第1話
さて、やっと生まれ落ちたわけだが、生まれてすぐの記憶がない。多分、疲れ切っていたのだろう。
記憶があるのは、母の乳を初めて吸ったときのことだ。
でかかった。めちゃくちゃとかいうわけではないがでかかった。危うくもみかけたが、理性が俺を引き止めた。
あそこで理性を捨てていたら、今どうなっていたかわからない。
まずはそこが、死と生存の分かれ道だったと思う。
ちなみに、母ちゃんはめちゃくちゃ美人だった。ちょっと儚い感じの美貌。
肌が白くて、瞳は切れ長で、鼻筋が通り口が小さい。典型的な昔美人だが、何処か現代の美人に近い。顔が下膨れじゃないのもいい。
出産したばかりで化粧をしていなかったのも大きいだろう。その後、化粧を決めた母ちゃんは、ちょっとグレードダウンしていたから。
父さんは普通の優しそうなおっさんだ。まあ、ブスじゃない。
そういえば、息子のいない感覚も初めてだった。が、すぐ慣れた。悲しいことにもともと使ってない。
赤ん坊の頃は、とりあえず暇だった。もちろん、この先の人生計画を立てたりもしたのだが、流石に限度がある。計画通りに行くなんて思ってないし。
暇すぎた俺は、武芸の鍛錬をした。もちろん、小さい頃からの鍛錬で他を圧倒する異世界転生モノに憧れたのだ。
まあ、ここは異世界ではないのだが。単なる暇つぶしのつもりだった。
しかし。何故か怪力だった。赤ん坊なのに成人男性(=俺)と同程度の力を持っていた。
特に成長が目覚ましいとかではなかったが、筋トレすれば人並みに力はついていく。しかも、見た目や体重に変化はなかった。もちろん、成長はしたが。
と、まあそんな感じで数年を過ごした。
4歳くらいから礼儀作法の指導を受け始め、貝合せや毬など、俺でもそれなりに楽しいと感じる遊びもするようになった。
そして、なんとか『瀬名姫』が板についてきた頃。母上(井伊の方とか呼ばれてる。呼び名は史実にはなかったと思う。このことから出身がはっきりした)が、俺に向かってこう言った。
「瀬名、あなたも七つになりました(数え年だから、ホントは5歳くらい)。作法も立派に身についてきましたので、太守様に謁見いたします。粗相のないようにするのですよ」
太守様とは、今川義元のことである。
やった!思ってたより早いぞ!
義元かぁ。最近再評価されてて、調べたんだよな。海道一の弓取り。どんな人なんだろう。まろ系かな?それとも偉丈夫?
「おまかせくださいませ、母上」
「ふふ、あなたも喜んでいるようで何よりです。では、たんとおめかししましょうね」
それから服を選んで(義元との面会をシュミレーションしていた)、髪を梳かし、化粧をしてもらっているとき。
(そういや、一人称どうする?)
俺は、大問題に直面したのである。
それは、話すようになってすぐに抱いた悩みだった。
今までは、なんとなく誤魔化してきた。
が、義元相手にそれはまずい。そもそも、誤魔化すときちょっと回りくどいのだ。気が短い(かもしれない)太守様相手にそれはまずい。
まず「私」、「わたくし」、「妾」などの女言葉はダメ。ちょっと男としてだめ。「私」は大人の男性なら言っていいかもしれないが俺はまだ高校生だ。
転生して5年たったので前世合わせれば二十代になっているが、あいにく精神年齢が成長するようなことは何一つとしてやっていない。本当に何一つない。
女言葉がだめなら「俺」や「僕」といった男言葉はどうだ。
うんまあ、今川家の、というか両親のプリンセスとしてアウトであろう。特に俺は。
俺一人称俺なのに。
まあ、仕方ない。これは歴史というか瀬名のイメージを変えてしまう。却下だ。
そう、俺はそこで壁にぶち当たるのだ。じゃあどうすりゃいいんだよ!と。
うーん。あとは、「吾輩」とか、「わし」とか、そんなのしか思い浮かばない。うん、却下だ。
となると、やっぱり女言葉だな。なんだろ。「あたし」?いや、「うち」か?
「うち」はダメだな。チャラい。お転婆系女子高生にプリンセスは無理だろう。完全なる偏見だが。
そう、「うち」とか言ってうるさく喋ってるやつに限って、彼氏の前では自分のこと名前で呼んだりぶりっ子するのだ。多分。
ん?名前?あ、いいかもな、名前。
『瀬名はこうおもいます』
うん、悪くない。俺は現在美幼女だからな。可愛く言ったら太守様もイチコロ…かもしれない。当分はこれで行こう。
俺は上機嫌だった。
◐◐◑◑
「殿、本日、関口親永殿の娘、瀬名殿が井伊の方とともに参られるようでございます」
「そうか」
海道一の弓取り・今川義元は、師である太原雪斎の言葉に、整えられたひげを撫でた。
「我が義妹の娘だな。姪となるのか。歳はいくつだ?」
井伊の方は、義元の母、寿桂尼の娘として関口に嫁いでいた。
元は遠江(静岡県)の豪族、井伊氏の娘として生まれた井伊の方は、人質として差し出された際、義元に見初められ、側室となった過去があるのだが、そこには全く触れない。
もとより、大して楽しむこともなかった女など、覚えていないのだ。
井伊の方にとっての幸いは、そんな状態から寿桂尼に救いだされたことだろう。
「七つと聞いております。聡明で、将来が楽しみだと、関口殿が自慢しておられました」
「ほう。美人か」
「ええ。何しろ、お母上があの美貌ですからな」
「ふむ。気に入れば手籠めにするのも悪くないかもしれぬ」
「褒められた趣味ではありませんな」
義元は有能だが、だいぶクズでロリコンだった。
◐◐◑◑
俺は不機嫌だった。
自分の(自称)天才的な思いつきに機嫌を良くしていたとき、侍女が
「できましたよ。とても可愛らしいです」
そう言って、鏡を見せてきたのだ。
ふ、それはそれはもう驚いたね。俺の可愛い顔が跡形もなくなっていた。これでは能面と同じだ。
この化粧は、母上のような大人の女性でなければ人外になってしまうらしい。
「…下がれ」
「え?」
侍女はキョトンとした。ごめんな、君は悪くない。マニュアル通りにやっただけだろう。だが、これはだめだ。ちょっと許しがたい。
「下がれ!」
「瀬名?どうしたのです?」
騒ぎを聞きつけたのか、母上がやってきて困ったように言った。
「母上、大変申し訳ありませんが、この化粧は気に入りません。瀬名が自分でやるので、一人にしてくださらないでしょうか」
「え?でも、とても可愛らしいですよ?」
「母上、本当に申し訳ないのですが、これは譲れません」
俺の断固とした視線から何か感じ取ったのか、母上が引いた。
一人になった部屋で、鏡を覗き込む。本当に酷い。
「まずは洗い流そう」
そう言って、顔を拭いたのだが。
「あの侍女、眉毛剃りやがったーーッ!」
信じられないことに、俺の眉毛がなくなっていた。妹が彼氏作ったとき以来の衝撃だ。あのオタクが、まさか本性を隠さないまま彼女デビューを果たすとは。
って、現実逃避はやめるんだ、俺。眉毛が何だ。描けばいいじゃないか。
なんとか心を落ち着かせ、鏡に向き直る。眉毛を描こう、眉毛を。
そういえば、あのペンがないな。どうしようか。…うん、細筆に墨で我慢しよう。
お、なかなかうまいじゃないか、俺。じゃあ次は、ファンデーションだな。あ、いや、化粧下地、と言うやつか?わからん。
ここには白粉と口紅しかないから、白すぎないように気をつけて、それっぽくするしかないな。
うん、こんな感じでいいだろう。あ、影とかつけるか?まあ、元がいいからそれなりになるかな。
試行錯誤の末、俺はとうとう、現代風美少女を完成させたのだ。いや、幼女だが。
途中から着物との相性にも着眼し始めた俺は、多分この時代で一番化粧がうまいと思う。現代視点で。
「よし。これで完璧だ。元が良くて良かった。本当に良かった」
母上を呼び化粧を見せると、
「まあ、かわいいわ。これはこれでかわいいわ」
と、素を見せて褒めてくれた。嬉しい。なにげに嬉しい。
「では、参りましょうか」
よし、やっと海道一の弓取りに会えるぞ!
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