434話 『ウミ』



「ウミ、ですか」


「うん、そういう名前なんだって」


 魔大陸を抜け、空の下にあるのは地面ではなく、見渡す限りの大量の水。

 風に乗せられて香る、このしょっぱいにおい。これは、あの水から漂っているもの。


 そして、あの水は『ウミ』という名前らしい。

 この香りは、『塩水』というもの。つまりはあの水の中に、こんなににおいがするくらいの塩があるってこと?


 こんな大きな大きな水を見るのも、取り切れなさそうなほどの塩があるのも……まさか、考えたことすら、なかった。


『契約者たちは、海を見たことがないのか?』


「んー……師匠が、そういうのがある、みたいなことは言ってた気がする」


 師匠に拾われてからの私は、ずっと師匠の家とその周辺だけで行動していた。人のいる国に行ったのだって、師匠に着いていったくらいだ。

 ベルザ王国に行ってからは、国の外に出たことなんてなかったし。


 図書室でいろいろ本を読んだけど、『ウミ』なんて言葉が出てきたものはなかったしなぁ。


「私も、ずっと森の中にいて……その後は、隠れながら生きてきましたから」


 私よりずっと長生きの、ダークエルフであるルリーちゃんも、『ウミ』を見たことはないらしい。

 エルフ族は基本的に森の中で暮らしているって話だし、ルリーちゃんの暮らしていたところの近くには、こんな広大な水はなかったってことか。


 見渡す限りの水に、ルリーちゃんも夢中だ。

 魔大陸を抜けてから、空の色も私たちがよく知っているものに戻った。太陽も出ている。


 陽の光が、水に反射してまぶしい。とってもきれいだ。


「ねえねえ、塩水ってことは……飲んだら、やっぱり体には悪いのかな」


「そもそも飲むための水ではないと思いますよ?」


「それもそっかぁ」


 初めて見るそれに、ルリーちゃんとの会話が盛り上がる。

 『ウミ』かぁ……クレアちゃんたちも、見たことないのかな。だとしたら、教えてあげたいな。


 ……なんか、さっきからあいつら静かだな。


「死んだ?」


「いやそれはさすがに………

 しゃべろうとするのが、疲れただけではないですかね」


 さっきは、あんなに暴れていたエレガたちが、今はおとなしくなっている。

 ルリーちゃんの言うように、暴れ疲れたのだろうか。


 口は塞いでいるけど、鼻は解放しているから息はできるはずだし。

 けどまあ……なんか、チラチラこっち見てるな。


 仕方ない。エレガの口だけ解放してあげよう。


「ぷはっ。このやろ、ずっと拘束しやがって。いい加減手足の感覚がなくなってきそうなんだが?」


 口を解放したエレガは大きく息を吸い込み、私を睨んだ。

 そういえば、エレガたちとの戦いの後からずっと縛っているから……もう、かれこれ五日以上は同じ体勢で縛っていることになるのか。


 しかも、牢屋の中で生活していたわけだし、ずいぶん不自由な生活だっただろう。


「ま、私には関係ないことだけどね」


「ずいぶんドライなこと考えてるだろうってことだけはわかったぜ」


「それで、なに、さっきから私のことチラチラ見てきて。気持ち悪いんだけど」


「さっきから辛辣すぎるだろお前!」


 ううん、私ってこんなに、人に冷たい人間だったっけ。自分でもちょっと思う。

 まあ、こいつらに優しくする理由なんかないから、もう本能が嫌っているんだな。


「私にこんな冷たい態度取られるなんて、逆にすごいと思うよ」


「なんの宣言だそりゃ」


 エレガは私をひと睨みした後、その視線を下へと向けた。

 下に広がっているのは、もちろん『ウミ』だ。


 ……ははぁん、そういうことか。こいつも、『ウミ』を見るのは初めてなんだな。

 だから、声を出してはしゃぎたいから、私に拘束を解けって合図をしてきたんだな。


「仕方ない。思う存分に叫ぶといいよ」


「お前の仲でなにが完結してるんだ。

 ……お前、その様子じゃ本当に、海を見たことがねえのか?」


 なぜかエレガに呆れたような表情を浮かべられた。

 そのあと、これが本題だと言うように、エレガが私を見た。


 本当に、ってどういう意味だ。

 自分で言うのもなんだけど、さっきまでの私の反応を見ていたら、疑うことはないだろうに。


 それに……


「その口ぶりだと、エレガは『ウミ』を見たことがあるって聞こえるけど」


「見たことがあるもなにも……当たり前だろ。電車一本で、海のある町にも行けたし……泳いだりもしたわけだし」


 ……デンシャ、とかまたわけっわかんない単語が出てきたよ。

 ただ、わかるのはエレガは『ウミ』を見たことがあるらしいこと。しかも、だ。


「泳いだって……泳げるの!?」


「そりゃ、そうだろ……」


 私の疑問に、エレガはなぜか困惑気味だ。

 なんだよその、知ってて当然だろみたいな顔は。


 『ウミ』っていうのは塩水だから、なんか料理に使うためのものだ思っていたけど……泳げるのか。

 考えてみれば、広いお風呂だって泳ぎたくなるんだ。こんな広い水、泳げるのは当たり前なのかもしれない。


 こんな、広い水で泳ぐ……なんか、考えただけで、ゾクゾクしてきた。

 正直、泳ぎたい。あぁでも、今はダメ。一刻も早く、みんなのところに帰らないといけないんだから!


 よし、決めた。帰って、みんなとまた元通りになれたら、『ウミ』に来よう。そして、みんなで泳ごう!

 うん、それ楽しそう……


『契約者よ』


「ひゃあ! な、なに! べ、別に浮かれてなんか、いないけど!?」


『いや、そうではなく……誰かが、溺れているようだと、思ってな』


 クロガネの言葉に、私は『ウミ』を見る。

 うーん、誰か溺れてる? この高さからじゃ、見えない……


 あ、そうか。クロガネと視界を共有すれば。


「……あ、ほんとだ!」


 クロガネの視界を借りて、『ウミ』を見る。

 そこには確かに……誰かが、溺れているようだった。ははぁ、溺れるってこういうときに使うんだ……


「って、大変だ!?」


 私はクロガネにお願いして、溺れている人の救助に向かった。

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