ってわけじゃねえよ。そういう事があってもがんばってるおじさんおばさん、世の中に山といるぜ」


「淀澱、ヨドミは、孤独な人の、永遠の孤独を望む祈りによって呼ばれるっていいますよね」


「……役所の統計を、そんなポエムみたいな表現で言い表す奴がいるとはね。詩人とか目指したらどうだい」


「僕は、母の孤独の原因だったんです。母子家庭だ。僕を産んでいなかったら、きっと違う人生もあった」


「カアちゃんに聞いてそうと答える質問じゃなかろうが、わかりゃしねえだろうがよ……」


 店主がスポーツ新聞をめくる。


 いくらか声のトーンが落ちている。


 がさりという音が物寂しい。


 しばし、沈黙が訪れる。


「母は、同じように孤独な人を求めてさまよう淀澱になってしまったんでしょうか……」


「お兄ちゃんがナイトウォッチかスイーパーになって、おカアちゃんが現象体になりゃ、一目会えるかもな。

 砂漠で米粒一つ見つけるみたいな確率だが」


 冷ややかな声で店主は返答しながらスポーツ新聞を凝視している。競馬の欄だ。


「仮にそうなっても──現象体になっても、掃却されるしかありません」


「それは、そう」


「ただ、母は孤独になるためのものを呼び、そうなった」


「……」


 またしても、重い沈黙が訪れる。


「その孤独の中で寂しいまま祓われるまで永遠に彷徨うなんて、悲しすぎる」


 少年の声は、すこし涙の湿り気を含んでいた。


「……ラーメン、出来たぜ」


 店主が丼を両手で少年に差し出す。


「ありがとうございます」


 泣き顔を隠す為か、少年は顔を伏せたままどんぶりを受け取り、飴色を超えて黒くなったカウンターに置いた。


「なにかい、こだわっているようだが、坊主は本気でナイトウォッチかスイーパーにでもなりたいって事かい」


「……今は、それしか考えられません」


「卵食え。サービス。それから」


 菜箸で器用に卵を掴むと、店主は少年のどんぶりに卵を置く。


「少しの間でいい。顔を起こして目を見せろ」


 店主の声色が変わった。


 どこか遠くから聞こえてくるような美しい響きがその声の底に流れている。


 そう少年は感じた。


 抗えぬものを感じて、慌てて涙を拭うと少年は言われた通り顔を起こす。


 店主は帽子の位置を治して少年の目をじっと見る。


 少年からは裸電球が逆光になって店主の顔が良く見えない。


 しかし、どこまでも見通すような眼光だけはなぜか、少年の目に突き刺さる。


 理由の分からない畏怖の感情のようなものが少年の胸の底に湧き上がってきた。


 気付けば、膝が震えている。無意識の事だった。


「……ダメだな。坊主の持ってる潜在的な天目地穢、両方人並以下だ。操れるようになっても本当になにもできん」


「そういうの、わかるんですか?」


「ノーコメント。早く食え。ラーメン伸びるし俺は早く帰りたい」


 店主の声からは、先ほどの神聖さのような色は消えていた。


 少年は、鼻をすすってラーメンをすする。


 まだ涙が止まらない。無言のまま少年はラーメンをすすり続ける。ありとあらゆる感情を飲み込んで。


「……こんなラーメンなんかじゃなくて、うまいものを食う。おねーちゃんとデートしてドキドキする。バイクや車、絵や楽器。他に何か気晴らしを見つけて、自分を騙して生きるしかねえよ」


 店主は皺だらけの紙袋から取り出した煙草に嚙みついて、ライターを点火する。フリントの火花が眩しい。ツンとくる副流煙は少年の涙で濡れた目に染みる。


「けれども」


 言葉を探すように少年は視線を左右にやって手を宙に泳がせる。


「見えないだけで孤独な人はいて、霧は彷徨い続けています。僕はきっと、それを忘れることが出来ると思いません」


 一気に言い終えると、少年はまた、ラーメンに取り掛かった。


「忘れろ」


 冷淡に、店主が言い放った。


「できません」


「忘れろ、他人の孤独だ。お前が踏み込むことではない」


 まるで機械の様に、答えを反射するように店主が即座に返事を返す。その声に感情の波は感じられない。どこか機械のようだった。


「……忘れません」


 話を聞いてくれた相手に対して、肩を張って強い抵抗の態度を出すのに気が引けたが、知らず少年の声は硬いものになり、肩には力が入って前のめりになる。


「忘れろ。さもなくば、必ずお前自身が孤独の霧中を最後まで彷徨うことになる。」


 店主の声に、再びあの美しい響きが宿っている。


 少年は恐れを抱いた。箸を止め、しばし躊躇う。


 しかし、少年は涙を拭い、目を見開いて決然と答える。


「……絶対に嫌です」


「……そうか。もしそう出来るなら……

 淀澱を祓う為だけの絶大な力があるとしよう。それを得る引き換えに、お前は他のあらゆる欲望を忘れ去り、一つの機能のような人間になるとしてもだ、それを欲するか?」


 畏怖の心を飲み干すように、少年は残ったラーメンのスープを飲み込んで、胸を張ってはっきりと答える。


「……出来ることであれば、望みます」


「わかった。……ならば天地と繋げよう」


 店主がカウンターとの境目に手をついて、少年の側に手を伸ばす。


 少年は金縛りにあったように、身体を動かすことも声を出すことも出来なくなっていた。


 手を伸ばした店主の、あるべき場所に顔はなかった。


 ただ虚ろな闇をたたえた穴が眼窩の場所に二つ開いているばかりだ。


 音もなく、店主の筋張った手が少年の胸に飲み込まれる。


「お前は、天地と繋がって、お前の天地は書き換えられる。

 それは生きながら終わりのない虚ろなる修羅道を漂うためにだ。

 約束を違えた時は必ずお前は虚ろに呑まれる事になる……これは祝福であり、呪詛だ」


 今や、店主の声は美しい楽器の調べのような、神聖さそのものだけを纏う、天上からの音になっていた。


 熱いものが胸から流れ込んでくる。次いで頭頂から、つま先から。


 これまで感じた事のない快楽の本流に言葉もなく少年は身を委ねる。


「起きろ、クソガキ」


 少年は、客席に回り込んできた店主に肩をゆすられて目を覚ます。


 航空障害灯がいくつにも分かれて見えた。少年は視界のピントを合わせる。


 屋台上方にかかった営業許可証に【在全 神吾ざいぜん しんご】とあるのが目に入る。


 店主の顔は、目つきはきついが、面長で人のよさそうな年寄りだった。


「食いながら寝るなよォ、オレ早く帰りたいって言ったろ。明日でけえ競馬のレースがあるからさ、早く寝たいの」


(全部、夢……?)


 身体を起こして瞬きすると、乾いた涙の痕が裂けて剥がれ落ちる。


 少年は安心したような気持の中に少しの落胆を覚え、肩を落として、学生服のポケットをまさぐり、財布を掴む。


「あ?」


 店主が、意外そうな声を上げる。


「お兄ちゃんはさっき料金払ったぜ。覚えてないのかい?」


「えっ……うーん……」


 そんなことはないと思う、としどろもどろになっているうちに店主はさぁさぁいったいったと言いながらそそくさと少年を客席から追いやる。


 少年は立ち上がって追いやられるまま、路上を歩きだした。


 愚痴を吐き出したからなのか、気持ちが少し軽い。


 タバコの残り香が漂っている。


 少年は、その残り香が嫌いではないことに気づく。


「兄ちゃん」


 片付けをしながら少年を呼ばわった店主を少年は振り返る。


「大変だと思うけど、頑張れよ」


「……あ、はい。ありがとうございます」


 店主が機材を片付けながら手を振る。


 少年も、手を大きく振り返した。


 少年は今度こそ帰り道を歩き出す。


 その背中を見送りながら、店主は呟いた。


「約束を違えるでないぞ。唐臼十兵衛……」



 これが、物語の始まりだった。

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