第二話 生活

「――そろそろ起きんかのー?」


 老人の声で男は目が覚めた。少女の家に入れてもらってから、いつの間にか眠っていたようだ。今にも切れそうな細い綱でぶら下がっているガス灯が部屋中を照らしている。


「おっ、起きよった!」


 そんな綱に似合わないくらい、灯がまぶしく輝いている。光量のせいか、あるいは部屋が狭いのか。きっと後者だろうと、男は解釈した。


「ダリアや、お前の恩人が起きたぞ!」


 老人は急いで階段を上っていった。


 あの老人はマスクをしていなかったが、屋外では平気なのだろうか。男は上体を起こし、右に左に見渡すが、視線はすぐ小汚い壁にぶつかる。なるほど、予想通りだ。この家はかなり狭い。


「あっ、おはようございます! 調子はどうですか?」


 階段から少女が降りてきた。男は少女の――ダリアの素顔を見たのは初めてだったが、この小さな身長とハツラツとした声はあのときに出会った少女のものに間違いない。碧眼に短い黒髪。こんな顔をしていたのかとまじまじ見つめる。


「あーっと……。そんな見つめられると恥ずかしいんですけどお」


 ダリアの顔が赤くなった。男はまだジッと見つめる。


「んもーっ、なにか言ってくださいよ。あっ、もしかしてまた記憶喪失ですか!?」


「いや、覚えている」


「そうでしたか、よかったあ。でもきっと、わかってないですよね、あなたが何日間寝ていたのかを。3日ですよ、3日!」


 再び部屋を見まわした。生活に必要最低限の家具しか置かれていないが、中でも一際目を引くのが、ダイニングテーブルの中央を陣取っている鉢植えだ。


 塗装が剥がれた壁や、金属が剥き出しになったテーブルの色とは違うその小さな緑は、見ているだけでなぜか安心させられる。


「3日も置いていたんですよ! きっと他のお家だったら穀潰しー! とか空気ドロボー! とか言われて追い出されちゃいますよ。だからしっかり感謝してくださいね……って聞いてます?」


「あの植物は?」男はそれを指した。


「んもーっ。あれは『アリアの木』の、その子供ですね。これが新鮮な空気を作ってくれるんです」


「だから、ここではマスクがいらないんだな」


「そーいうコトです。ささっ、ご飯を食べましょう。おじいちゃーん、ご飯ですよーっ!」


 ダリアは元気に老人を呼んだ。マスクが無いほうがやはり声がよく通る。


「あーっ!? あんだって!?」


 上階からより乱暴で大きな声が飛んできた。


「ダメだこりゃ。ほっときましょ」


 ダリアはイスに座り、おもむろになにかを取り出した。金属でできた小さな缶のようだ。


「これがご飯です。……もちろん、これ自体を食べるんじゃないですよ」


 それをテーブルに置き、慣れた手つきでガラス製の注射器を刺して、ゆっくりプランジャーを押した。すると、缶から湯気が上がった。


「こうして加熱すれば、おいしくなるんですよ」


「なにを入れたんだ?」


「これは『蒸気の種パルシード』です。おかげでアツアツですよ!」


 注射器にはなにも入っていないように見えたが、便利なモノもあるようだ。


「おっと、コレにもやらないと」


 そのついでと言わんばかりに、アリアの苗木が植えられている鉢にそれを刺す。すると、みるみるうちに緑葉がの色がより濃くなった。どうやらこの木の栄養は蒸気らしい。


「あっ、手袋忘れちゃった。あの、缶開けてくれませんか? アツアツすぎて素手じゃ開けられないんです……」


「これもずいぶん錆びついているな」


「ウチはいつもカツカツなんですよね。とほほ」


 わざとらしく肩を落とすダリアを横目に、男は手渡されたナイフを器用に扱い、缶を開けた。


「さすが機械蜘蛛メカラクネーをやっつけた人です。熱くなかったですか?」


「ああ」


 男は缶詰をまじまじと凝視してからテーブルに置いた。


「便利な身体ですねえ」


 ダリアはテキトーな返事をして、酸化の進んだ青銅製のスプーンで中身をほじくって口に運んだ。


「うんうん、おいしいです。もっといいスプーンだったら、この鉄臭さもないんでしょうけど……。あっ、お礼に一口あげますよ。ほら、あーんしてください」


 ダリアが差し出す匙にはピンク色の物体が乗っている。男は促されるままにそれを食した。ダリアのように咀嚼しても味がない。


「どうです?」


「…………」


 男は無言で感想を伝えた。


「かーっ! 食わせ甲斐の無いリアクションですね! もったいない!」


 缶詰を取らせまいと握りしめ、ときどき水瓶から掬った水を飲みながら、口にかっこんだ。ガラスのコップもだいぶ傷ついている。


「ごちそうさまでした、と。さて、仕事の準備をしなきゃです」


「ちょっと待たんか!」


 ダリアが黒く汚れたコートを着ようとすると、老人がおぼつかない足取りで階段から降りてきた。


「おじいちゃん、上でなにやってたんですか」


「まあまあ。そんなコトより、彼にこの街のコトを教えてやりなさい」


「むむ、そうですね」


 老人はダイニングテーブルの鉢植えをどかし、テーブルよりも大きな地図を広げた。円形の高い壁の中に街があり、その中央には巨大な搭がそびえ立っているようだ。


「見ての通り、この街――ミストガルドは丸くてですね、そこから8つの生活圏に分けられるんです」


 ダリアは指で十字をふたつなぞった。


「こう8等分してですね、北の方角から時計回りに1区から8区に。ちなみにここ、わたしたちの家は6区ですよ。しっかり覚えてくださいね」


「6区だな、記憶した。この搭は?」


 男は中央の搭を指す。


「えっと、そこは『ラーディクス』の御神体、でしたっけ?」


 ダリアは老人に確認する。


「うむ。ラーディクスについては知っておるか?」


「いや、なにも思い出せない」


「うーん。ラーディクスを知らないなんて、やっぱりヘンな人です」


 老人曰く、ラーディクスとは『神』の教えを法として公布し、破った者には罰を与えるという、事実上この街の最高機関である宗教結社らしい。


「そううかつに近づいてはならんぞ。昔ほどの権威は無いが、それでもヤツらがこの街の法。触らぬ神に祟りなしじゃ。ましてやお前さんは救世主テンシかもしれんのに……」


「ラーディクスの法王猊下に救世主テンシですよって紹介すれば、お近づきできるんじゃないですか?」


「どんなコトをされるか、わかったモンじゃないわい!」


「その救世主テンシとはなんだ?」


 男はダリアに出会ったばかりにそう言われたのを思い出した。


「それは空から舞い降り、人々を空へ運ぶであろう――古い言い伝えじゃよ。問題なのがラーディクスが発布したモノではない、というコト」


「俺がそうだとして民衆の支持を集めたら、ヤツらは困るのか」


「察しがよくて助かるわい」


「ちぇー。わたしの家には救世主テンシ様がいるんですよーって自慢できるかと思ったのに」


 ダリアがわざとらしく頬を膨らませた。彼女なりの場を和ませる冗談なのだろう。


「しかし、3日眠っている間に調べさせてもらったが……。お前さんは何者なんじゃ?」


 老人の視線は男に向く。訝しむように、しかしその口元はなにかを期待しているようにも見える。


「銀髪に緑色の瞳、それに素肌こそ人間のようじゃが、中身がまるで違う」


 いきなり男の首をつかみ、横に直角に曲げると、左肩から腕にかけての骨が飛び出た。容赦なくそれをひっこ抜くと、指で小突いたり曲げたりしている。


「せっかく服を直したのに、また破けたじゃないですか!」ダリアが怒る。


「呼吸もいらないし、食べ物も水もいらない。骨はえも言われぬ極彩色をしていて、金属よりも硬いときた。お前さんは、やはり歯狂魔ハグルマに近いモノなのじゃろうか」


「でもでも、こう見えて冗談なんかも言ったりするんですよ! 機械蜘蛛アレにはそんなコトできないでしょう」


「そう、感情がある。故に判断に困るのじゃ。限りなく人間に近い歯狂魔ハグルマ。いやはや、それをなんと呼べばよいのか」


「回りくどいのはキライだ。なんと呼ばれようが、俺は俺だ」


「うむ、その心意気やよし。さあダリアよ。遅れてしまうぞ」


 老人は骨を戻し、上階へと戻っていった。地図はテーブルに出されたままだ。


「骨が飛び出たのに皮膚が治ってますよ。不思議ですね。……って、もうこんな時間!」


 ダリアは急いで顔を覆うマスクを着け、クローゼットを開けた。中にはこの街の人々が身に着けていた装飾品一式がある。


「あの、あなたも必要なくても『対応服』を着てください。さすがに目立っちゃいますから。実はね、あるんですよ。お父さんのが」


「父はいないのか?」


「両親とも、仕事中の事故で死んじゃったんです」


 気丈に振る舞ってはいるが、寂しくはないだろうか。その表情はマスクで見えない。


「でも、きっと煙になって見守ってくれています。たきぎとして」


「踏み入った話をさせてすまない」


「記憶がないんじゃ!?」


「常識は備えているつもりだ」


「冗談ですよっ。ささ、着替えてください。向こうむいてます」


 男は着ていた服を脱ぎ、クローゼットの一式を装着した。えんじ色のコートに茶褐色のズボン、脛がすっぽり入るブーツにガントレット、そこにカラスのような尖ったクチバシが特徴的なマスクて顔を覆い隠せば、往来の人々となんら変わりはない。


「ちなみに、このクチバシの中には、アリアの木の種子が入っていてですね、それのおかげで呼吸ができるんですよ」


 マスクからカラカラと音が聞こえるのはそれか。声がこもるのが、若干気に入らないが。


「やっぱり、思ったとおりピッタリですね! というワケで行きましょうか!」


 ダリアは元気に外へ飛び出した。


「のう……お前さん」


 老人が見計らったかのように、階段から降りてきた。その表情にさっき浮かべていたような笑みは無い。


「あの娘を見守ってくれんか。ああ見えて寂しがり屋でな、お前さんを連れてきた日なんかはずっと笑顔でな。あんな顔を見たのは久々じゃったよ」


 あの少女がなぜ名前の無い、人間なのかどうかも定かでない者に対し、親切にしてくれるのもわからないし、信頼を置いてくれているのもわからない。だが、悪くない気分だった。


「それとな――」


「早く行きますよーっ!?」


 ダリアが呼んでいる。男は老人の話を聞き終えると、マスク越しに目線を合わせた。


「……俺に任せろ」


 それから男は声のする方へ向かった。記憶の無い自分が成すべきコト、それはあの少女を守るコトだ。

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