3日目
という一連の出来事を月曜日の午前十時過ぎにやってきた姉に話したのは、エリザベスカラーを巻いていたアリシアを見て「またケガしたの?」と私に訊いてきたからだった。
私はアリシアが再びカラーを巻く羽目になった理由と、父の一言によって母が怒り心頭に発したその経緯を説明した。姉は「なにそれ、くだらない」と、涙を流すほどに笑っていた。
「あんたが家にいてくれてよかったよ」
姉は台所の前で、目元を拭いながら言った。
「よくないよ、ずっとそんなのばっかりなんだからさ。ホントにくだらない」
私は腕組みをして、重く息を吐き出した。
間近で見せられている側としては、ただ放っておくしか方法がないし、仲裁するなんて面倒なことはしたくない。父と母、どっちの味方もしたくないのは、結局のところどっちもどっちで言葉や態度に悪い部分があるからだ。もちろん、それを知っていてただ黙っているのは体に毒なのだろうが。
しかし、今回に限ってはこうして吐き出す相手がいたから、内側に溜まっていたモヤモヤしたというか、苦いような、眩しいような表情のまま対処しあぐねていた感覚が、ほんのりと解消された気がした。
「でも、夫婦ってそんなモンよ。あたしだって、旦那のちょっとした言葉にイラつくことはしょっちゅうあるし」
姉はさらに「こいつ、この野郎! って」と言いながら、目を見開いて右腕を振り上げた。
その動きはただ単に右拳を振り上げたというよりも、何か棒のような、あるいは刃物のようなものを握っているように見えたのは、そしてその握った何かを旦那さんの後ろに立って振り下ろそうとしているように見えたのは、私の錯覚だろうか。
「そういえば、今日旦那さんは仕事?」
そう訊くと、姉は外を指差して「車の中」と平然とした声で言った。
私はてっきり姉がひとりで車を運転してここまで来たと思っていた。でもそうではなかった。私たちは旦那さんを駐車場に待たせたまま、ずっと喋っていた。
渡すように頼まれていたハムの詰め合わせの他に、大きなリンゴを四つと、インスタント食品やお菓子が詰まった袋を持たせた。姉は特にインスタント食品とお菓子を喜んでいた。
「相手に向ける感情があるだけマシよ」
居間を出て、玄関で振り返った姉は言った。
「旦那をATMくらいにしか思ってない人って結構いるはずだよ。あたしの仕事場にも何人かいるし」
玄関に荷物を置いて靴を履きながら、姉はそう続けた。そして改めて両手に荷物を持つと、「そんじゃね」と家を後にした。
正直なところ「旦那をATMくらいにしか――」なんていうのは、インターネットの中の遠い話くらいにしか捉えていなかった。だから身近な人からその存在を聞かされたことで、私は玄関に突っ立ったまま、
「ちょっとリアルすぎる……」
と、ゾッとしてしまった。
でも、よくよく考えてみれば、私は結婚していないのだから誰にATM扱いされることもないし、そんな事実を聞かされたことで、じゃあ私の結婚に関する前向きな諸感情が悪い方向に揺さぶられたのかという疑問に関しては、果たして人並みに結婚願望があるのかさえ私にはわからなかった。
だからゾッとしたそれは我が身を思ったのではなく、現実にATM扱いされている人が存在していることへのある種の嘆きのような、茫漠とした感覚だった。
そしてなにより、私は人にたかられるほどのお金なんて持っていなかった。
駐車場でドアの開閉音がして、直後にエンジンのかかる音がした。
車が動き出したのと同時に何かが倒れる音が聞こえたから、玄関のドアを開けた。朝、ゴミを入れて出しておいたポリバケツが目の前の道を転がっていた。
「ごめん、旦那がぶっ飛ばしちゃった!」
車から出てきた姉はガハハハと笑いながら、横倒しになったバケツと隣に落ちていた丸型のフタを拾って駐車場に置くと、再び車に乗り込んだ。旦那さんは運転席からこっちを見て、手を合わせながら謝っていた。私は軽く手を挙げて応えた。そして車はすぐに走り去った。
夕方になって母が、夜には父も帰宅した。
夕食のために居間に行ってみれば、エリザベスカラーを外した状態のアリシアが私に近付いてきて、お腹を見せながら尻尾を振っていて、前日あれほど険悪になっていた両親は、何事もなかったかのように会話をして笑い合っていた。
まぁ、翌日になれば元に戻っているのはいつものことなのだが、それでも昨日のことを思い出すと、私はいつも以上に、
「あんたら、一体どういうつもりだよ」
と呆れてしまった。
了
事実の在る場所 沢田隆 @maggio-trepo
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