第5話 大学病院

 C診療所から高速道路を使って数十分、大学病院に到着したのは午後三時過ぎだった。この大学病院は高度医療を提供する「特定機能病院」として厚生労働省から認定されていて、受診するには他の医療機関からの「紹介状(診療情報提供書)」が必要だ。それに加えて今日は大晦日、更にはコロナのクラスターが発生したからだろう、駐車場はガラガラだった。

 車で移動中にまた頭痛がひどくなった【すて】は、妻Mに支えられるように駐車場から時間外入口へと歩いた。そしてなんとか受付にたどり着いた【すて】と妻Mだったが、【すて】はあまりの頭の痛さに待ち合いの長椅子にぶっ倒れてしまった。使い物にならない【すて】の代わり(【すて】が使い物にならないのは今に始まった事では無いが)に妻Mが受け付けを済ませた。


 幸い大学病院でもあまり待たされることは無く、C診療所からの紹介状があったおかげなのか、眼科の診察前には必ずと言って良いほど受けさせられていた視力検査を受けること無くすぐに医師による診察が始まった。

 診察とは言ったが、C診療所からの紹介状に病状は書いてあるのだから、医師が実際に【すて】の右目の状態を確認するのだろう……なんて考える余裕などその時はある筈も無く、言われるままに目の奥を見る為の機械に顎を乗せようとした【すて】だったが、頭のあまりの痛さに椅子に座ったまま項垂れて動けなくなってしまった。


「……すみません、ちょっと待って下さい……」


 か細い声で頭を押さえながら言った【すて】に医師は驚くべき事実を伝えた。


「ゆっくりするのは構いませんけど、頭を下げてると余計に痛くなりますよ」


 今回の【すて】の様に水晶体脱臼で瞳孔が塞がれ、眼圧が上がった事が原因で頭痛が起こった場合、項垂れたり俯いたりしていると余計に眼圧が上がって頭痛は更にひどくなるそうだ。

 辛くても仰向けに寝て、安静にしていた方が良いらしい。【すて】は気力を振り絞って上体を起こし、目の奥を見る機械に顎を乗せた。


 診察の結果【すて】はやはり水晶体脱臼による急性緑内障発作が確認され、早急に手術をしなければ失明は免れないと診断された。だがしかし、『早急に手術を』と言っても今すぐに手術が出来るわけでは無い。順番を待たなければならないのだ。まあ、言い換えれば『順番を抜かして大至急手術を行わなければならない』という状況では無かったのだろう。


 手術を行うのは午後六時ぐらいになるというので、点滴を打ちながら手術の開始を待つことになった【すて】は病室へ移動した……もちろん車椅子に乗って、看護師さんに押してもらって。


【すて】が看護師さんに連れて来られた病室は三人用の大部屋だったが、幸いなことに先客(って言うか、他の患者)は居なかった。おかげで【すて】は個室に居るかの様に過ごすことが出来た……頭はまだ強烈に痛かったが。


 病室に入った【すて】は、まず病院の用意したパジャマ(病衣って言うらしい)に着替え、ベッドに横になり、点滴を受けた。そして妻Mに病室の番号をスマホで連絡した。すると少し経ってから妻Mが病室にやって来た。聞けば妻Mは手術や入院の手続きをし、手術の後に必要となる目の周りを洗浄するコットンやマスク、割り箸や水を買ったりと大忙しだったそうで【すて】は頭を下げるばかりだった。

 そして、それらの荷物を受け取ると【すて】は妻Mを家に帰した。別に生命に関わる病気では無い(失明するかもしれないが)し、何よりもコロナウィルスが心配だったのだ。


 妻Mが家に帰り、【すて】がベッドに横になってぼーっとしているうちに時は経ち、時刻は午後六時を回った。点滴に入っていた痛み止めのおかげで頭痛はかなり治まったが、手術を始めるという連絡は未だ無く、晩ご飯の時間となった。この日は大晦日ということで年越し蕎麦が付いていたのだが、病室で一人食べる年越し蕎麦はなんとも侘しいと言うか、物悲しいものだった。

 そして更に時間は流れ、午後七時過ぎぐらいだったと思う。看護師さんが入ってきて、【すて】に告げた。


「【すて】さん、手術室に移動しましょうか」


 いよいよ手術の時がやって来たのだ。【すて】が震える声で「はい」と言葉短く返事をすると看護師さんは車椅子を【すて】のベッドの脇に着けた。


「大丈夫ですか? 一人で起きられますか?」


「あ、大丈夫っす」


 看護師さんの言葉に答えた【すて】はベッドから身体を起こし、車椅子に座った。すると看護師さんは点滴のパックを車椅子の点滴スタンド(って言うのか?)に移し、車椅子を押して【すて】を手術室へと連れて行った。


 自分で言うのも何だが【すて】は身体は丈夫な方だと思う。バイクで吹っ飛んでも骨折どころか骨にヒビすら入った事は無い(その代わり靭帯は手首も膝も痛めたが)し、大きな病気と言えば数年前に急性胆嚢炎で五日ほど入院したぐらいだ。丈夫な身体に産んでくれた母親と守ってくれているご先祖様には本当に感謝している。

 だから【すて】は手術を受けるなんて初めてだ。病室から手術室へ車椅子で向かっている時も足の震えは止まらない。だが、手術を受けないと右目は失明してしまう。逃げ出したい気持ちと必死で戦う【すて】を乗せた車椅子は手術室の前に着いたのだが、手術室ではまだ手術が続いていた。車椅子に座って待っている間、【すて】は不安を紛らわせるため、看護師さんに話しかけた。


「手術って、痛いんですかねー?」


「麻酔をしますから大丈夫ですよ」


 看護師さんから返って来た答えは予想通りのものだった。そりゃそうだわな、これから手術を受ける患者に「めっちゃ痛いですよ。覚悟してくださいね」とは言えないだろうから。


「麻酔って、全身ですか? 部分ですか?」


「局所ですよ。目薬と注射で」


 しつこく質問を続ける【すて】に看護師さんは嫌な顔一つせずに答えてくれた。もちろんこれもわかりきっていた答えではあるのだが。それにしても『部分麻酔』じゃ無く『局所麻酔』って言うんだな……なんてのは今だから言えること。当時の【すて】は看護師さんの口から出た『注射』という言葉にゾッとした。

 歯医者で麻酔をする時は、歯茎に塗るタイプの痛み止めを塗ってから注射で麻酔薬を注入する。これは何度も経験しているが、注射針が歯の根っこらへんに食い込む感触や麻酔薬が注入される痛い様な重い様な感覚が伝わって辛いものだ。それと同じ様なことを目玉にしようってのか!? 目玉に針を刺すなんて、昭和の猟奇ビデオかよ! などと思ったのだが、冷静に考えると【すて】はこれから目の手術を受けるのだ。つまり、針を刺すどころの話では無い。そこで【すて】は実に情けないことを言ってしまった。


「今、点滴打ってますよね、これに薬入れて全身麻酔に出来ません?」


【すて】は手術を受けるのは初めてだが、全身麻酔は内視鏡検査と胃カメラで二回経験している。点滴に麻酔薬が入れられるとあっという間に意識がなくなり、気が付いた時には検査が終わっているという素晴らしいものだった。ちなみに【すて】には一度だけ喉の麻酔のみで胃カメラを飲んでえらい目に遭ったというイヤな記憶もある。

 事もあろうに全身麻酔を希望した【すて】に看護師さんは優しい声で厳しい現実を告げた。


「でも、全身麻酔だと後が大変ですよ」


 看護師さんによると手術の全身麻酔は内視鏡検査での全身麻酔とはワケが違うらしい。そして根本的に今回【すて】が受ける手術は局所麻酔で十分(だからこそ全身麻酔は行わない)だから心配しない様にと言われ、【すて】はビビリながらもそれ以上は麻酔について何も言えなかった。



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