日常、再開
祝賀会 in ポンドC
自宅に帰った日奈は、大量に購入したチョコレートを冷凍庫に入れ、怜の部屋に顔を出す。
「ただいまー」
「おはえり」
怜は昨日と変わらず、スウェットを身に着けアイスを頬張りながら返事をする。唯一違うのは、それがセール品のカップアイスではなく、お詫びの印として購入されたハーゲンダッツだということだ。
さすがの怜も高級品であることを理解しているのか、一度に大量消費しようという気はないらしい。サイドテーブルに、まだ空けられた容器はなかった。
「どう? 美味しい?」
「ん」
「それならもっと美味しそうに言ってよ……」
簡素な感想に日奈は肩を落とす。しかし、今はそんなことに突っかかっている場合ではない。
日奈は、両手の甲を怜に見せて言う。
「爪の付け直し、お願いしてもいい?」
飾の魔女の討伐に際して、日奈は七本の爪を消費した。右手の五本はもちろんのこと、左手の爪も見栄えの悪い仕上がりとなっていた。
「いいけど、今日はもう外出する予定なくない?」
「何言ってんの! 魔女を倒したんだよ? だったらやるしかないでしょ!」
「……何を?」
物分かりの悪い怜に、日奈は呆れ丸出しで息を吐く。いつもと立場が逆転したようにも思えるが、こういう時は大抵日奈が暴走しているだけというのがオチだ。
日奈は息を吸って、高らかに宣言する。
「祝賀会やるよ!」
そうして怜は半強制的に着替えさせられ、食べかけのアイスを断腸の思いで手放すこととなった。
アイスを食べる時間くらい、という抗議は日奈には届かなかった。日奈曰く、「数量限定の火鍋がなくなる」とのこと。甘い物好きの怜からすれば、火鍋の有無などどうでも良かったのだが、こうなった日奈は止められない。
怜に動くつもりがなくても、日奈は必ず手を取って前に進む。決して一人で行くようなことはしないのだ。
「はい、とうちゃーく!」
二人がやってきたのは、こぢんまりとした建物。ピンクのネオンサインで書かれた”スナック ポンドC”という店名が、怪しげな光を放っている。
それだけが逸脱した様相を呈しているものの、レンガ造りの外装はさながらバーのようだ。初見であったとしても、ネオンサインが後付けであることを察することができるだろう。
「みゆきちゃーん、こんばんは!」
扉に付けられた古典的なチャイムが音を鳴らして、入店を知らせる。
もっとも、店主が日奈たちに気付いたのは、その通りのいい声を耳にしたからだったのだが。
「あーら、日奈チャンいらっしゃい! それに怜チャンも!」
髪を桃色に染めた長身の男性が、振り返って歓迎の声を上げる。瞬きする度にバサバサと音がしそうなほどのつけ睫毛、これでもかと主張するピンクで引かれた口紅と、男――みゆきちゃんと呼ばれた店主の風貌はインパクト十分だった。
「
律儀に頭を下げる怜に、幸は眉をひそめる。
「怜チャンも日奈チャンみたいに”みゆきちゃん”って呼んでくれていいのよ?」
「……いえ」
百八十センチはある背丈を折り、怜と目線の高さを合わせる姿は、親愛の証というよりもガンを飛ばしているように見えた。
その迫力に負けることなく、怜は彼を”幸さん”と呼び続けている。
このやり取りを、日奈は入店後の儀式みたいなものだと考えていた。
(どっちが先に折れるのかなー? 怜は頑固だから、意外とみゆきちゃんだったり?)
「今日も二階席を使ってちょうだい。上は日奈チャンたちのために、いつも空けてるから」
「ありがとー!」
星やらハートが出てきそうなウィンクを受けて、日奈たちは階段を上る。
下のフロアと比べて、二階はよりバーの色合いが強くなる。それもそのはず、この店は元々バーとして開業したのだが、それを二代目店主である幸がスナックに方針を変えたのだ。
一階にカラオケスペースを導入したり、派手な内装を施したことで、扉をくぐった第一印象はすっかりスナックだ。
加えて幸の人柄も、マスターではなくママと呼ぶのに相応しい。そうして二階は酒を管理する倉庫兼、日奈たちの特等席となったのだ。
日奈は手すりから身を乗り出して、真下の幸に声をかける。
「みゆきちゃん、火鍋ってまだ残ってる?」
「残ってるわよ」
「じゃあ、火鍋一つ!」
「かしこまりよー!」
日奈が来店したことで、店内の雰囲気が一気に明るくなる。幸にとって、日奈のこの輝きは自分に若さを分けてくれる太陽そのものだった。
だからこそ彼女の来訪を心待ちにしており、特等席まで用意するほどに気に入っている。できれば怜とも仲良くなりたいと思い、積極的にアピールしているが現在まで連敗中である。
「ママ……ああいや、大五郎! こっちにも酒を頼む!」
ふと、下の階でも幸に注文がかかる。
この時間帯にいる常連の団体客だった。かなり酒が入っており、それに比例して声量も大きくなっている。
そして、酔いで思考が緩んだのか、特大の地雷を踏み抜いたことに気付いていない。
「……誰だ、今ワタシのことを下の名前で呼んだのは」
幸の纏う空気が一変する。花が舞っていてもおかしくない優雅なオーラは消し飛び、代わりに幸の背後には般若が見え隠れしている。
それに恐れをなした当事者以外の面々が、庇おうと前に出る。
「ごめんよママ! こいつ、もう酔い潰れちまってんだ。今回は勘弁してくれ!」
「なら、言えるな?」
「ああ分かった! 言えばいいんだろ!」
「よし! お前たち、やってやるぞ!」
幸の問いに、常連客たちは結託を見せる。日奈は身を乗り出したまま、階下の様子に目を輝かせた。
「怜、あれくるよ!」
「……私はやりたくな――」
「ワタシは誰だ!」
怜の拒否は最後まで紡がれることなく、幸の芯のある発声にかき消される。
それと同時に、怜は頭を抱えた。この調子だと、食事にありつけるのはまだまだ先だと。
「エレガンスみゆき! エレガンスみゆき!」
「ワタシは誰だ!」
「エレガンスみゆき! エレガンスみゆき!」
幸を崇め奉る大合唱が、店内を揺らす。通称エレガンスコール、幸の逆鱗に触れた時に発生する限定イベントだ。日奈はお祭りか何かと勘違いして参加しているが、一階にいる人々はいつも死に物狂いだった。
「ワタシは誰だ!」
「エレガンスみゆき! エレガンス……って怜もやりなよ!」
「……こんなの全然エレガンスじゃない」
この地獄と形容できる空間に侵された怜は、夢にまでこの光景を見たのだった。
怜との心の距離がまた一歩離れたと、幸は知る由もなかった。
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