第6話 初めての手術

 今回【すて】が受ける手術は『超音波乳化吸引術』水晶体を超音波で細かく砕き、除去するというものだ。ややこしい話だが、緑内障は白内障を治療する手術を行うことによって治る場合が多いと言う。これは白内障が原因で緑内障を起こした場合の話で、実際このパターンは多いらしい。そしてこの白内障の手術は現在では日帰りで出来る程度のポピュラーな手術となっている。

 だがしかし、今回の【すて】の場合はそう簡単にはいかない。前述の通り【すて】の右目は水晶体脱臼が原因で急性緑内障発作を起こしたのだ。水晶体を除去した後に人工の眼内レンズを入れる際、通常の手術だと水晶体が入っていた『水晶体嚢』に眼内レンズを入れるだけなのだが、【すて】の場合は眼内レンズを眼球に縫い付けて固定しなければならないのだ。

 そしてレンズを縫い付けるには傷んだ眼球が回復するのを待たなければならない。要は手術自体はそう難しくはないが、二回にわけて手術をしなければならないという事だ。


 そんな話をしているうちに前の人の手術が終わり、手術を受けていたのであろうお婆ちゃんが車椅子を押されて出て来た。その表情には痛そうだったり辛そうだったりという感じが全くしないので、それを見た【すて】の心は少し軽くなった。

 そして後片付けと次の手術(もちろん【すて】の手術だ)の準備が整った手術室に【すて】が乗った車椅子は看護師さんに押されて入って行った。


 手術室に入った【すて】はまず車椅子から手術台(って言うのか?)に移り、横たわった。ここまで来ればもう『まな板の鯉』だ。今更ジタバタしても仕方がない。まあ、失明するのは嫌だからジタバタするつもりなど毛頭ないのだが。そして執刀を行うS先生が手術するのが右目であることの最終確認をし、目が閉じない様に固定するフィルムみたいなのを右目の周辺にべったりと貼られ、全身にはシーツをかけられ……手術は始まった。


 まずは右目に何やら液体を流し込まれた。これは目を洗浄しているのか麻酔なのかはわからないが、ともかくこの液体のおかげで目が乾燥することはなくなり、瞬きをしなくても大丈夫なんだろう。この時、何をされているのかがはっきり見えていたら怖かったかもしれない。だが【すて】の右目に映るのは白くぼやけた世界のみ。だから【すて】は自分が何をされているのか全然わからない。ただ、目に何やら液体がとめどなく流し込まれていると感じるだけだった。

 目に液体が流し込まれる感覚があるってことは、まだ麻酔が効いていないってことじゃないか? なんて【すて】が思っていると、銀色の細い棒状の物がぼんやりと視界に入ってきた。手術前の説明で「超音波で水晶体を細かく砕いて除去する」と聞いていたので「これの先っぽから超音波が出るんかなー?」などと思っていた【すて】の視界が突如ブラックアウトした。

 パチスロの画面だったら神降臨、至福の瞬間だが残念ながら今は手術中だ。この時【すて】は思った。「水晶体がなくなったから何も見えなくなったんかなー?」と。


【すて】の視界が真っ黒になっても手術は続く。何も見えないが、何やら目の中をごちょごちょされ、吸われる様な感じがするが痛くは無い。それだけが幸いだった。

 それからどれぐらい時間が経っただろう、水晶体の除去が終ったらしくS先生が言った。


「じゃあ、硝子体の様子を確認しますね」


『硝子体』とはわかりやすく言えば眼球の中身だ。透明なゼリー状で、眼球の形を保つ役目と光を屈折させる役割を持っている。そして次の瞬間、S先生の口から「あらっ」と短い声が漏れた。


「硝子体の状態が思ったより良くないので処置しますね。手術時間は三十分から四十分ぐらい長くなります」


 S先生が言った。どうやら【すて】の右目の具合はかなり悪かった様だ。ちなみにS先生が言った『処置する』とは『硝子体手術』を行うということで、『硝子体手術』とは硝子体を除去する手術で、ガムをチィッシュペーパーからはがすようなイメージの繊細で難しい手術だそうだ……なんて事は後になって知った事だ。ともかく硝子体手術が追加され、手術は延長されることになったのだが、手術が延長されるとなると【すて】の身体に影響が出てる恐れがある。


――疲れが出る? ――


 いや、手術を行う先生は疲れるだろうが【すて】は寝っ転がっているだけ(拳は思いっきり握り締めていたけど)だから、そんなには疲れることは無い。では時間の経過が【すて】の身体に及ぼす影響とは? 


 その恐れはすぐに現実となり、【すて】はか細い声を上げた。


「せ……先生、ちょっとチクチクしてきました……」


 何の事はない、単に時間が経つにつれて麻酔が切れてきただけだ。だが、これは【すて】にとっては深刻な問題だ。そして、チクチクしてきたのと同時にブラックアウトしていた視界が明るくなってきた。手術中に【すて】の視界がブラックアウトしたのは水晶体が除去されたからでは無く、単に麻酔が効いたからだったのだ。


「じゃあ、ちょっと麻酔追加しますね」


【すて】の情けない訴えにS先生が麻酔薬を追加した。おかげでチクチクした感じは少し弱まったのだが、視界は白いままでブラックアウトはしない。恐らく追加の麻酔は手術開始の時よりも弱くしたり減らしたりしたのだろう。


 そんな感じで硝子体手術も滞り無く進み、約二時間にも及ぶ【すて】の手術は無事に終了した。


 手術が終わり、右目を保護するガーゼと大きくて立体的なアイパッチみたいなのをテープで貼り付けられた【すて】は車椅子を看護師さんに押してもらって病室へと戻った。


 時刻は午後九時を回っており、スマホで妻Mに手術が終ったことを報告し、入院中に必要な物を持ってきてくれる様にお願いし……一人寂しく新年を迎えた。



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