第十七話 小夜曲

 ミストガルドの蒸気に閉ざされた空の向こうは別世界だった。空飛ぶ小舟の眼下に広がる大草原は、街では見られない鮮やかな緑色に染まり、流れる水は透き通る。


 視線を上げてみれば小鳥はさえずり、風は巨木の葉を揺らす。目の前の世界は、どこを切り取ってもおだやかで美しい。一点を除いては。


 異質にして汚点なのは御柱ラキスの存在だ。ミストガルドの中央にそびえ立つそれは、ついにここまで伸びており、巨木の幹が目に見える限りでは半分くらい入っている。どうやら煙突のような構造をしているようで、頂上の穴から蒸気がほわほわと昇っている。


「ミキ、なんでもいいから葉っぱを取れ!」


 そうだ、余計なコトを考えているヒマはない。今はダリアが優先だ。ガルディアに促され、ワイヤーを伸ばし細枝を折り、手繰り寄せた。葉は水を受け、光に照らされている。


「その朝露を飲ませろ!」


 抱えていたダリアを小舟に下ろし、マスクを外す。朝露を一枚に集め、咳をしていない瞬間を見計らって口に浸そうとするが、手が震えてしまう。


「落ち着けよ。マジ落ち着け」


「急ぎつつ、落ち着いて。急ぎつつ、落ち着いて……」


 やっと手元が安定した。ダリアの口に流しこみ、固唾を飲んで見守ると、すぐに効果が表れた。苦しそうな呼吸は鳴りを潜め、静かな寝息を立てた。


「よしッ! 一命を取り留めた。これでひとまず安心だな!」


「よかった、ほんとうに……」


 ガルディアは両手でガッツポーズした。なにか悪い予感がした。


「その手、舟から離していいのか?」


「……あっ、いっけね☆」


 再びダリアを抱え、巨木の太枝にワイヤーを伸ばして引っ掛けた。小舟は浮遊石ネブラスタの光を失い、当然のように墜落し、金網が敷かれた大穴に吸い込まれた。


 この巨大すぎる闇にミストガルドの街が入っていると思うと、規模の大きさにゾッとする。


「いや悪い、ついうれしくて」


 ガルディアは抜け目なく、その太枝に跳び乗っていた。


「気持ちはわかるが、それでは困る」


「ごめんて。ちょっと案内したいとこがあるから、この神木をがんばって登ってくれ」


「休める場所があるのか?」


「おう。足元、気をつけろよ」


 それから後を着いていった。落ちている細い枝を踏みながら、太枝、幹を巧みに伝っていく。その間にガルディアは訊いてくる。


「察してはいると思うが、今登ってるのはアリアの神樹だ。御柱ラキスを含め、ミストガルドはこいつを生かすための植木鉢だ。これ、どう思う?」


 たしかにダリアは、新鮮な空気を作るというアリアの苗木に蒸気の種をあげていた。御柱ラキスを通る水蒸気はこれを維持するためのようだ。


「ちゃんちゃらおかしい話だ」


「でも蒸気を通しているおかげで種が金網をすり抜け落ちて、それを拾って育てるコトで、ミストガルドでもきれいな空気が吸えるんだ! って、アイツは言うだろうな」


「なにが言いたい」


「休憩ついでだ、ほら」


 ガルディアは立ち止まり、鬱蒼と茂る森を指した。


「これに比べたら小さいけど、あれらもアリアの木だぜ。……またなにが言いたいって? あそこに蒸気が通ってると思うか?」


 ないだろう。その割には緑が豊かだ。神木と言われているが、変わらないんじゃないか。


「つまりな、この木の養分は蒸気じゃなくてもいいんだよ。あんな労働もミストガルドも必要ねえんだ」


「わざわざ、なんのために」


「それが神のやりかただ。人間を住まわせないで、ここを自分の庭にしたいんだと」


 ガルディアは呆れ果てたようなため息をついた。


「……この世界はもっと自由だったんだ。人間がいて、魔法があって、科学も発達してて、竜が飛んでたりして。昔からがんばっても結局共生できずに、人間は竜と戦争になって、みんな滅んだけども」


 そして眼光鋭く、顔をこちらに向けた。


「もったいないだろ? この空いた世界が。おれはこの世界に人間を戻し、そのために神を殺すッ!」


「神を? ……俺をか?」


「いや、おまえは表向きの神で、所詮は傀儡だ。黒幕である神はまだミストガルドにいるんだよ!」


「ワケのわからないコトを言うな」


「おまえ、すぐそう言う!」


――ガルディアの計画はこうだった。ファイスとナセマのふたりが死んだのを見届けると、すぐに神の元へ赴き、殺す。ただそれだけだった。その千載一遇のチャンスは、しかしミキとダリアを助けたコトで崩れ去った。


 炭坑でミキを連れ戻すまでは予定通りだったが、ふたりを助ける予定などなかった。だが当の本人は思う。情に絆され流される。この血が通っているような感情が人間の証明ならば、胸を張れるじゃあないか、と――


「うし、休憩終わりっ」


 その口を笑みを浮かべ、ガルディアは神樹を登る。


「ほら、着いたぞ」


 止まったところにはハシゴが掛けられていた。見上げるとそこはかなり高く、三角屋根の小屋をオレンジの木漏れ日が照らしている。


「お嬢さん抱えて上れるか?」


「安全を確保したい。考えがある」


 細枝を踏みしめて進んでいたが、それらは折れなかった。見た目よりも丈夫なようだ。


「落ちている枝を集めてくれ」


 指示をすると速やかに集めに行った。その間に幹に巻き付いているツタを力任せに千切る。しなやかでこれも丈夫だ。


「持ってきたけど、どうすんだ?」


「ありがとう」


 細枝を組み合わせ、ツタで縛る。ガルディアは察したようだ。


「なるほど、背負子か。すげえ原始的。さっきまで魔法の力で飛んでたとは思えねえな!」


「まったくだ」


 完成した背負子にダリアを乗せて背負う。背中合わせに座るダリアの腹にベルト代わりのツタを巻いてもらう。これで多少なりとも安全だ。


 ガルディアは頷き、ハシゴを上る。それに続くと、


「うーん……。ん? んええっ!?」


 すぐ背後で絶叫が聞こえた。ダリアが目覚めた!


「た、高っ! えっ!? なんですかここうげぇほッ! えーっほッ!」


「おはよう、ダリア。大丈夫か?」


「ふう、ふう……。あ、ミキさん、ですね。大丈夫です、むせただけです」


「体調はどうだ?」


「とっても楽になりました」


「そうか」


「あの……、それで、ここは?」


「上り終わったら話そう」


 ハシゴを上り終えたすぐ傍にガルディアが笑っていた。


「ようお嬢さん、元気になったみたいでなによりだ!」


「ガルディアさんも、ありがとうございました」


「陽も暮れるし、ふたりとも今日はこのツリーハウスで休んでな。また明日来るからよ」


「世話になった。ありがとう」


 手を振ってから、ガルディアはハシゴを下りる。


「……まだ、ミキさんから降りちゃダメですか?」


「足場が不安定で危険だからダメだ」


「ふふっ。前にも同じコトがありましたね。あのときも助けてもらって……」


 途中でダリアは黙ってしまった。ここで立っていても仕方ないので、小屋に入った。


 中は意外と広い。正方形のテーブルと丸イス。本が詰まった本棚、簡素なベッドに、雑多になにか並んでいる棚。どれも木でできており、生活感に暖かみを与えている。ミストガルドの屋内とは大違いだ。


 建っている場所が場所なのでイマイチ安全性が信用ならないが、なかなかどうしてどっしりと構えているので、ダリアを背負子から降ろした。


「あ、ありがとうございます……」


 いざ、ふたりきりになって顔を見合わせると、気まずい空気が流れた。ダリアの表情は暗く、思い詰めている様子だった。陽が落ち、辺りも薄暗くなる。


 この安らぎの場にバツの悪い沈黙が支配する。が、それを破ったのはダリアだった。


「……ごめんなさい」


「ん? なんのコトだ」


「あの、闘技場で……」


 衝撃を受けたのではっきりと覚えている。ダリアは明るく振る舞っていたが、その胸の内は万感の思いが渦巻いていたようだ。生きるというコトに。


「わたし、あきらめていたんです。でもミキさんとガルディアさんが一生懸命助けてくれて……。わたし、どんな顔を合わせればいいのか……」


 暗がりの中に、その青い瞳は涙で輝いていた。慰めるのにどんな言葉をかけても、きっと軽いのだろう。――俺はダリアと同じ人間ではないのだから。


「……ミキさん」


 だからこそ、黙って抱きしめた。ダリアのこの温もりは、たしかに生きている証だ。


「わたしに、どうしてそこまでしてくれるんですか……?」


「ダリアが大事だからだ。出会ったとき、俺を助け、傍に寄り添ってくれたから。うれしかった」


 小さな背中の震えが手に伝わる。


「ダリアががんばって生活しているのを、俺はよく知っている。疲れるコトも多々あるだろう。今は……我慢しなくてもいい」


 胸の中で嗚咽が漏れ出した。小さく、やがて徐々に大きく、我慢していたものが決壊した。


「わたしっ、ホントは怖かった。苦しくて苦しくて、やっぱり死にたくなかった!」


「それが聞けて、俺はうれしい」


「ごめんなさいっ! ごめんなさいっ!」


「謝らなくていい。無事ならば、それでいいんだ」


 ダリアは泣き続けた。夜の帳が下り暗闇に包まれる。泣き止むまで、背中をさすり続けた。


 やがて落ち着き、ダリアが顔を上げる。


「……ミキさん。ありがとう、ございました。おかげで、すっきりしました」


 表情は見えないが、まだ嗚咽が出ている。


「ふふっ……。暗くて、あなたの顔が見えません」


「見えるものもある。こちらに来てくれないか」


 窓を開け、ダリアを呼んだ。


「わあ……」


 木漏れ日に置き換わるように、月光が降り注ぎ、葉と葉の隙間からも星々がきらめく。


「きれいな空ですねっ」


「ああ。ダリアの瞳のようで」


「……やっぱり見えてなくてよかったです」


 ダリアはベッドに横になり、そのシルエットはこちらを向いた。


「……ねえ、ミキさん。今日は傍にいてください。……いいですか?」


「もちろんだ」


「ふふっ、安心しました。……おやすみなさい」


 ダリアはすぐ眠りについた。窓を眺めると星が流れるのが見えた。


「たしか、願い事を唱えるんだったか。こんなコトは、覚えているものなんだな」


 そしてミキは、初めて星に願った。人間として、ダリアと同じ時を歩みたい、と。

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