魔女の家
正直死んでしまおうと思っていた。
過去形だ。
※※※
鬱々しい書き出しではあるけれど本当のことなので書いておく。
具体的な自死の内容まで考えて考えてどうしようもなくなってしまった私に、かかりつけ医から下されたのは「鬱病」という病名と一ヶ月の休職。
出された診断書を抱えて呆然としていた私に、誰が言ったか忘れたが、こう言った。
「長期休暇をとって家に帰ってみたら?」
母が一人暮らす家まではひどく遠く感じられた。世界と自分が分離して、薄いヴェールを隔てたように感じていた。これから2週間ほど、まったく仕事をしなくてもいい。義家族にも気を遣わなくていい──どこか絵空事のようだった。どれだけ道を整えられても、休暇自体は受け入れられないことだった。許されない気がしていた。
電車とバスと新幹線と、ありとあらゆる移動手段でたどり着いた岩手県盛岡駅。駅の構内の、がらんとした空虚は忘れられない。静かで人のいない駅の中を、荷物をゴロゴロ引っ張って、
そこからまた移動、移動を繰り返す。まかり間違って東京まで行かないように、そればかり気を張っていた。
仙台の地を踏んだ時、帰ってきたという感覚は薄く、次の在来線への乗り換えばかり気にして、わたわたしていたことばかり覚えている。小腹が空かないようにと食べた売れ残りのおにぎりはもうすっかり消化されてしまっていた。時刻は夜の10時頃──。
母は私を家へ迎えてくれた。
時間をかけた長い旅だったからすぐにでも眠れそうだったのだけれど、母とはまるで久しぶりという感じもなかった。昨日もこうして家族をしていたみたいな安心感。その中で少し夜更かしをした。
母の家はかすかに柑橘の匂いがする。
アロマキャンドルがたくさんある。
スティックタイプのカフェオレや、貰い物らしいコーヒーや、異国からの土産、甘すぎるチョコレートもある。何より母のお気に入りの、たくさんのアクセサリーや、水晶づくりの置物や、不思議な模様の小物入れ。
たくさんの観葉植物がある。これは買ったもの、これは貰ったもの、これは
クマのぬいぐるみがあった。わたしは家を出る前に、これにくま吉と名前をつけていた。
泣きたくなるほど
安心があり、気兼ねがなく、何より痛いほど張り続けていた気を緩められる場所だった。びっくりするくらい、そこは私にとって「魔女の家」であった。
「西の魔女が死んだ」における、主人公にとってのおばあさんの家のような。
そして母は、私の魔女だった。
泣きながら布団に入った私の枕元、小さなテーブルの上に、魔女はアロマキャンドルを焚いた。ふわっとしたあかりが、寝室の隅をほのかに照らした。いつあかりが消されたのかは、わからない。私はすぐに眠りに落ちてしまったから。隣で母が布団に入ったのに気づかないほどぐっすりと眠ってしまったからだった。
それからの日々のことは、先のエッセイで書いた通りだ。私は束の間の休みをエンジョイした。夫とはいけないようなところ(例えば温泉、例えば神社)などを満喫して、従兄弟たちと旧交を温め、カフェを巡ったりカラオケに行ったりした。もちろん家で魔女と二人、ダラダラした日もあった。魔女の衝動買いに付き合ったりもした。
車で連れ出されるたび、そういえば、世界って広いんだなって、思わされた。
あの家に居る私は、本当の私だったかと疑うような、変わりようだった。一度でも死んでしまおうと思っていたことを忘れるくらい楽しかった。
まだ生きててもいいかなって思った。
それが私の魔女のかけた、一番大きな魔法だった。
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