2日目



 日曜日。夕食の時間に母がアリシアの足に大きな傷を見つけた。



 それが一種の癖なのか、アリシアはよく自分の足を噛む。


 自傷行為とかそういうことではないのだろうが、ちょっと痒いとか、ムズムズしたときに人間の「掻く」を歯でやっているそれが、乙女の柔肌には思いのほか強いらしい。気が付くと皮膚が裂けて出血している。


 それだけならまだしも、傷が治りかけている患部をずっと舐めてしまうから、せっかく出来たかさぶたは剥がれて、また出血してしまう。


 それをさせないために、平日の昼間、家で留守番をしている時間帯のアリシアは、大抵の場合エリザベスカラーを首に巻いている。


 それはプラスチック製の大きな襟のようなもので、患部に顔を向けてみても首回りの広がった部分が邪魔をして、絶対に舐めたり噛んだり出来ないようになっている。原始的だが、抑止としては一番効果のある保護具だと思う。



 でも父は何故かカラーを外してしまう。理由は単に可哀想だから。



 いや、外すのは別に構わない。


 外してもアリシアが患部に触れないようにちゃんと見ていられるのなら、そりゃアリシアだって余計なものを巻かれないほうが楽だろう。


 しかしその日、父が洗濯物を取り込むために二階に上がった隙に、アリシアは居間のソファーの上で傷口に触れてしまった。


 しかも今回は舐めたのではなく、噛んでいた。だから血だらけになっていた。



 父はそのとき一応止血等々の処置をしたものの、当然傷口は開いてしまったし、母が見つけたその時間にも、まだ足の周囲やお腹に血が少量ついていた。



 傷を見つけた直後に、母は父からその理由を聞いていたのだが、父はこれまでにも同じように目を離す失敗を繰り返していたから、母は苛立ちと共に呆れていた。


 そして母が改めて消毒をしようと近付くと、怒られると勘違いしたのか、アリシアは父のイスの下に逃げ込んでしまった。その行動を見て母はさらに苛立って、


「早くこっちに連れてきてよ。どうしようもない」


 と父に言った。



 すると父はちょっとムッとした表情で、


「どうしようもないなら、消毒も何もしなくていいよ」


 と返した。


 売り言葉に買い言葉は最悪のパターンだ。私は父の言葉を聞いて、内心「あーあ」と呟いていた。



 父は酒を飲んでいた。


 ただ飲むだけなら気にならないが、酔うことで、酒の力によって普段よりも強気になる者は、どこからどう見ても情けない。父の態度と言葉がまさにそれだった。



 そうじゃなくても私は、父がアリシアに向ける愛情の形にどことなく疑問を抱く場面が多かった。


 なにかのやりかたが間違っているとかそういう細かいことではなく、アリシアのエリザベスカラーを安易に外してしまうその理由としての「可哀想」も、その実、


「カラーを巻いているアリシアを見ている自分が可哀想」


 でしかないような気がしていた。


 本当にアリシアのことを大切に考えていれば、傷を完治させてあげることが最優先になるはずだ。



 父の言葉を聞いた母は怒り心頭に発して、一切喋らなくなった。そういう空気の中で摂る食事は、どう足掻いても重苦しい。


 私はさっさと食事を終えて自室に引き上げた。それから十分も経たないうちに、母は片付けを始めたようで、食器同士のぶつかる音や、流し台に置かれる音がいつも以上に私の耳に強く響いてきた。



 午後六時までは夫婦で仲良く大相撲の千秋楽を見て騒いでいたはずなのに、お互いのたった一言によってこんなにも空気が一変してしまうのか。


 私は苦い顔しか出来なかった。アリシアの足の消毒は、その日のうちに私がしておいた。




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