第4話 大晦日の超急展開

 十二月三十一日。一年を締めくくる日、俗に言う大晦日だ。だが、この日も【すて】の右目はほとんど見えなくて視界はほぼ真っ白、そして頭が痛かった。特に右目の奥や額の右側に締め付けられる様な強烈な痛みが続き、【すて】は朝から苦しんでいた。それを見兼ねた妻Mがスマホで検索し、N区にあるC診療所なる眼科と耳鼻咽喉科の救急外来を受け付けている診療所を見付けた。

 実は【すて】はA脳神経外科で「緑内障が考えられる」と言われたと共に「耳のあたりに水が溜まっているのが何か関係しているかもしれない」とも言われていて、妻Mはここなら両方共診てもらえると考えたのだ。

【すて】はダラダラした人間だが、妻Mはやると決めたら行動が早い。グズグズ言う【すて】を着替えさせ、車に乗せるとC診療所に走った。


 C診療所に着いたのは昼の十二時半ぐらい。大晦日の救急外来とあって駐車待ちの車の列が出来ていて、ガードマンも配備されていた。幸い【すて】は一人で歩くことは出来る状態だったので一人で車を降りて受付に行き、妻Mはガードマンに教えてもらった側近のコインパーキングに車を止めに行った。


 駐車待ちの車の列が出来るほど来院者が多かったが、そのほとんどは発熱等の内科的な患者らしく、眼科の待ち合いは比較的空いていたのは幸いだった。

【すて】が壁際の長いすに座り込んで頭を垂れていると車をコインパーキングに止めた妻Mが姿を現し、それから少しして【すて】の名前が呼ばれた。


 名前を呼ばれた【すて】はまず視力検査のコーナーへと案内されたのだが、眼科というのは診察前に視力を測らなければならないという決まりでもあるのだろうか? 今日の【すて】はメガネやコンタクトレンズを作る為に来たのでは無い。右目がほとんど見えない上に頭が尋常無く痛いから来たのだ。

 などと思いながらも【すて】はそんな疑問と言うか不満を口にも顔にも出さずに賢く視力検査を受けた。その結果、左目はメガネをかければ1.2は見えるのだが、問題の右目はと言えば視力検査の時によく使われる切れ目が入った輪っか(ランドルト環って言うらしい)の一番大きなサイズのヤツをプリントした紙を1メートルの距離で見せられても輪っかの切れ目どころか輪っかの輪郭すらぼやけてよく見えなかった。


 そしていよいよ診察が始まった……かと思うと呆気なく終った。診察台(って言うのか?)に顎を乗せた【すて】の右目に強烈な光を当てて【すて】の右目の中を見るや否や眼科の先生は恐ろしい現実を【すて】に突き付けたのだ。


「緑内障発作を起こしてます。このままだともうちょっとで失明します」


 失明!? 穏やかでない言葉に【すて】の頭痛は一瞬にして吹き飛んだ……わけが無い。肉体的痛みと精神的ショックに打ちのめされた【すて】に眼科の先生は言った。


「これから発作を解除する為の点滴をします。もし、これで発作が解除出来なかったら即手術です」


 それから【すて】はベッドに横になり点滴を受けたのだが、頭痛も右目も良くなる感じは全くかった。そして点滴は終了し、【すて】の右目を見て眼科の先生ははっきりと言った。


「残念ですが発作は解除出来ませんでした。すぐ手術しないと失明します」


 手術は怖いが、失明すると言われたらどうのこうの言ってられない。手術しようと腹を決めた【すて】だったが、眼科の先生は困った顔で一つの問題を口にした。


「ただ……この手術が出来る病院が某大学医学部附属病院(以下、大学病院と表記します)だけなんですよ。それで、その病院にコロナのクラスターが発生して……コロナのリスクと失明、どっちを取りますか?」


 正直【すて】はちょっと悩んだ。自分がコロナのリスクに身を晒すのは仕方がない。だが、妻Mまで巻き込むのは…… だが、妻Mは悩む素振りも見せず即答した。


「はい、手術します」


 いや、手術する(正確には手術を受ける)のは俺なんやけど…… なんてボケる余裕などある筈も無く、【すて】は大学病院で手術を受けることが決まった。


 眼科の先生は大学病院へ紹介状を書き、看護士さんに【すて】の受け入れの連絡をする様に指示した後、【すて】と妻Mに【すて】の右目がどうなっているかを詳しく話してくれた。

 まず根本的な右目の調子が悪い原因、それは『水晶体脱臼』という聞いたことの無い症例だった。


 脱臼と聞くと、整形外科や接骨院が出番となる関節が抜けたり外れたりする症状を思い浮かべるだろう。だが目には関節なんか無い。ではどういう事かと言うと、水晶体とは瞳の奥にあるレンズの役割をする器官で、チン小帯と言う糸状の組織で固定されている。のチン小帯が切れて水晶体が本来あるべき位置からズレてしまうことを水晶体脱臼と呼ぶのだそうだ。

 水晶体脱臼にも軽度なものからから重度なものがあり、重度になるとズレてしまった水晶体が瞳孔を塞ぎ、眼圧が上がって緑内障を引き起こし、早く治療しないと失明に至るということだ。


 そして今回【すて】が水晶体脱臼を起こしてしまった原因について眼科の先生が質問した。


「【すて】さん、最近頭をぶつけたりしましたか?」


【すて】は首を横に振って答えた。


「いえ、昔は顔蹴られたり、パンチもらったりしましたけど、ここ数年は……」


 実は【すて】は某フルコン空手の有段者だったりする。昔はそれなりに組手も出来たのだが、数年前に脊柱管狭窄症を発症し、手足の痺れが取れなくなってしまってからは基本や移動稽古・そして型の稽古ばかりしていて対人の稽古は軽い受け返しやライトスパーリングしかやっていなかったのだ。それにそもそも【すて】レベルの空手が原因で目が大変なことになってしまうのなら、全日本クラスの選手は全員失明していることだろう。

 その旨を伝えると、眼科の先生は首を捻った。外的衝撃が原因で無いとすると、何故【すて】の右目が水晶体脱臼を起こしたのか疑問に思ったのだ。だが、眼科の先生はすぐにまた【すて】に尋ねた。


「もしかして【すて】さん、アトピー持ってます?」


 この質問に【すて】が首を縦に振って答えた。


「はい。今はだいぶマシになってますけど、夏は顔とか首とか結構大変なことに」


 それを聞いた眼科の先生は大きく頷いて言った。


「納得しました」


 アトピー持ちの人はついつい痒いところを掻いたり、顔を擦ったりしてしまう。起きている時なら理性が働いて少しは我慢する(そうでも無いぞ)のだが、眠っている時は翌朝気がつけば布団や枕が血塗れになってしまっているほど掻きむしったり、手や袖で顔をガシガシと思いっきり擦ったりしてしまう。この『顔を擦る』時に目も擦ってしまうのだ。

 目を擦るぐらいが何だと言うんだと思うだろう。事実、【すて】もそう思っていた。しかし眼科の先生によると目をゴシゴシ擦るのは頭をぶつけたり顔を殴られたりするのより遥かに目に負担がかかるそうだ。

 実際、【すて】は妻Mに「しょっちゅう寝ている時に顔を擦っている」と言われていたし、目を擦るクセがあったと言うか、目を擦る習慣があったと言うか、目を擦るのが好きだった。顔を洗った後もタオルで顔を拭く時や喫茶店でおしぼりを出されたら目を思いっきりゴシゴシ(もちろん目を瞑って瞼の上からだが)していた……だって、気持ち良いんだもの。だが、それらの積み重ねが【すて】の目を蝕んでいたのだ。

 よく「目を擦ったら目に悪い」と言われるが、それは目を擦ることによって眼球に傷が入るなんて単純な事では無い。『目を擦る』という行為は『目を構造的に破壊する』恐ろしい行動だったのだ。

 そして更にアトピー持ちの人は体質的にチン小帯が弱いケースが多いらしい。この二つの要因が合わさって【すて】の右目のチン小帯は切れ、水晶体脱臼を起こしたのだ。


 これで【すて】の右目の不調と頭痛の原因がわかった。だが、こうしている間にも【すて】の右目は失明へのカウントダウンは続いている。一刻も早く手術を受けなければ! と言うことで眼科の先生が救急車を手配してくれたのだが、コロナ禍の大晦日ということで救急車がC診療所に着くまで三十分以上かかるらしく、運転出来るのなら自分の車で行った方が早いと言われたので【すて】は会計を済ませ、紹介状を受け取り、妻Mの運転で大学病院へと向かった。


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