大陸暦1526年――旧知


 近衛隊長室を出て少し歩いてから私は右隣に顔を向けた。

 そこには並んで歩くリビア近衛副長の姿がある。


「一人で大丈夫ですよ」


 そう声を掛けると、彼女はこちらを見上げてほんの小さく微笑んだ。


「そう言わないで。気を遣ってくださったのだと思う」


 それは先日、騎士団長室で話したときのような堅苦しいものではなく、親しみが込められた口調だった。声音も幾分か柔らかい。


「へぇ、私たちのこと話してるんだ」私も口調を崩す。

「世間話程度にね」


 実のところ近衛副長――リビアとは昔からの知り合いだ。

 出身、というよりは育った場所が同じで、子供のころに世話になったことがある。

 私がに行ったころにはもうリビアは士官学校に入っていたので、学校の長期休暇ぐらいにしか顔を合わすことはなかったが、それでも私にとっては姉のような人だ。

 だから氷の副長と呼ばれる彼女が、その名の通り冷たい人ではないことぐらいは知っている。リビアはただ人より少し落ち着き過ぎているだけなのだ。彼女だって普通に笑うし怒ることもある。それが表情に表われないのは我慢しているのではなく、本当に出ないからだ。昔に一度『私には表情筋がないから』と冗談を言っていたのを覚えている。本人も自覚があるのだ。


「半年過ぎたわね」


 リビアが言った。私が騎士隊長になってからという意味だ。


「ああ」

「隊長の職務には慣れた?」

「人に命令をする立場なんて、そう簡単に慣れるものではないよ」

「そう? 様になっているけれど。貴女って子供のころから態度が大きかったし」

「それ、褒めてるんだよな?」

「そのつもりだけど」リビアが目を細めて笑う。


 本音と冗談を交えた発言だろう。

 それでふと思い出す。そういえば子供のころ、同じ村の子供から偉そうとか男みたいな喋り方だなといじられたことがあったなと。当時は特に気にしていなかったが、今にしてみれば確かにと思う。大人ならともかく小さな村の子供――しかも女児でこの喋りかたはいささか変ではある。

 私のこの言葉使いは父のものがうつったのではなく、父よりもそばにいることが多かった母の影響によるものだ。父は大柄な体格に似合わず性格も口調も柔らかい人で、逆に母は女性的でありながらも性格や口調が男前の人だった。

 母は村の外から父の元に嫁いできたらしいが、そういえば出身を聞いたことがない。

 私はリビアの奥、通路の壁に立っている人影に目を向ける。

 肉が失われ骨が所々露出した姿で、眼窩にはめ込まれた深緑の目玉がこちらを見ている。

 そういう話を聞きたいと思っても、聞く術がないのが残念だ。

 母はもう、喋ることができないから。


「そういえば、先日は気を遣わせてしまったわね」


 私はリビアに視線を戻して首を傾げた。


「貴女とサーミル獄吏官長のこと、私が以前から知っていたのを黙っててくれたでしょう?」

「ああ」


 そういえばそうだった。

 リビアは城下守備隊の区画隊長に士官学校の同期が三人いる。

 その中の一人が東区画隊長、シャーク・シャルテだ。そう。エルデーンの兄上であり、私が学生時代にラウネの推理を話した人物でもある。

 私がシャークと知り合いだったのも、リビアを通してのことだ。

 つまりは私とラウネが友人だということを、リビアは以前からシャークに聞き知っていたということになる。そして、そのことは私も知っていた――知っていたのに、すっかり忘れていた。


「ただ、忘れていただけみたいね」


 リビアが私の心を見透かすように言った。

 どうやら彼女は先日、私がなにも言わなかったのは、ナルドック団長の顔を立ててのことだと思っていたらしい。


「いや、覚えててもそうしてたさ」


 それは言い訳ではなく本心だった。自分のことを気が回る人間だとは思っていないが、それぐらいの気遣いはできるつもりでいる。

 しかし、リビアには言い訳に聞こえたらしく、彼女は「はいはい。そうね」と軽く聞き流すように言うと、小さく苦笑した。……完全に子供扱いされている。

 まあ、彼女は私よりも七つ年上であるし、出会ったころは私もまだ子供だったからその感覚が抜けない気持ちは分かるが、それでも十八にもなってこの扱いは流石に羞恥を覚えてしまう。

 私は気恥ずかしさを紛らわすように辺りを見回した。丁度、通路には私たち二人以外に人の姿はない。

 誰にも見られていなくてよかったと安堵しながら――リビアもそれを踏まえた上での発言だろうが――たった今、思いついたことを口にした。


「にしてもなんで最初から私に言わなかったんだ」


 そう。リビアは私とラウネが友人だということを最初から知っていたのだ。あいつがあんな返信をしてきた時点で、頭が回るリビアが私のことを思い浮かばないわけがない。

 私の疑問にリビアの眉が一瞬、ぴくりと動いた、気がした。まるで動揺するかのように。


「春先は新人も入隊してどこも忙しいから。それに加えて貴女は隊長になって初めての新年度だし、まだこの時期の忙しさには慣れていないでしょう? だからあまり手間を取らせるようなことはしたくなかったの」


 その言動はいつもの彼女のものだった。表情にも声音にも変化はない。

 先ほどの反応は気のせいか――そう結論づけて私は返す。


「そんなに気を遣わなくてもいいのに」

「それなら訊くけど貴女、先月に怒涛に届いた手続きの書類を全部片付けたの?」


 私は思わず、ぐっと顔を歪めてしまう。まさに今、溜めに溜めてしまったそれを片付けている最中だ。

 表情で全てを察したのか、リビアがため息をついた。


「そんなことだろうと思ったわ」

「なんで分かったんだ」

「貴女、昔からそういうの苦手じゃない。それにヘルデン副隊長殿が事務仕事を好まないのも有名な話だし」


 あいつの事務嫌いってほかの部隊にまで知れ渡っているのか……。


「それが本当かどうかは流石に私も知らないけれど、事実ならばほかに補佐を付けたほうがいいんじゃない?」


 リビアが気遣うような目を向けてくる。


「ああ。そうしようと思っているところだ」

「そう」


 そう言ってリビアは前を向いた。私は彼女の横顔を見ながら相変わらずだな、と思った。表情の変化があまりないことから希薄そうに見えるかもしれないが、リビアは元来、優しくて面倒見のいい人なのだ。

 それは近衛隊員にも伝わっているようで、氷の副長という呼び名にしても悪名というわけではないらしい。近衛隊にいる友人によれば氷のような冷静さと、その氷が溶けたかのような優しさを持ち合わせているという意味合いでそう呼ばれているだとか。取っ付きにくさはあるものの、部下の評価は上々だという。

 締めるときは締めて、緩めるときは緩める――一張一弛なところは私も見習いたいところだ。

 そこで話が途切れた私たちは、肩を並べて無言で歩いた。昔からの付き合いというものあり、特に気まずさは感じない。

 それから二階から一階に下りたところで私は思い出した。


「言い忘れてた。悪いけど薬品店が分かったらうちにも送ってくれないか」


 そう言うと、リビアは微かに眉を寄せた。


「それはいいけれど。でも一人で無茶をしては駄目よ」

「それでどう無茶に繋がるんだ」

「だって貴女、一度、首を突っ込んだらほうっておけないたちじゃない」


 私のことをよく理解している、と私は内心で苦笑した。

 そして気づく。私とラウネが友人だと知っていて直接、私に相談しにこなかった本当の理由を。

 春先で忙しいからという気遣いはリビアの本心でもあり、別の本心を隠すための嘘だ。本当はこの件に私を巻き込むのが嫌だったのだ。

 それでもなんとかラウネの協力を取り付けたかったリビアは、少しでもラウネと接点のある人間に相談した。その一人がナルドック団長だ。

 ラウネは士官学生のときに研究棟や監獄棟だけでなく、騎士団からも誘いを受けていた。その際にナルドック団長はラウネと会ったことがあるらしく、あいつが獄吏官長になってからも仕事のことで何度か面識があると聞いている。だからリビアはナルドック団長にラウネと取り次いでくれないかと相談したのだ。

 しかし、そこで予想外のことが起こった。ナルドック団長の口から私の名前が出てしまったのだ。相談相手から勧められては流石のリビアも断ることができなかったのだろう。

 そこまでしてリビアが私をこの件に関わらせたくなかった理由は想像がつく。

 おそらく私が子供のころ、まさに事件に首を突っ込んで無茶したことがあるからだ。しかも一度で懲りずに二度も。それで私が怪我をしたことを彼女はまだ覚えているのだろう。


「だとしても、もう子供ではないのだから」


 そう。だとしてもだ。もう私はあのころのように無力な子供ではない。自分の身は自分で守れるし、たとえ守れなくとも、それは誰の所為でもない。大人である自分だけの責任だ。子供のころとは違い、周りの大人が責任を感じる必要はない。


「レイチェル」


 リビアが足を止めた。私も数歩先で足を止めて振り返る。

 彼女は淡い苦笑を浮かべていた。まるで、困った子供でも見るかのように。


「それ、子供のころも言ってたわ」


 それには私もなにも返すことができず、ただ子供のころと変わらない自分に気恥ずかしさを感じながら目を逸らして首筋を掻くしかなかった。


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