第7話 入院生活
一月一日。一年の始まりだ。とは言っても元旦から目覚めたのは病院のベッドと言う体たらくにテンションが上がるわけが無い。それにそもそもこの部屋にはテレビが無いし、スマホもバッテリーが切れると困るから見てばかりもいられないので正月気分など味わえることなど出来やしない。
などと思いながらベッドでゴロゴロしていると、病室にS先生が入ってきた。ちなみにまだ午前九時を少し過ぎたところだ。
S先生が【すて】の右目に貼られたアイパッチとガーゼを外し、【すて】は恐る恐る目を開けた。するとぼやけてはいるが、手術前よりはほんの少しだけ見えるようになっていた。
人間の目は光を角膜で70%、水晶体で30%屈折させているらしい。そして今の【すて】の右目には水晶体が無いので30%分光の屈折が足りず、ピントが合わないというわけだ。
S先生は【すて】の右目の奥をライトで照らして診察した。そして大きく頷いて言った。
「うん、大丈夫です。しばらく安静にして、目の状態が落ち着くのを待ちましょうか」
今は手術直後で眼球が傷付いているので、その傷が癒えないと眼内レンズを縫い付ける手術が出来無いらしい。と言う事は【すて】は目の傷が癒えるまでただ単に病院でゴロゴロ……いや、安静にしていなければならないという事だ。数年前に胆嚢炎で五日程入院した時も退屈だったが、今回は五日間どころか二週間は入院しなければならない様な口ぶりのS先生に【すて】は暗い顔を隠しきれていなかったことだろう。
朝の診察が終わり、【すて】は大人しくベッドの上でゴロゴロしていた。スマホで動画を見たり、アプリでゲームでもして暇を潰したいところだが、入院するなんて思いもしていなかったのでスマホの充電器を持ってきていないので、バッテリーが切れて妻Mと連絡が取れなくなったら困るからスマホの使用は最小限に抑えなければならないのだ。
楽しい時間は流れるのが早いが、退屈な時間は経つのが遅い。【すて】がベッドで一人、退屈と戦っているうちにようやくお昼になり、昼食が運ばれてきた。そして、昼食を運んでくれた看護師さんが笑顔で言った。
「今日は特別のお正月料理ですよ」
運ばれた昼食を見ると、煮しめや黒豆、海老に赤飯、そして雑煮と小ぶりながら尾頭付きの鯛の塩焼きが一匹! なかなかに豪華な昼食だった。【すて】がスマホで写真を撮り、妻Mに画像を送り……そして食べ終わって少し経った頃、返信が来た。
「荷物持って来てます」
どうやら昨日頼んでいた入院中に必要であろう物を持ってきてくれたらしい。コロナウィルスが心配だから病棟の入口まで取りに行くと返事を送った。しかし部屋で待っているように返信があり、数分後にはナースステーションに着いたと連絡があったので【すて】は妻Mに会う為に病室を出た。
ナースステーションの前で顔を合わせた【すて】と妻Mだが、コロナ禍というご時世なのでゆっくり話をするわけにはいかない。妻Mは持って来た荷物を説明し、【すて】に渡すと帰ってしまった。
それから正月三が日は何という事も無く、ただ時間だけがゆっくりと過ぎて行った。
ちなみに入院中の【すて】の一日のルーチンはこうだ。
午前六時に点灯(一方的に電気が点けられる)。起きたらすぐ目薬三種を点眼、朝ごはんが配られたら食べる
↓
午前九時ぐらいに看護師さんによる検温と血圧の測定
↓
S先生による朝の診察(無い日もある)
↓
お昼ごはんが配られたら食べる。そして目薬二種を点眼する。
↓
晩ご飯が配られたら食べる。そして目薬三種を点眼する。
↓
S先生による夕方の検診(無い日もある)
↓
午後十時に消灯(強制的に電気を消される)
以上。なんという怠惰な生活……いやいや別に怠惰なわけでは無い。安静にしていなければならないだけだ。それに十時に消灯言われても、そんな時間から眠れやしない。【すて】は部屋に自分しかいないのを良いことに眠くなるまでスマホを見ていたのだった……って、やっぱり怠惰じゃねーか。
そんな感じで時は過ぎ、一月四日。正月三が日が終わったからだろうか、病棟が急にバタバタし出し、【すて】が占領している病室にも一人のお爺さんが入院患者として入ってきた。しかも【すて】の隣のベッドにだ。
――この病室にはベッドが三つある。そして【すて】のベッドは入口から見て右端だ。左端のベッドにしてくれたら一つ空くのに、何故真ん中のベッドに…… ――
なんて思ったが、そんな事を看護師さんに言えるわけが無い。おまけにこのお爺さんは様々な行動に介助が必要みたいで何かと言えばナースコールで看護師さんを呼び付けて羨ましい……違う、慌ただしいやら五月蝿いやら。個室に移りたいと思った【すて】がスマホで大学病院のホームページを見て調べたところ、【すて】が入院している病棟のフロアにある個室は八部屋で、そのうち五部屋は金額が高い部屋で安い個室はわずか三部屋。これは悩んでる場合では無い!
【すて】は大急ぎで看護師さんに「個室(もちろん安い方だ)に移りたい」と申し出た。一日数千円の出費は痛いが、入院生活はまだまだこれから。お金は生命保険でなんとかなる筈(数年前に胆嚢炎で入院した時もなんとかなった)だ。これぐらいの贅沢は許されるに違い無い。
そして無事、安い方の個室に移った【すて】だが、その部屋は安いだけあってトイレも風呂も付いていなかった。「風呂はともかくトイレは欲しかったな」と思う【すて】だったが、次の日廊下を歩いて前に入っていた部屋の前を通った時、ベッドが三つとも埋まっているのを見て早く手を打って良かったと思ったのだった。
*
それから数日の間、【すて】は無為な時間を過ごした。そして、十日戎も『残り福』となった日の夕方のこと。
【すて】がベッドでボーっとスマホを見ていると、部屋に備え付けられたスピーカーからS先生の声が流れた。
「【すて】さん、今から診察、大丈夫ですか?」
この日は午後の診察があると聞いていたので待っていたのだが、まさかこんな時間になるとは…… 普通、『午後からの診察』と言われれば遅くても夕方、午後四時ぐらいまでと思うのだが、どうだろう? って、別にS先生を責めているわけでは無い。むしろ【すて】としてはS先生には頭が下がるばかりだ。と言うのも、十二月三十一日、大晦日の午後九時ぐらいまで手術をしてくれてからこの日までほぼ毎日診察をしてくれていた。正月三が日も成人の日を含む三連休の日もだ。それも日によっては朝(8時~9時ぐらい)と夕方(午後三時とか午後五時)とか夜(午後九時ぐらい)の一日二回だ。
心配になった【すて】が「全然休んでないんじゃないですか?」と聞いたらS先生は笑いながら「一旦家に帰ったりしてますから」と答えた。何でも朝に病院に出勤して午前の診療が終わったら一回家に帰って休み、そして夜にまた病院に来たりすることもあるとか。そう言えば夜の診察の時、手術の時に着る緑の服を着ていて、翌朝の診察の時も同じ服装だったこともあった。きっと泊まりの当番だったんだろう。医者や看護師は早番とか遅番とか泊まりとか勤務時間が不規則だと知ってはいたが、実際に目の当たりにすると大変な職業だなと【すて】はしみじみと思った。
それはさて置きS先生は【すて】の右目を診察した後、決断を下して【すて】に言った。
「明日の夕方、手術しましょうか」
それは【すて】が待ち望んだ言葉だった。十二月三十一日に緊急手術を行い、入院し、手術で傷んだ右目の回復を待つこと約二週間、ようやく眼内レンズを入れ、右目の手術が全て終わる時が来たのだ。
長かった……そう思ったと同時に【すて】は思った。
――明日手術するってことは、手術後二~三日で退院するとして、退院は十五日の日曜日ぐらいかな? ――
だが、そんな【すて】の甘い展望はS先生の言葉によってあっさり打ち砕かれた。
「退院は水曜日ぐらいかな」
単に水晶体を除去し、人工の眼内レンズを入れるだけなら日帰りでも可能な手術だ。だがしかし、今回の【すて】の右目は水晶体脱臼を起こし、硝子体手術を行った為に眼内レンズを眼球に縫い付けなければならない。だから手術後の経過観察を長めに見ておかなければならないし、もし何かあった時にすぐ対応出来る様に入院しておいた方が良いのだと説明され、【すて】は「はい」と答えるしか無かった。退院の目処が立ったのは嬉しいが、退院が水曜日という事は……
「あと、まるまる一週間か……」
心の中で呟く【すて】だった。
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