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小さな悪魔のお気に入り
レイチェルが帰ったあと、ラウネは執務椅子に座って頬杖を突いていた。
仕事はしていない。ただ、執務机の端に置いてある二つの写真立てを見ている。
左側の写真立てには、年甲斐もなく両手で人差し指と中指を立てている、髭を生やした老人とラウネが写っている。
老人は前獄吏官長だ。
ラウネを監獄棟に誘って教えるだけ教えて、獄吏官長と主席尋問官を押しつけて引退した、ラウネも認める変人。
そして右側の写真立てには、士官学校の制服を身に付け、左胸元に桃色の花を付けているラウネとレイチェルが写っている。
卒業式のとき、ラウネの使用人が撮ったものだ。
本当は記念撮影だなんて人間じみたことをしたくはなかったのだが、そう渋っていたらレイチェルが『折角、ご家族が用意してくれたのだから――使用人は兄の差し金で
レイチェルまでも写っているのは、使用人が一緒にと勧めたからだ。
この写真はレイチェルも持っている。現像したものを使用人に言われてラウネが渡したからだ。そのとき彼女は結構、喜んでいた。証明写真以外に写真を撮ったのはこれが二回目だと言って。レイチェルはこの写真を、一回目に撮ったであろう写真と並べて自宅に飾っている。
もともとラウネも自宅に飾っていたのだが、前獄吏官長が私物を片付けていたとき『写真立てはそのまま置いておくからーなんか飾るといいぞー』と言ってきたので、自宅に唯一あるこの写真を持ってきたら『なんじゃい一枚しかないのかーそれならワシと撮るかー』と強引に撮られたのが左側の写真だった。
――あの老人は性質がないわりには、なかなかに面白い人物だったが。
ラウネは写真の老人から視線を右側に移した。
そしてレイチェルと共に写っている写真を改めて眺める。
不満げにしている自分の横で、レイチェルは少し気恥ずかしそうに微笑んでいる。
年齢のわりには容姿が大人びているのと、灰目であることを除けば、どこからどう見ても普通の少女だ。
「戻りました」
帰ってきたマルルを、ラウネは写真の彼女を見たまま「んー」と空返事で迎える。
「レイチェル様、帰られたんですね」
「んー」
「紅茶のおかわりはよろしいですか?」
「んー」
空返事しか返さないラウネをさして気にすることなく、マルルは応接机の片付けを始めた。それにより、カチャカチャとティーセットが立てる音が耳に入ってくる。
それを聞きながら、ラウネは先ほどレイチェルが口にした言葉を思い返していた。
――事件を解決してくれて感謝してる。
その言葉に嘘はない。
彼女は心から感謝を述べていた。
犯人が捕まってこれ以上、犠牲がでないことに安堵していた。
だというのに。
――助けてくれて感謝しているよ。
自分のことになると全くの他人事だ。
ラウネが行かなければ死んでいたというのに。
自分でも死を覚悟していただろうに。
それなのに何事もなかったかのように、どこか軽薄な物言い。
――私は普通の人間だ。
続いて彼女が度々、口にする言葉に、ラウネは思わず笑いを漏らしていた。
「どうかされましたか?」
マルルが不思議そうな顔で見てくる。
「ねーホルホルー」
ラウネは頬杖のまま視線だけを前に向けた。
「はい?」
「キミはさー自分が普通の人間だって思うー?」
「いえ、思いませんが」
マルルは間髪いれずにそう答えると、首を傾げた。
「それがどうかされましたか?」
「いんやー。自覚ないのが一番怖いなーて話ー」
マルルは頭に疑問符を浮かべたが、それでもラウネが意味の分からないことを言うのはいつものことなので、深く考えることはせず応接机を拭き始めた。
ラウネは再び、写真の彼女に視線を戻す。
――そう、自覚がない。
レイチェルは本当に自覚がないのだ。
彼女は心の底から、自分が普通の人間だと思っている。
それはある意味、間違いではない。
人間は家畜などの命を喰らうことで、自分は喰われる側――被食者ではなく、喰う側――捕食者なのだという感覚が無意識に植え付けられている。
たとえ自覚がなくとも、人間の潜在意識下には確かにそれが存在している。
そして、それは家畜の生産や加工に近い環境にいる人間ほど根強い。
そう。生家が牧場のレイチェルはまさにそれに当てはまる。
だが十二年前、彼女はそれまで植え付けられていた捕食者意識を
人間は決して食物連鎖の頂点に君臨しているわけではない。
人間は捕食者でもあり被食者でもあるのだと、意識の根底から自覚させられてしまった。
だから彼女はあのときから自分の存在を、こう思っているのだ。
自分の命は、今まで自分が喰ってきた豚や牛や鶏となんら変わりがない。
家畜がその
あのとき本当は喰われるはずだった自分は特別でもなんでもない、普通の人間なのだと――。
レイチェルが
それはレイチェルが後天的に発芽した性質の一つになる。
その影響で人間という種の一人であり、その中でも普通に過ぎない自分が傷つき失われることに、彼女はなんの恐れも
自分の命が脅かされそうになったときには人に備わっている生存本能により抵抗はするが、根底では自己防衛意識を全く持ち合わせていない。
家畜を一匹殺して喰ったところで代わりがいるように、自分が死んでも代わりはいると、卑屈ではなく心からそう真面目に考えている。
だから死をいとも簡単に受け入れてしまう。
命を助けられても、なにも感じない。
自己愛が希薄であるために、自分の命に執着がないために、そこに感情が生まれない。
だというのにレイチェルは、ほかの人間が失われることだけは我慢ならない。
それらも人間という種の一人であるはずなのに、失われても仕方がない命であるのに助けようとしてしまう。
その命を案じ、失われたら心を痛めてしまう。
それ自体はなにもおかしなことではない。
他者を思いやり、他者のために行動するのは、人としては健全な精神の動きだ。
生存本能と同じく、人にはそういうものが備わっている。
人が他者のために、ときには見返りを求めることなく行動ができるのも、そのためだ。
もちろんその精神の動きには個人差があるが、間違いなくレイチェルはその傾向が強い。
彼女は相手が見知らぬ人間であろうとも、身の危険も
それは性質とは関係ない。
彼女は元より、そういう人間なのだ。
たとえ自分の命に執着があったとしても、他者のために
そして、そういう人のことを世間では、人間らしいと評する。
そう――レイチェルは全くもって人間らしい。
健全な精神を持った人間だ。
だが、彼女にいたっては矛盾している。
全くの矛盾だ。
性質に反する精神だ。
とは言っても性質も絶対ではない。
性質とは魂に結びついた人に科せられた枷であり、その人の行動原理をも左右するものではあるが、強い意志があればそれに反した行動に出ることはできる。
だが、そのためには代価が必要だ。
罰という名の代価が。
だから彼女はいつも、代価とも言うべき罰を受けている。
命を喰らうとき、故郷の人々を思い出すとき、それを見る。
あのときの光景を、喰われた故郷の人々を見させられている。
それなのに彼女は平然としているのだ。
喰われた人々に――死者に見守られながら。
自分が人間という種の一人に過ぎないのだと。
本来は自分もそうなるはずだったのだと再認識させられながら。
それがさも当り前のように生活し、死者の前で心穏やかに命を喰らうのだ。
全く、イカれている。
レイチェルほど人間らしく、イカれている人間を、ラウネは見たことがない。
「さーて。なにしようか考えとかないとなー」
背伸びしたラウネをマルルが見る。
「レイチェル様になんでもしてもいい権利のことですか?」
「そだよー」
「拷問だけは止めてさしあげてくださいね」
「わかってるってー」
レイチェルを案じるように言ってきたマルルにそう答えると、彼女は安心したように微笑んでからティーセットを乗せたトレーを手に部屋から出て行った。
それを見送ってからラウネは心中で付け加える。
とりあえず今はね――と。
今回の事件の犯人がなにかしらの性質持ちだということは、新聞記事に書かれていた犯行状況だけでもラウネには予測がついていたし、興味も持っていた。
だというのに最初、近衛隊からの捜査協力を断ったのは、ひとえにレイチェルをこの件に関わらせるためだ。
近衛副長とレイチェルが同じ孤児院出身なのは、以前からラウネも知っていた。
そんなこと彼女と出会ってすぐに調べ上げている。
生い立ちも交友関係も全て、把握している。
だから捜査協力を断れば、近衛副長からどのような経路を辿れど、最後には必ず変人の唯一の友人であるレイチェルに繋がることは分かっていた。
そして、それから彼女がとった行動もまさに予想通りだ。
そうしてわざわざ回りくどいことをして手に入れたのが、以前から漠然と欲していた『なんでもしてもいい権利』だ。
これまでラウネは、レイチェルに対する欲求を抑えていた。
友人という関係を築いている以上、それから逸脱するような行為はできないからだ。人間関係というものは一度、
だが、権利さえあれば、レイチェルはなにをされたとしても文句を言うことはない。それにより関係が壊れることもない。彼女は頭が硬すぎるがために異常に律儀で、そして自己愛が希薄だ。節度ある内容にとどめろと言いながらも、約束とあらばどんなことでも受け入れる。自分の身よりも約束を優先する。
そう。たとえそれが拷問だとしても。
それは正直、魅力的ではある。
ラウネが今まで拷問したことがあるのは、己が身が可愛い犯罪者ばかりだ。
それも当然だ。拷問という行為は対象に苦痛を与えることで心身共に追い詰め、情報を引き出すことを目的としている。拷問対象は苦痛から逃れるために、自分を守るために口を割るのであり、死にたがっている人間や命を捨てる覚悟をしている人間にそれを行なったところで大して効果はない。
だからラウネはまだ、そういう人間を拷問したことがない。
命に執着のない人間が追い詰められたとき、どのような声を上げ、どのような表情をするのかを知らない。
そして、職権乱用でもしない限り、この先も見られることはないだろう。
だからこそ興味がある。
それがレイチェルなら尚更に。
彼女の性質もさることながら、友人だと思っている人間に苦痛を与え続けられたとき彼女がどんな反応を示すのか――想像しただけでも心が躍り、気持ちが高ぶる。
だが、それをするには時期尚早だ。
今回、ラウネが事件を解決したことは昨夜、現場に来た守備兵から近いうち守備隊内部に広まることだろう。それは学生時代にラウネが事件を解決した際の守備隊の反応からして、推測することができる。するとこれまた学生時代のように今後、守備隊が手に負えない事件が起こった場合、今回のことを先例としてラウネを頼ってくるのは間違いない。
そうなるとまず、相談されるのはレイチェルだ。
変人の探偵を動かすためには彼女に頼むのが最善の方法だということは、レイチェルと近衛副長の知人である守備隊の区画長あたりは必ず思い至る。
そして、相談されたレイチェルがそれを断ることは絶対にない。
レイチェルは他者の命を守るために、自らの身を差し出してでもラウネを動かそうとする。
今回と同じような行動を取る。
つまりこの権利はまた、手に入る。
だから急く必要はない。
それに物事には順序というものがある。
段階を踏んだほうがなんでも長く楽しめる。
最初から最高に近い手札を切るのは得策ではない。
そんなのは目先の欲求に捕われた馬鹿がすることだ。
自分はそんな愚かなことはしない。
だいたい彼女はそんじょそこらの性質持ちではないのだ。
貴重な存在だ。
最上のおもちゃだ。
あんな人間には、生きているうちに二度と会えるとは限らない。
だから少しずつ遊ばないと。
いつか壊れるその日まで、大事に、大事に――。
ラウネは嬉しそうに微笑むと、ペンを手に取り仕事を始めた。
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