第3話 脳出血?

 声も出せずに蹲っている【すて】を見た妻Mは「今ならまだお医者さんに診てもらえる時間だ」と【すて】を車に乗せ、かかりつけ医のJ内科へと走った。

 J内科に着いた【すて】は一旦妻Mを先に家に帰し、一人で症状を説明した。するとJ先生は難しい顔となって言った。


「脳神経外科で診てもらった方が良いですね」


 J先生によると脳出血やくも膜下出血が起こると強烈な頭痛がすると共に視神経が圧迫されて視覚障害を起こす場合があるらしい。それってまさに【すて】が苦しんでいる症状ではないか! しかも二年程前に【すて】の実父が脳出血で倒れ、現在はリハビリに勤しんでいる。

 J先生に紹介状を書いてもらったA脳神経外科病院に【すて】が自宅までの帰り道を歩きながら電話したところ、その日は午後一時半から午後の診察の受付をしているとのことだった。ちなみにA脳神経外科病院は【すて】の自宅から車だと三十分もかからない場所だ。【すて】は妻Mにも電話し、A脳神経外科病院に車で連れて行ってくれる様に頼んだ。


 J内科から【すて】の自宅までは普段なら歩いて十分もかからない。だがしかし、今の【すて】は強烈な頭痛に加え、右目がほとんど見えない状態だ。とは言うものの、電話したり歩いて帰れるぐらいだから頭痛は少しマシになっていた。そう、右目が少しは見える様になったりほとんど見えなくなったりと安定しないのと同じく頭痛も動けなくなるほど痛くなったり少し治まったりと波があるのだ。まあ、悪くなる一方よりはマシなのだろうけれども。


 なんとか歩いて自宅までたどり着いた【すて】はお昼ごはん代わりに数日前に買った伊勢二見名物の『御福餅』を四つ食べた後、妻Mに車でA脳神経外科病院へ連れて行ってもらったのだった。


 車でA脳神経外科病院に向かう道中【すて】の頭痛はかなり治まっていて、右目も少し見える様になっていた。だが、受付を済ませ、待ち合いで座っているうちにまた【すて】の頭痛はひどくなり、右目も見えなくなってしまった。そしてどれくらい待っただろうか、ようやく名前を呼ばれた【すて】は点滴を打たれ、頭部のMRIとCTの検査を受けることになった。


 点滴に入っていた痛み止めのおかげで【すて】の頭の痛みは幾分マシになってはいたが、右目は未だほとんど見えていなかった。MRIの検査を受ける時はベッドに寝た状態で強い磁場が発生しているトンネルに入れられる。このトンネルは低く閉所恐怖症の人は途中で検査を中段する事もあるそうだ。

 そして【すて】はこのトンネルの天井にセンターの目印と思われる×印があるのを発見したのだが、その×印が左目でははっきり見えるのに、右目では全く見えないのだ。【すて】の体感だと顔と天井までの距離は十五センチぐらい。こんな近距離でも見えないとは、この時【すて】の右目の状態はよっぽど悪かったのだろう。


 MRIとCT両方の検査が終わり、待つこと数分、検査結果が出た。結論から言ってしまうと脳や脳の血管は異常無しだった。

 これは喜ぶべきことなのだが、同時に【すて】の身体に起こった異常の原因が解明されなかったということでもある。ホッとしたやら困ったやらで複雑な気分の【すて】に脳神経外科の先生は言った。


「脳に異常は見られませんので、私でははっきりとは言えませんが、症状を聞いた感じでは緑内障も考えられますね」


『緑内障』 目の神経が弱って視野が欠ける症状の、日本で失明する原因の一位に挙げられる病気だ。もっともこれは緑内障患者が非常に多い為で、早期に発見して適切に治療を受ければ失明率はかなり低いらしいが。

 だが【すて】には『視野が欠ける』とかいう自覚症状が無かったし、眼科医(前述の通り数ヶ月の間に二軒の眼科にかかっている)の口から緑内障なんて言葉が出たことは一度たりとも無かった。だから【すて】は脳神経外科の先生にポロっと言ってしまった。


「いえ、白内障とは言われた事ありますけど、緑内障は言われたこと無いっすわ」


 それを聞いた脳神経外科の先生は難しい顔をし、それなら一晩入院して明日もう一度MRIの検査をすればどうかと提案した。この日はA脳神経外科病院の年内の最終外来診療日だったので、入院しないと翌日の検査が受けられず、次に外来で検査するとなると年明けになると言うのだ。

 このまま帰るのも気持ち悪いと思った【すて】は脳神経外科の先生の言う通り一晩入院(妻Mは一旦家に帰ってもらった)し、翌日にもう一度MRIの検査を受けることを決めた。


【すて】が車椅子で看護師さんに連れて行かれた病室はトイレ・シャワー付の個室だった。もちろん【すて】がそんな贅沢を望んだわけでは無いのだが、その時の【すて】はまた頭痛がひどくなっていて、思考能力などほぼ無かったので言われるままに高そうな個室のベッドに横になった。そして痛み止め(多分ロキソニン)を出してもらい、一人寂しい夜を越えた。


 翌日、【すて】は朝からMRIの検査を受けたのだが、この時気付いたことがあった。それは前日の検査の時は左目でしか見えなかったMRIの筐体のトンネルの×印が今回は右目でもぼんやりとではあるが見えるということだ。それに頭痛もほとんどしなくなっていた。

 これは脳や脳の血管に異常が無いとわかって少しは安心したからか、あるいは痛み止めがまだ効いているのか、はたまた単に一晩ゆっくり眠った(点滴が効いてよく眠れた?)からだろうか……

 検査の結果は昨日と同じく『異常無し』だった。もう一度言うが、この結果は喜ぶべきことだ。もちろん【すて】はその結果に安堵したのだが、依然【すて】の身体(と言うか右目)の不調の原因はわからないままだ。だが、痛み止めでなんとか痛みが治まるのなら何とかなるか…… なんて甘く考えた【すて】は痛み止め(ロキソニンだった)を処方してもらい、妻Mに車で迎えに来てもらった。家に帰るまでの道中も【すて】の頭はほとんど痛くなかった……右目は相変わらずあまり見えなかったのだけれども。


 頭痛が治まっていたのでA脳神経外科病院からの帰る途中、妻Mに頼んでメガネ屋に寄ってもらい、入院前に作ったメガネを受け取ったのだが、わずか二日前に作ったメガネが右目だけ全く度が合わなくなっていた。『繋ぎ』のつもりで買った一番安いヤツだとは言え、手にした時にはもう既に使い物にならなくなってしまっていたのだ。無駄金を使ってしまったこと、そして何よりもこれからの事を考えると不安で【すて】は心の中で涙した。


 翌日十二月三十日、【すて】は頭の痛みをロキソニンで抑え、家でおとなしく寝たり起きたりするだけだった。この日は良いお天気で、バイクで走りに行きたくて仕方がなかったが、右目がこんな具合ではどうしようもない。【すて】は窓の向こうに広がる青空を恨めしそうに見上げては溜息を吐くばかりだった……明日、大晦日に事態が急展開となるなんて夢にも思わずに。


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